映画見聞録

映画をこよなく愛する人々が各界より集い、巷で話題の作品から通好みの渋い作品まで、独自の視点で書き綴る「偏愛的新作映画紹介」コーナー。日本を「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにはじめて紹介したマルコ・ポーロのように、新作映画のまばゆい輝きをみなさんにお届けします!

【Story】

 1976年の唐山大地震で両親を亡くし孤児院で育てられたリー・ミンは、昆林医科大学の植物学者、チェン教授のもとに実習生として彼の植物園に赴く機会を得る。園に到着するなり教授は、時間を守らないとミンを怒ったが、父に服従する娘のアンは同じ年頃のミンを温かく迎え入れる。落ち込んだ彼女を慰めるアンもまた、10才で母を亡くしてから、厳格な父と二人きりで孤独な暮らしを送ってきたのだった。似たような境遇のミンとアンは次第に心を通わすようになり、ふたりの愛は深まっていく……。

Review

佐藤弘

 なによりも先に書いておきたいのはリー・シャオランという女優がきれいだということで、切れ長の目と口元の微笑と薄幸で妖艶な佇まいに僕は終始うっとりとしていました。
 そのリー・シャオラン演じる植物学者の娘のチェン・アンと、植物園に実習生として行く孤児院育ちのリー・ミン(ミレーヌ・ジャンパノワ)はあっという間に恋に落ちる。この映画は中国でタブーとされている同性愛をテーマに、同性愛の物語をただ描きたいわけではなく、くっついたり離れたりする関係性からストーリーが生まれるわけでもない。アンの父親である植物学者のチェン教授は厳格な性格で、神経質過ぎるくらいに全てが自分の思う通りに事が進まないと気がすまない。チェン教授とアンが住む植物園は、一つの小さな島全体が植物園と住まいとなっていて湖に浮かんでいる。そこには小船を漕いでいかないと辿り着けない設定となっており、植物園は社会とは隔絶された異空間としてある。植物学者であるチェン教授が神経質でなければいけないのは、自然を意のままに操るために、徹底した人間の管理体制が不可欠だからで、チェン教授はその役目を一身に背負っている。娘のアンですら例外ではなく、父親の管理の下に自由がほとんどない。父親の内出血し、醜く変形した足の爪を切らされるアンの寂しげな顔といったら、もう、なんというか、ミンではなくとも僕はすぐに恋に落ちてしまった。ようするに、アンとミンは植物であり自然の象徴だ。そして生命の奔放な自由としての女性の象徴でもあり、チェン教授は植物に対する人間として存在しており、束縛する男性の象徴でもある。チェン教授は、ミンという女性が植物園に加わると、管理ができなくなり、全てが狂っていく。自然の脅威が強まったためだ。だから、同性愛は必然的に起こり、そして、二人の恋物語だけで映画を見ると、全体を見失ってしまう。
 ほとんどの登場人物はなにかの象徴として立たざるをえなくて、とても分かりやすく構造的に描かれている。けれど、それらが嫌味に見えないのは、そのように大枠の設定だけをまず作り上げ、その中で詩的な映像で語っていくからで、この映画を構造的に読み解くことには何の意味もない。全体的な映画の美しさが、すでに監督の中国への痛烈なアイロニーとなり得ているからだ。
 ただ、リー・シャオランの美しさといったらもう尋常ではなくて、最初にミンと出会う時、アンは父親と一緒にいるために、いちいちミンに辛くあたるチェン教授に逆らうことなく、使用人のようにいたって控え目に構えているのに、チェン教授の支配を離れてミンと二人きりになると、途端に人懐っこくミンに喋りかける時の笑顔といったらない。そのギャップの加減がとても巧みだ。植物園の植物は決して自然ではなく人工的な美しさなのだけれど、その儚さこそが美しいのであって、アンはその儚さと奔放さを同時に持ち合わせている。
 僕がここでケチをつけてもこの映画の良さには全く影響がないと思うので、正直に言うならば、この構造的な描き方は、おそらく設定だけ作ってしまえばそれでいいような気もしたのは否めなくて、終盤へと方向性を決めて進んでいくやり方などは、なんとなく、ラース・フォン・トリアー的な上手くまとめたなあという感想を持った。何度も言うようだが、この映画の見所は構造的に読み解くところではなく、映像の美しさによるその語り口なのだが、まさにその美しさが人工的に見られてしまうとでもいうのだろうか。
 そもそも彼女らの恋愛の儚さが、チェン教授の管理の下にあるという設定によるのであれば、その愛を主題においた作品が、最終的にハッピーエンドであっても、またその逆だとしても、彼女らの恋愛はなんらかの意味で破綻をきたすだろう。なぜならば、映画の登場人物は個人から離れて象徴的な存在として立っているからだ。彼女らが愛という象徴ならば、同性愛でなくても、彼女らが社会的に、ましてや中国という国で存在することは不可能だ。まさしく、映画の中でも二人はある出来事がきっかけで社会的に悲劇として破綻をきたすのだが、ある方向性を示さなくとも、彼女らは崩壊する運命にあったはずだ。それは最初からすでに、ミンが植物園を最初に訪れた時に、鳥籠の中で飼われたオウムをチェン教授に土産として贈るというシーンで暗示されていたのだし、それはとても効果的であったし、十分伝わるんじゃないか。映画に限らず作品というもの全てが、チェン教授のような男性的な束縛と支配から逃れられない宿命を帯びているのならば、まさに監督が全てを支配できない風景と俳優から醸し出すものにこそ説得力があって、それがミンとアンの恋愛と重なる時にこの映画の結末は監督の意図から逸脱していかなければならなかった。
 大枠の設定を与えられることによって、彼女らは個人的な物語から離れて、二人の恋愛の純粋性の中で戯れることができた。それらの映像はとても美しく、それだけで十分に語れる強度を持っている。だから、それよりもなによりも、リー・シャオランさえ見られれば、それでもう満足でした、という感想が別におかしくないのは、彼女らの美しさを際立たせることこそが、もっともこの映画に説得力を持たせるからだ。

プロフィール

佐藤弘(さとう・ひろし)
作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。
ポプラビーチを読んだ感想をぜひお寄せください。
皆さまのおたよりお待ちしております。
感想を送る
WEB マガジン ポプラビーチ powered by ポプラ社
ポプラビーチトップへ戻る