映画見聞録

映画をこよなく愛する人々が各界より集い、巷で話題の作品から通好みの渋い作品まで、独自の視点で書き綴る「偏愛的新作映画紹介」コーナー。日本を「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにはじめて紹介したマルコ・ポーロのように、新作映画のまばゆい輝きをみなさんにお届けします!

【Story】

 シャセセディン(メヒディ・モラディ)はコーランを諳んじている者だけに与えられる称号を受け、"ハーフェズ"と呼ばれるようになり、高名な宗教者の娘・ナバート(麻生久美子)にコーランを教えはじめる。ナバートは外国育ちのため、コーランの知識が少ない。見つめ合うこともないまま、コーランや詩を詠み合ううちに、恋に落ちていくふたり。恋心を隠せず、聖職者として禁じられている詩を詠んでしまったハーフェズは罪を問われ、称号を剥奪、住む家も失う。父親により別の男と結婚させられたナバートは原因不明の病に落ちてしまう。引き離されたふたりは、再び出会うことが出来るのだろうか.....。

Review

桜井鈴茂

 ひょっとすると、ぼくがバカなだけなのかもしれないが、この映画、正直言って、よくわからないのだ。難解というのとは違う――例えば、ゴダールのいくつかの作品がそうであるように。哲学的とかシュールとかいうのとも違う――例えば、初期のヴァンダースやデイヴィッド・リンチがある意味そうであるように。ああそうか、強いて言えば、アキ・カウリスマキ作品の「よくわからなさ」に近いかもしれない。と書いた端から、いや、それもちょっと違うな、と思ってしまう。いずれにしろ、よくわからない、のだけは確かだ。もっとも、よくわからない、イコール、つまらない、ということではないのだけど。往々にして人は、よくわからない、からこそ、その対象に引き込まれてしまうもの。違いますか? よくわからない異性に惹かれたりしませんか? 少なくともぼくはそうです。……いやまあ、とはいえ、やはり「よくわからない」映画を鑑賞するというのは、なかなかどうして骨の折れることだったりもするのだが……。

 宣伝文句の中に「イラン版“ロミオとジュリエット”」とあるように、『ハーフェズ・ ペルシャの詩』を簡潔に紹介するなら、コーランを諳んじている者だけに与えられる称号を受け“ハーフェズ”と呼ばれるようになった青年と、高名な宗教者の娘・ナバートの、運命的な恋物語、となるのだろうけれど、しかしながら「恋物語」と言い切ってしまうには、当の二人が絡むシーンが少なすぎるし、トーンもいささか単調、もしくは静穏だ。つまり、恋以外の要素があまりにも多く盛り込まれているし、プロットは複線的にして幻想的だ。そう、まるで長大な散文詩のごとく……。それもそのはず、イランの気鋭、アボルファズル・ジャリリ監督の最新作であるこの映画は、現在も絶大な人気を誇る14世紀のペルシャに実在した伝説の詩人ハーフェズの詩句にインスパイアされて製作されたものだという。ちょっとややこしいが、主人公の“ハーフェズ”とは別人のそのハーフェズの詩は、ドイツの作家、あのゲーテをして「ハーフェズの詩を理解するには魂まで汗をかく必要がある」と言わしめるほど、様々な解釈を可能にする暗喩に満ちたものであるらしい。ふむ。なるほど。ならば、いっそ、こう明言してしまっても構わないのではないか――これは、映画の形をとった、一編の詩なのだ、と。そうすっと、ずいぶん楽になる。なぜって、詩ならばわからなくて当然だから。でしょ? 一読して完全に理解できる詩なんて、逆につまんないでしょ? 詩は、読むごとに意味が徐々に明瞭になってきたり新しい発見があったりするものじゃないですか。だから、よくわからない、といって煙たがったりびびったりすることはないのだ。ぼくら観客は、一編の長大な詩をつっかえつっかえ音読するように、この映画も「よくわからない」を含めてじっくりと鑑賞すれば良いのだ。

 

 以上のことを踏まえてもらった上で、この映画の特質すべき点を三つ、いや、四つ、挙げさせていただこう。
 まずは、往来の多さ。この映画において、ハーフェズをはじめとする主要登場人物は乾いた大地をやたらと行ったり来たりする(もしくは、行ったり来たりする様子が逐一カメラに収められる)。自らの足で、貨物列車で、トラックで、バイクで。これがなんとも不思議な効果をもたらしている。行ったり来たりを繰り返し見ているうちに、催眠術にかかったみたいに、どんどん登場人物たちの生きる社会的かつ宗教的位相に、つまり、この映画のストーリーが繰り広げられるフィールドに、接近してゆくのだ。ある詩を理解するとは、ひいては異世界を理解するとは、おそらくこういう感覚を伴うものなのだろう。
 次に、ハーフェズとナバートの夫のシャムセディンという男二人の表情のなさ。要するに、無表情。それはもう愚直なまでに、ほとんど笑ってしまうほどに徹底している。もちろん、感覚が鈍いということでは決してないだろう。むしろ、神を信じる者の、すべてを受け入れてゆく強さの現れなんじゃないだろうか。省みるに、神を持たないぼくらは、いちいち拗ねたり浮かれたり落ち込んだり怒ったり泣いたりと、なんとはしたなく、なんと安っぽく、なんと脆いのだろう。もっとも、そんな脆さこそが一方ではぼくらの強みでもあったりするのだけど、昨今の日本社会を席巻する「感動」のオンパレードを目の当たりにするにつけ、ぼくらもいくらかは彼らの強さ=たしなみを身につけるべきだと思わずにはいられない。
 三つ目。ストーリーの随所にちりばめられる詩句や箴言の見事さ。観る人の楽しみを殺がないために、ここではあえて紹介しないが、深遠にして時にヒップにさえ響く詩句に触れるだけでも、この映画を観る価値はあるかもしれない。かくいうぼくも、いずれ小説のエピグラフに使わせていただこうと、ちゃっかりメモりました。
 最後に、麻生久美子。海外初進出作品ということだけど、まあそういうことは抜きにして、彼女はこの映画に瑞々しい透明感をもたらしている。ハーフェズじゃなくたって恋に落ちます。
 とまれ、この映画を観終わってつくづく思うのは、ぼくらの生活はなんと詩的なものから遠ざかってしまったのだろう、ということだ。もっともっと詩に寄り添って、ふくよかな生を享受したいものだ。

プロフィール

桜井鈴茂(さくらいすずも)
小説家。1968年生まれ。
下北沢を拠点にバンド活動後、様々な職業を経て、2002年『アレルヤ』(朝日新聞社)で朝日新人文学賞受賞。
その他の著書に『終わりまであとどれくらいだろう』(双葉社)。
現在、FOIL WEBにて「女たち」を連載中。
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