【Story】
海辺の小さな町。崖の上の一軒家に住む5歳の少年・宗介は、ある日、クラゲに乗って家出したさかなの子・ポニョと出会う。宗介のことを好きになるポニョ。宗介もポニョを好きになる。「ぼくが守ってあげるからね」しかし、かつて人間を辞め、海の住人となった父・フジモトによって、ポニョは海の中へと連れ戻されてしまう。人間になりたい!ポニョは、妹たちの力を借りて父の魔法を盗み出し、再び宗介のいる人間の世界を目指す…。


(C)2008 二馬力・GNDHDDT
【スタッフ&キャスト】
原作・脚本・監督:宮崎駿
声の出演:奈良柚莉愛、土井洋輝、
山口智子、長嶋一茂、天海祐希、
所ジョージほか
絶賛公開中

人類学者の中沢新一と映像作家であり音楽家の高木正勝との対談で、宮崎駿監督の話になった。高木さんが、映像作家にはアニメーションに憧れがある、自分の思うように全てを動かしたいという欲求を叶えるのはアニメしかないから、というような言葉に対し、中沢さんは、アニメは画面を全て制御してしまうといった全体主義を感じるところがある、それは面白くないからあなたはそこに憧れを持つ必要はないですよ、というような答えだった。話題も変わってしばらくした後に、高木さんは「さっきの話ですけれど、アニメというより、映像という分野で唯一尊敬できるのは宮崎駿さんだけなんです。全体のストーリーとかは別として、あるワンシーンにおいての表現の高さでは彼を超える人はいないんです。一瞬の二秒とかの表現は飛びぬけていて、動いているものを見ているときに、そこから発せる力強さっていうのは、なかなかいないんですよ、超えたいっていう人は」という内容の発言をした。
「崖の上のポニョ」のパンフレットの中で宮崎監督は「これまで自分たちの映画は、どうしたら、精密で、表現力がある贅沢なものになるかということを考えて~(中略)~CGや色々な手法を使って密度を上げる作業をしてきました。~(中略)~それは違うんじゃないかと思い、濃密になりすぎた画面をすっきりさせて、アニメーションというのは動かしていくんだというところをもう一回取り戻したいと思ったのです。やっぱり最終的に人が惹かれるのは、人間が手で描いた驚きにあると思います」と言っている。この二つの発言を比べると、「崖の上のポニョ」で宮崎監督が目指していたところと、高木正勝が宮崎アニメに見出したところは、重なるところがあるんじゃないかと思う。純粋性というようなもの、表現の核となるものへの求心性が似通っている。
そもそもアニメーションは、真っ白な紙の余白を埋めてさらにそれを動かしてどこも不自然じゃないようにするところから始まるのだから、統御される宿命を帯びている。アニメだけの話ではなく、表現というのは少なからずどのジャンルも同じであって、取捨選択をして大部分のなにかを捨てている。問題は、そこにどうやって魂を入れるか、観ている人の感情を揺さぶることができるかだ。中沢さんは統御されすぎた全体主義的なアニメには、その精密さによって息苦しいと言っていたのだと思う。
精密でリアルなものから離れ、デフォルメされて抽象的にするといった手法は、世界を自分の思うように動かしたいという欲求は変わらない。つまりリアルからイマジネーションの世界へと方向性が変わっただけだ。しかし、そのアニメは動き始めると、硬質なものから丸みを帯びた温かさに包まれた映像へと劇的に変化する。それは、宮崎監督一人の想像力の世界というものではなく、人が描くことによって動き出すアニメーションというアニミズムの世界が、観客の中の現実の世界を侵食し変容させるほどの魅力に満ちたものだった。高木正勝は「世界をセレブレイト(祝福)しているような映像を作りたい」と言うが、「崖の上のポニョ」という作品は、まさしく宮崎監督が世界を祝福していることに他ならない。実際に僕は映画のほとんどの時間、涙を浮かべながら見ていた。世界はこんなにも輝きに満ちているということを、物語にではなく、映像によってずっと見せつけられていたからだった。
それは風景だけではなく、主人公の子供たちにも共通する。そもそも、まだ社会性の枠の外にいる子供たちは自然と同様の扱いを受ける(トトロの時だってサツキとメイだけがトトロと交流することができた)。躍動する波が魚になって生命を宿るように、子供は自然へと戻る。子供たちは自然と共存し、その境目はまだ曖昧だ。5歳の宗介が覚えたてのお辞儀や食事の作法をゆっくりと丁寧に行い、人間に成り立てのポニョにそれを教えてあげるシーンがいくつも出てきた。彼らは近いうちにそうやって社会性を帯び始め人間界の一員となり自然から離れていくだろう。けれど、その杓子定規な作法にあどけなさが残っているかぎり、子供たちの純粋さは逆に際立って見える。なぜ宗介が5歳でなければならなかったのか。現実の世界においても、どうして子供たちの、疑う意識が微塵もなく、意味すら分からないで物真似するかのようにしてお辞儀した姿を「あら、良い子ねー」なんて言って、かわいいと思うのか。僕らがその自然と社会の狭間で生きている子供たちの無自覚の中に純粋さを見出しているからだ。
この映画は誤解を恐れずに言うと「かわいさ」に充ち溢れている。ただし、それは日常使われるような表層的な対象にではなく、デフォルメされ抽象化しながらも、それでいてそれは記号化される以前のまだ固定されない流動的なものだ。「かわいい」を具象化されたポニョの身体さえ、金魚から人間へと何度も変身するのだから、それはとても掴みづらい。もちろん、ポニョも宗介もキャラクターとしても十分かわいい。けれど、特筆すべきなのは、子供たちの喋り方や言葉、動作や表情が子供に凝縮されることによって、どこかある一部分を取り出すというよりも全体から醸し出されるように「かわいさ」が発生することだ。
この映画には台詞が少ない。それはポニョがまだ言葉を多く知らないからだが、これからどんどん言葉を覚えていくだろう。未分化の状態の心は言葉によって整理され、説明されていく。それは一種の悲劇のはずなのに、ポニョは人間になりたいと望む。なぜならば、宮崎監督が祝福したいものは、自然と人間の決定的に違うもの、人間にだけ特有の感情というものだからだ。金魚のポニョの表情が乏しいのに対して、人間に変身した後のポニョの表情は様変わりする。人間になりたてのポニョにとっては周りの全てが驚きの対象だ。ポニョの笑顔は感情の生まれる瞬間そのものだ。そして言い換えると、この映画はポニョを喜ばせるために世界が描かれているのではないか。それはようするに、見に来ている一人の子供のためということではないか。
デジタルで機械的に映像を作るのではなく、手描きの絵の動くアニメーションは、その動きの一つひとつにそんな作者の感情が宿っているように感じられた。統御された映像の中に躍動して迸る、祈りのようなものが、この 映画には満ち満ちていたように思えた。
