映画見聞録

映画をこよなく愛する人々が各界より集い、巷で話題の作品から通好みの渋い作品まで、独自の視点で書き綴る「偏愛的新作映画紹介」コーナー。日本を「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにはじめて紹介したマルコ・ポーロのように、新作映画のまばゆい輝きをみなさんにお届けします!

【Story】

 1960年代から'70年代にかけて日本の体制を揺るがせた学生運動は、連合赤軍が占拠した「あさま山荘」で終わりを告げた。そこから、現在の日本が始まったのだ。1972年に刻まれたメッセージは、粛清された同志たちの死が語るのではなく、10日間にわたる銃撃戦のなかにある。銃口は、いまも、日本の"この時代"に向けられてられている。
「あさま山荘」に至る道は、どこにあったのか? 包囲された山荘のなかで、何が起きたのか? 若松孝二は"あの時代"を、どう描くのか……。

Review

佐藤弘

 親の世代の話だからといって切り離されていると感じることなど全くなく、むしろどちらかというと目をそらしてもつきまとってくる後ろめたさの伴う出来事として僕の世代やその一つ二つ上の世代が背負わされているだろう学生運動は、当時、活動をしていた現在の中年やもう初老と言われる人たちが感じているはずの後ろめたさとはまた違った感覚としてあって、どこか憧憬にも似た感情を想起させるものにも思える。例えば年金問題にしても僕らがデモを起こして社会保険庁を取り囲んでもいいわけだし、それがたとえ徒労に終わる結果だと分かっているにしてもその行動がそもそも最初から頭にないことが、過去の学生運動の映像を見るたびに自分らに反省を促すのと同時に、なにかしらの憧憬を感じずにはいられない。けれど、この映画が現在に撮られた作品として見るとき、当たり前だが、その後ろめたさと憧憬の再認識なわけがなく、浅間山荘事件を踏まえて現在をどう生きればいいのかという再認識と、反動としてこの悲劇にいつでも陥る危険性が今でもあるという再認識にほかならない。いや、そんな危険性は今やもうないのかもしれない。しかし、もしないのだとすると、それこそ自分たちに憤りを感じずにはいられないのだし、だからといって過去の「革命」としての方法を取るわけにもいかないのだとすれば、一人ひとりが他の方法を模索するための、当時の彼らの言葉を借りるならば「総括」「自己批判」として学生運動があるとしたら、しかし自己批判をするための一つの思想もなければ、やはり焦燥感にも似た居心地の悪さを感じずにはいられない。でも、僕らはその居心地の悪さに耐え続けなければならない。
 映画で終始描かれるように、ある一つの思想に凝り固まった集団の行動が危険な状態に陥り、盲目的に狂気に一方通行にひた走ってしまう悲劇から逃れるために、僕の一つ二つ上の世代や、学生運動を横目に当時は「日和っている」と言われてただろう人らが「笑い」という手法を取り入れて、その危険性から回避するような作品に僕は影響を受けているし、それは今でも有効に違いないけれど、この映画のそこかしこに浮かび上がる狂気のエネルギーを見せつけられてしまうと、気付いていない振りをしている自分を見せつけられているようでならない。多様性に可能性を見出し自分もその多様性の中で模索しているとしても、いくら否定しても否定できない集団の力の脅威が、そこにあの悲劇性やロマンティシズムが含まれるものだとしてもやはり目を背けられない。連合赤軍のリーダーである森恒夫が逮捕され、その一年後に彼は刑務所の中で自殺するが、その遺書に「自分には勇気がなかった」と書かれている。その言葉は真実に違いないだろうが、遺書に書かれた複雑な意味とはまた全然違う意味でその言葉が現代に返ってくる気がする。それは単純な言葉通りの意味でお前らにはどうせ無謀になる勇気がないんだろ、と言われているようだ。そう言わせているのはこの映画のエネルギーであって、若松監督が発しているものに違いない。
 当時を回想してなにかを語ったり、または若松監督という人物から映画を語るのは、映画評論家とかがやればいいわけで、僕がこの場で出来ることといえば、たかが知れていて一人の表現者としての感想でしかなく、あの無謀さを信じられることにたいしてただ単純に羨ましいなあ、と馬鹿みたいに思っていることを恥ずかしげもなくさらけだすぐらいだ。大声を張り上げ、大勢でデモ行進をし、さぞ爽快だろうなと、少なくとも部屋に籠っているよりも気持ちがいいだろうなと思う。そして、いったんそう思った後に心に残るものといえば、「悔しい」という思いでしかない。その「悔しさ」とは一体なにかといえば、自分にだったり、当時の悲劇的な出来事に対してだったり、無残に散った「革命」だったり、とりあえず一つではなくて、その渦巻いた悔しさの中で地団駄を踏んでいるどうにもならない現状をさらけ出して書くしかない。「革命」に変わる方法なんてすぐに見いだせないし、もはやそんなものはないのかもしれない。
現代のある劇作家によって書かれた戯曲の中で「すべての闘いはあらかじめ敗北してる」といった言葉を見つけ、それの示すものの一つが集団性の闘いならば、僕らは結果が悲劇でないのだとしてももうあの力を信じられないとすると、また同じ戯曲のラストのほうで一人の登場人物がうつろな目をしながら呟く「俺一人でやる。俺一人で行く」というその言葉を信じるしか今の僕には方法がない。諦めずに、ゲリラのようにして食らいつくことだけだ。
 僕はなぜだか2000年に連合赤軍の指導者だった重信房子が日本で逮捕され、護送される途中の駅のホームでカメラに向かって手錠をされた両腕を上げて笑顔を振りまいていた姿をよく憶えている。今思い出せば、その笑顔は悲しく思える。空しいといってもいいのかもしれない。それはただ単純な同情からではなく、やはり「悔し」かったからじゃないか。「すべての闘いはあらかじめ敗北してる」のならば、その悔しさを噛みしめつつ、それでも手探り状態の中で表現し続けるしかない。連合赤軍の一連の悲劇から逃げ続けるためには、それしかないのだと思う。

プロフィール

佐藤弘(さとう・ひろし)
作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。
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