今まで何百本と映画を観てきたが、初めて目にするタイプの映画だった。映画? 映画館で上映するのだから映画なのだろうが、はっきりそうとも言えない。淡々と自分のペースで本を読みきった感覚に近いものがあった。冒頭のシーンで映し出される暗闇。映像なのだがカメラが動く気配はない。ただじっと、構えている。レンズの向こうで暗闇が変化するのをただただ観客は見つめる。暗闇は少しずつ明るくなってきて、何もない暗闇が木々の風景だということがわかる。気がつけば暗闇は消え、そこには光を帯びた風景が広がる。夜が明けた朝の光。ずっと見つめていたはずなのに、夜と朝の境目はいつもわからないのだと少しがっかりすると共に、今観ていたものがスクリーンの中の風景だったことに気がつき何とも不思議な気持ちになった。
「眠り姫」は全編を通して人物がスクリーンに登場することは、ほとんどない。しかしずっと登場人物の声だけは聞こえてくる。映し出される風景は、その登場人物の目から見えているものでもない。目に見えるものではなく、心に浮かんだ風景なのである。人が何かを思う時、必ずしもそのもの自体をダイレクトに脳裏に描くわけではないと思う。例えば、愛する人に会いたいと目を閉じた時に、その人の顔ではなく、まぶたの裏に何故か温かいマーブル模様の色彩が浮かび上がっていたり、光がてらてらと輝いていたり、そんなことがあると私は思う。「眠り姫」はそんな風に人に説明できない心象風景の連続の物語なのだ。主人公の青地は、このごろ眠っても眠っても眠り足りなく、全てがぼんやりとしている。ぼんやりとまどろっこしい日々が続いている。劇的に気に入らないことがあるわけではない。漠然とした得体の知れない不安が彼女を包みこんでいる。人間は誰しもが、そんな時間を生きたことがあるだろう。思い返せば、私なんてずっとその連続のような気もする。不安の原因がわかれば、解決の糸口も見つかるかもしれないが、何が不安なのかわからないことが、より一層の不安を生む。青地の気持ちが自分と重なる。しかし、もしこれを一般的な映画の手法で描いていたら私は共感することはなく、ただただ主人公にいらいらしただけのような気がする。不安を声と心象風景で描くことで、観客はまるで自分の心の中をスクリーンに映し出されたかのような錯覚に陥ってしまう。「眠り姫」はホラーではないのだが、観ている間中、背筋が凍りつくようだった。美しい光の映像を観ているのに怖い。その光は自分が行き着きたいただの理想の形で、あまりにも遠いものに感じてしう。青地は恋人や同僚と話をしている時でさえ、ひどく孤独なのである。そもそも孤独というのは一人よりも大勢でいる時に感じるものなのかもしれない。孤独や不安の中にいる時、自分の意識を希薄にさせることで、そこから逃れられる気がする。意識が最も希薄になる瞬間というのはいつだろうか? それは、きっと眠りの中に身を委ねている時だろう。不安も孤独も全てを忘れ、ひたすら眠るのだ。でも孤独と不安は夢にまで追いかけてくるかもしれない。人はどこへ行っても、それらから逃れることはないのだろうか。「眠り姫」を見てそんなことを考えたのは、きっと自分の心を映し出されてしまったと思ったからなのだろう。現実なのだろうけど、夢のような奇妙な映画である。