『夜顔』(原題 : Belle Toujours)はタイトルが端的に表しているように、ルイス・ブニュエル監督へのオマージュであり、『昼顔』(原題 : Belle De Jour) の登場人物の38年後を描いたものなのだが、ここではそういった映画史的な文脈を遠く離れて、さらには、監督がポルトガルが誇る世界の巨匠と称されるマノエル・ド・オリヴェイラであるとか、主演の二人がフランス映画界を代表する俳優のビュル・オジエとミシェル・ピコリであるといった、言わばこの映画の宣伝文句になっている事実を失礼ながら放置して、ごくごく純粋に、一本の映画として、紹介してみたい。だから、もしあなたがブニュエルの『昼顔』を観ていないのなら、本作品を観るために、わざわざレンタル店に足を運ぶ必要はない、そうあえて言っておこう。知らないということは時としてラッキーでもあるのだ。かくいうぼくも『昼顔』は学生時代に一度観たきりで、カトリーヌ・ドヌーヴがやたらとセクシーだった、ということくらいしか覚えていない。
さて、もう十年以上も前の話になってしまうけど、ジャーヴィス・コッカーが『コモンピープル』でブレイクした後のインタヴューで、おおよそ次のようなことを言っていたのを覚えている(あくまでも、おおよそ、であることをご了承願いたい)。「若い連中が人生に失望してしまうのはハリウッド映画のせいだ。完璧な人生がありきたりに存在すると信じ込まされてしまうからね。けれども実際は、ぼくらの99%がぱっとしない人生を送ることになるのさ。」
まあ、ハリウッド映画、と一口に言ってもいろいろあるのだし、なるほど英国のポップ・ミュージシャンらしい揶揄を鋭く効かせた物言いであるけれど、言いたいことはわかるし、あたらずといえども遠からずだろう。むろん、時には「ハリウッド映画」のダイナミズムやハッピーエンドやカタルシスを堪能して、日頃の鬱憤を晴らすのもいいだろう。けれども、そういうハリウッド映画的コードに頭をやられてしまうと、いずれ実人生とのギャップに苦い思いをすることになるかもしれない。なにしろ、ぼくらの人生において、たいていの後悔は後悔のままに発酵してゆくし、多くの欲望は欲望のままに干涸びてゆくし、ほとんどの矛盾は矛盾のままに燻り続けるし、屈辱を晴らす機会なんてなかなか与えられないし、劇的だと思ったらただの勘違いだったりするし、そうして、久しく胸に抱いている謎は謎のまま忘却の彼方へ消え去ってゆくことになるのだろうから。要するに、残尿感こそあれど、ぱっとしないし、やるせない、のである。
しかし、ぱっとしない、やるせない、というのは、浄化できなかった感情の残滓が内面のそこかしこに散らばっているということでもあり、それはちょっと発想を変えれば、豊饒でもあるということだ。その豊饒さが育む妙味というのが確かに存在する。ユーモアやペーソスは明らかにそうだし、ある種のエロチシズムや優雅さも、そんな土壌で育まれるように思う。
『夜顔』もまた、そのような豊饒な土壌から生まれた、実に味わい深い映画だ。すでに老境に入った男と今まさに老境に入ろうとする女の、劇的とは言い難い再会。ウィットに富んだ、というよりは、ちぐはぐな感さえある会話。別世界から闖入してきたかのようなオフビートな脇役。ところどころに散見されるいささか不気味な諧謔。変拍子のような、あるいは周回遅れのような展開。美しいと言えば美しいが、凡庸と言えば凡庸かもしれないショット。意味深げな、はたまた意味を拒むかのようなフレーム。おかしみを醸し出す、すっとぼけた演出。にもかかわらず、いや、だからこそ、一つ一つのシーンが、観ている者の心に深く切れ込んでくる。
ぼくはとりわけ、アンリとセヴリーヌの食事のシーンが好きだ。時間にして五分近くになるだろうか。言葉をまったく交わさずに黙々と料理を口に運ぶ二人をカメラは長回しで捉える。時に控え目に、時に大胆に、交差する二人の視線と笑みの中に、熟し切った男と女だけが持ちえる複雑な心持ちや密やかな思惑がぼんやりと浮かび上がってくるのだ。
人生に期待しすぎてはいけないように、この映画にも過剰な期待を抱いてはいけない。そして、過剰な期待さえ抱かなければ、『夜顔』はあなたに、やるせなさの後に訪れる悟りのような、悲しみの後に押し寄せる安堵のような、穏和かつ優雅な気持ちをプレゼントしてくれるだろう。
願わくば、ラストシーンでのアンリのように、一つの企みが、ひいては企みの連なる人生と言うほかないものが、いまいちな結果に終わってしまっても、不敵な笑みを浮かべつつ超然としていたいものである。もっとも、この場合、いまいち、というのが味噌で、もしそれが惨憺たる結果なら、さすがにそのように乙な態度をとっていられるわけはないのだが、そのへんのことについてはまた別の映画のときにでも書くとしよう。