サマータイムキラー

<5>

 

 ガソリン・スタンドはどこも似たような造りになっているのだろうと思う。全国、どこもかしこも――それこそ、ぼくたち十四歳の中学生が皆そうであるように――似たりよったりなのではないだろうか。
  一方の奥に事務所の建物があり、三方に壁がなくて、コンクリートの屋根が切り立つように高い。屋根のうえにはそれぞれの会社の派手な看板が載っている。
  その高い屋根から雨が激しい勢いで流れ落ちている。まるで洗車マシンのように飛沫がたちこめている。鈍い灰色に視界が塗り込まれている。
  そのなかに武藤はしゃにむにパトカーを突っ込ませた。一瞬、フロントグラスが上下左右からの飛沫に灰色に覆われる。給油ポンプを避けて事務所のまえにとめた。
  武藤はエンジンを切った。シートベルトを外した。ドアに手をかけて、ふと何か思いついたように間宮を振り返った。そして、それは違うぜ、と言った。
  あまりに唐突だったし、それまでの会話とは何の脈絡もない。間宮がキョトンとするのも当然だったろう。
 「何が?」と間宮は訊いた。「違うのさ」
 「おれが中学生のころ、お袋がスナックやってたの知ってるか」
  これもまた唐突な話だ。いっそ突拍子もないと言ったほうがいいかもしれない。どうして急にそんな話になるのか。
 「いや、知ってなきゃいけないか」間宮は微妙な言い方をした。
 「そんなことねーよ。そうだよな、知ってるわけないよな」武藤は妙な笑い方をして、「だけど、そうなんだ。親父が女つくって家を出てっちまってな。家に一銭もカネ入れなくなっちまったもんだからさ。お袋としても稼がなきゃいけなくなったわけ。かわいい子供のためにさ。あ、かわいい子供っておれのことね」
 「へー、そうなんだ」
  間宮は相づちをうったが、ぼくの目から見ても、武藤の話にとまどっているのがわかった。そんな打ち明け話をされるほど親しくないし、打ち明け話をされたところで急に親しくなれるはずもない。
  もっとも武藤にしたところで何も間宮と親しくなろうと思ってそんな話をしたわけではなかったようだ。
 「ところがこのスナックが見事に失敗した。笑っちゃうほど客が入らなくてさ。惨敗もいいとこでやんの。それでスナックの宣伝用に作った紙マッチがごっそり残っちまったわけ」
 「ああ、そういうことか」間宮も武藤が何を言わんとしているのはわかったようだ。納得したようにうなずいた。
 「ああ、そういうこと――」と武藤もうなずいて、「おれはたしかに中学生のころタバコ吸ったけどな。ライターは使わなかった。それは違うんだ。なにしろ店の紙マッチがごっそり残ってたからな。とてもじゃないけどライターなんか買う余裕はなかった。紙マッチばかりさ」
 「そういうことな」
 「ああ、そういうこと――」と武藤はくり返して、「だから水素ガスにライターで火をつけたやつがいたとしたら、そいつはおれじゃない。だって、ほら、おれは紙マッチなんだからさ」
 「……」
  武藤はもう何も言おうとはしなかった。ただ無言のまま、うなずいた。
 誰かがライターで水素ガスに火をつけたために爆発が起こってしまった……だが、その誰かは武藤ではありえない。なぜなら武藤は当時、母親がスナックの経営に失敗したために、大量に余った紙マッチを使わなければならなかったから。だからライターで水素ガスに火をつけたのは武藤ではない。
 どうだろう? 武藤の言わんとしていることは論理的に通用するだろうか。もちろん通用しない。するはずがない。紙マッチが大量に余ったということと、ライターを使わないということとは論理的に何の関連もない。要するに間宮がうなずいたのは、武藤が何を言わんとしているのか、それを納得しただけのことで、その正当性まで納得させられたわけではなかった。
  が、武藤は間宮がうなずいたのを見て、満足したように笑い、パトカーから下りていった。たしかに武藤は性格が悪い。が、性格の悪さはさておいて、彼が単純な人間なのだという事実に変わりはないのかもしれない。この両者はどうも両立するようだ。
 「……」
  間宮はぼくを見て、妙な笑い方をした。
  たぶん人の悪さということでは間宮ははるかに武藤をしのいでいるし、その性格の複雑さも武藤の比ではないだろう。そして、その共犯者めいた笑い方は、彼もまたぼくのことをそんなふうに考えているのだということを暗黙のうちに告げているようだった。
  ぼくたちはきわめつけ人の悪い二人組なのだった。人の悪い二人組は武藤にならってパトカーを下りた。
 生駒智代のトラックはとまっている。荷台コンテナに大きな文字で「冷凍便」と書かれ、その横下にやや小さく「只今参上」と書かれている。只今参上――したはずなのに彼女の姿はどこにもない。ガラス越しに事務所のなかを覗き込んだが、事務所にも彼女らしい姿はなかった。
  武藤はガソリン・スタンドの従業員と二言、三言、言葉を交わすと、間宮を振り返って言った。
 「生駒は食事に行ったってよ」
 「どこに食事に行ったんだろう」
 「この近くに安食堂がある。生駒智代はいつもそこで食事をしてるらしい。おれもときどき利用する。けっこう、はやってる店だ」
 「美味しいのか」
 「マズい」
 「マズいのに、はやってるのか」
 「どうしてこんなにマズいのに、はやってるんだろう、ってみんな、それをふしぎに思う。それがどうしてだか知りたくて、みんな通いつめるのさ」
 武藤としては気のきいた冗談を言ったつもりらしい。かすかに笑った。最初は高圧的だった武藤が、いつのまにか迎合するような態度に変わっている。間宮にはどうもそういうところがあるらしい。自分でもそうと意識せずに対峙する相手を圧倒してしまう。なにしろ一風変わったキャラクターとしか言いようがない。
 「マズい食堂がなぜはやるのか? ぼくもその理由を知りたくなった」と間宮が言う「ぼくたちも行ってみようか」
 「なに、その必要はない。ここで待ってようぜ。いつも二十分ぐらいで戻ってくるっていうからさ」
  それだけを言い、武藤はさっさと事務所に入っていった。そこで生駒智代が戻ってくるのを待とうということなのだろう。間宮もそれにしたがう。
 ぼく? できれば、ぼくもそうしたかった。でも、できなかった。首筋のあたりにチクチクとするような視線を感じた。誰かがぼくを見つめている。そして、ぼくにはそれが誰なのだか、あらかじめわかっていた。ゆっくりと振り返った。そして、松井と正面から向きあうことになった。
 「よう」
  松井がうなずいて言う。
 「やあ」
  ぼくもあごを引いて言う。
 急に雨の音が強く意識されるようになった。雨音がぼくたち二人を覆いかぶさるように包み込んだ。まるで戦争映画の十字砲火のように。どうしてだろう。その雨音のなか、天にも地にも、ぼくたち二人だけがとり残されてしまったかのように感じていた。ほかには誰もいない。いるはずがない。
  松井は板ガムをポケットから出した。それを差し出し、ぼくが首を横に振るのを確かめてから、自分の口のなかに入れた。二、三度噛んでから、「どうした」と訊いてきたので、ぼくは「べつに」と答える。
 「べつにって――」松井はいつになく執拗だった。「何だよ」
 「だから何でもないって」
 「何でもないってことはないだろう。何でもない人間がパトカーに乗ったりはしない。万引きでもしたのか」
 「するかよ」
  ぼくは笑ったが、その笑いはかすかにこわばっていたはずだ。松井の口調には微妙に友人らしからぬ悪意がこもっていた。そのことをありありと感じた。考えてみれば、いつもそうだったし、そもそもぼくたちは友人でも何でもないのかもしれない。
 「学校で人が殺された。聞いてるか。実習生の矢作って人だ。あのパトカーはそれで学校に来た。ちょっと事情があってパトカーに乗せてもらうことになった。ただ、それだけのことさ」
 ただ、それだけのこと……それが何の説明にもなっていないことは自分でもわかっていた。ちょっと事情があって――というが、その事情が何であるかを説明しないかぎり、どうしてぼくがパトカーに同乗しているのかを人に納得してもらうことはできないだろう。そして、相手が誰であれ――松井であればなおさらのこと――ぼくにはそれを説明するつもりはまるでない。
 「それよりさ、おまえは何でここにいるんだよ」急いで話題を変えた。「オヤジさんの仕事の手伝いをしてるのか」
  松井は、ああ、とうなずいて、
 「いまガソリン、バカ高だからよ。よっぽどサービスよくしないと客が集まらない。経営は大変だよ。従業員は気楽でいいよ。いくら、そのことを口が酸っぱくなるぐらい言ったって、もう一つ切実感がない。こんなときには誰か経営者側の人間が現場にいないと商売に身が入らない」
 「おまえは経営者側の人間なのか」
  そんなつもりはなかった。だけど自分でもそうとは気づかずにからかうような口調になっていたようだ。だとしたら、ぼくはあまりに軽率にすぎたかもしれない。松井に無用な警戒心を抱かせたところで何の得にもならないはずなのに……
  ――いずれは松井を殺す、殺さなければならない……
  と決めてからはとりわけ言動に気をつかうようになっていた。ぼくの殺意――とまではいかなくても悪意に気がつかれたのでは、あとが面倒なことになってしまう。 それが松井一人にとどまっているうちはまだいいが、誰か人に話されでもすれば、犯行を犯したあとに容疑者の一人にされてしまう。そんなことになるのは何としても避けなければならなかった。
  が、松井はぼくの悪意に気づいた様子はなかった。あるいは気づいたとしても、いまさらそんなことは気にしなかったのか。それとも気づかないふりをしたほうが賢明だという計算を働かせたのかもしれない。
 松井の見るからに粗野な言動にだまされてはいけない。うわべはどうあれ、彼の内面はそれなりに複雑であり、どうかすると繊細と言っていいところさえある。そんな松井がぼくたちの間に横たわっている微妙な葛藤に気づかないはずがない。松井はバカでもなければ無神経でもない。
 もっとも、そうだとしても、いまのところは多少のわだかまりがある、ぐらいにしか考えていないはずだ。何とかしてその程度にとどめておかなければならない。その程度であれば松井にしてもそれほど気にはかけないだろうからだ。それが殺意にまでたかまっているということになれば、また話は別ということになる。松井を不必要に警戒させてはならない。
 「そうさ、経営者側の人間さ」と松井はこともなげにそう言い、「使われている人間は気楽でいい。言われるままにしてればいいんだからな。おれら経営者側の人間はそういうわけにはいかない。ガソリンの値上がりが半端じゃない。なにかと頭を使わなきゃならないからよ」
 「頭を使うから、それで経営者側のおまえとしては、お父さんのガソリン・スタンドを回っているわけか」
 皮肉に聞こえないように注意したつもりだ。が、それがどこまで成功したかは自分でもわからない。松井は明らかに「経営者側の人間」という言い方に、ぼくが反撥するのを見こしたうえで、意識的にそれを使っているのだ。ぼくたちの間には微妙に陰湿な神経戦が展開されていた。それに気づかないふりをするのは難しかった。
 「ああ、そういうことだ。街に何店舗もあるから大変だよ」松井はあっさりとぼくの言葉を受け流して、「ところで、おまえはどうなんだ。おまえこそこんなところで何してるんだよ」
 「ああ、ちょっとな――」
  ぼくは言葉を濁さざるをえなかった。
  おまえを殺したい、殺したくて殺したくて仕方がないのに、どうしてもその最後の一線を踏み越えることができない。どうやったら人は殺人に踏み切ることができるのか。それを知りたい一念で、ちょっと連続殺人犯を探しているんだ……そう言ってやりたいような衝動を覚える。そう言ったら松井はどんな表情をするだろうか。それを見たいという思いが胸の底に膨らんでくるのに懸命に耐えた。
 「そうか、ちょっとか」が、もちろん松井はそんなぼくの胸のうちなど知ろうはずがなかった。「おれもこれから何店かまわることになる。明日は――」と学校の近くにあるガソリン・スタンドの名を言って、「――に泊まることにしようと思う。そこから直接、学校に行こうと思ってる。ほんとうは遠泳大会どころじゃないんだけどな……」声の調子が尻すぼみになった。何かぼんやりと放心したような響きに変わった。その目がスッと虚ろになった。
 「……」
  あらためて松井を見た。松井はぼくではなしに、ぼくの肩越しに遠くの何かを見ているようだ。振り返った。
  雨が降りしきる。その雨のなか、徐々に視野を遠ざけるにつれ、県道が灰色から黒までのグラデーションに閉ざされていく。暗灰色から漆黒まで、闇そのものが井戸のような深さのパースペクティブのなかに、かすかに揺れているかのようなのだ。
 一台の車がさしかかり、ヘッドライトが闇を薙いだ。いや、一瞬、闇が追いやられたはずなのに、明かりのなかに闇が残されたかのように見えた。そして――その闇が身じろぎしたのだ。ハア、ハア、ハア、と赤いベロがうごめいて、雨のなかにかすかに湯気がたちのぼった。
  あの黒いイヌがそこにうずくまっていたのだ。一瞬、ヘッドライトのなかに浮かびあがり、車が走り去ったあとも、その姿が闇よりもさらに黒々とそこに残された。まるで死に神のように。
  黒いイヌはジッとぼくを見つめていた。ぼくはその視線に射すくめられたようにその場から動けずにいた。もしかしたら魅せられていたと言うべきかもしれない。動けなかったし、動く気になれなかった。
 暗いし、距離があるし、雨が激しく降りしきっている……常識的に考えれば、そんなことはありえないはずなのに、黒いイヌの凝視をひしひしと痛いほど肌に感じていた。その視線は――まるで爆発した超新星から放たれたニュートリノのように――すべてを貫いてぼくにまで達していた。
 そういえばニュートリノはほとんど質量がないと読むか聞くかしたことがある。だからニュートリノを検出するのは非常に難しいのだそうだ。まるで幽霊のようだ、とそう思ったのを覚えている。その黒いイヌもやはり幽霊のようにぼくに取り憑いて離れようとはしない。いつまでも、どこまでも。
  ――ほんとうにあの黒いイヌはぼくに取り憑いた幽霊なのではないか。
  ふと本気でそう思った。
  これからぼくは松井を殺すことになる。それはもう避けようのないことなのだ。それがぼくと松井の運命なのだろうと思う……だとしたら、あの黒いイヌは未来からやってきたのではないか。ぼくの罪を見とどけ、それを裁くためにつかわされた幽霊なのではないだろうか。
  雨が降りつづける……すでに夕方の六時をまわろうとしていた。いつもだったら夏のこの時刻はまだ明るいのだが、吹きあれる雨のために、まるで黒いレースのカーテン越しに透かし見るかのように、ただもうすべてが暗い。闇だ。
  その闇のなかに黒いイヌの赤い熾火のようにらんと燃えあがる二つの目だけを感じている。
  まるで現実感がない。松井を殺そう、殺したい、と思い出してから、ぼくからはすべての現実感が失われた。人殺しに現実感などというものはないのかもしれない。
 トラックが走ってきた。ヘッドライトの明かりが雨をかすめる。散水車のように両側に水しぶきを高く噴きあげた。一瞬、黒いイヌの姿がトラックに隠される。トラックは走り去っていった。そのときにはもう黒いイヌの姿は消えていた。まるで消しゴムで消されでもしたかのように。
 「……」
  ふいに狂おしい思いに駆られた。なにか喪失感のようなものが鋭く胸をついた。自分でもそれが何なのかはわからない。わからないままに――けっして比喩ではなしに――肉体的な痛みが胸に突き刺さるのを覚えたのだった。ぼくはその痛みに低くうめき声をあげていた。
 「どうかしたのか」松井が不審げに訊いてきた。
 「黒いイヌを見たか」ぼくは聞き返した。
 「黒いイヌ?」
 「ああ、見たか」
 「見たさ」
 「見たのか」
  ぼくは松井の答えに驚いた。
  考えてみれば、なにも驚かなければならないようなことではないのだが、いつのまにか黒いイヌを超自然的な存在として感じるようになっていたらしい。ぼくの目にしか見えず、ほかの人間の目には見えないもののように感じていた。
 「見えちゃ悪いのか」松井はぼくの顔をまじまじと見つめて、「おい、大丈夫か。あの黒いイヌがどうかしたのか。何か、おまえ、おかしいぞ」
 「あの黒いイヌ、消えた……」
 「消えやしねえだろう。どこかに行っちまっただけだろうよ」
 「どこかに……どこに……」
  地獄に、と頭のなかでつぶやいたのは、あの黒いイヌが超自然的な存在だ、という思いがいまだに胸の底にわだかまっていたからにちがいない。超自然的な存在……なにか悪霊のように感じていた。
  松井はぼくに対する不審の思いを拭えずにいるらしい。妙な目つきでぼくを見つめていたが、まあ、いいや、とつぶやいて、
 「いまはおまえにかまってる暇はない。おれには仕事があるからよ。明日、学校で会おうぜ」
 「明日、学校で……」
 「ああ、おれはガソリン・スタンドから直接、学校に向かうつもりだからよ。けっこう朝が早い」
 「明日は晴れるかな」
 「晴れるんじゃないか。ほんと遠泳大会なんて冗談じゃねえよな。仕方ないからつきあうけどよ」
 「……」
  明日の朝、早いうちに松井はガソリン・スタンドから学校に向かう。どの道を通るのかはわかる。どのあたりが人通りがないのか、どこで待ち伏せをすればいいのか、どこで殺せばいいのか……すべてわかる。わからないことは何もない。
  まだ明日の朝までは時間がある。どうやって松井を殺して、どうやって疑いがかからないようにするか、それを考えるだけの時間はふんだんにある。
  問題は、それまでに松井を殺せるだけの殺意をいかにして自分のなかに蓄積するか、そのスプリング・ボードをどうやって用意するか、ということだが――それも何とかして明日の朝までに連続殺人犯を見つけ出すことができれば解決されるべきことなのだろう。
 「じゃあな」松井はぼくに手を振った。「明日、会おうな」
 「ああ」とぼくはうなずいた。「明日、会おう」
  どういうつもりだったのか、そのときの松井の気持ちはわからない。が、いつもはひどく無愛想なこの男が、このときばかりはニヤリと笑って見せたのだ。
  なにか狼が笑ったかのようだ、と思ったのを覚えている。狼、あるいは黒いイヌのようにだろうか。
  松井はビニール傘をさすと雨のなかに出ていった。降りしきる雨に、松井の姿は灰色の翳に閉ざされて、すぐに見えなくなってしまう。
  黒いイヌがそのあとをついていくのではないか、と思ったが、さすがにそんなことはなかった。どんなに視線を凝らしてももう雨のなかに黒いイヌの姿は見えなかった……
 

<6>

 

 ふと背後に人の気配を感じた。振り返るとそこに間宮がいた。間宮はじっとぼくを見つめている。その背後を雨が暗い幕のように閉ざしていた。
  間宮が訊いてきた。「いまのはきみの友達かい」
 「友達ということもないけど……」ぼくは言葉を濁すしかなかった。
  実際、松井のことを人にどう説明すればいいのかわからない。これから殺したいと考えている人間のことを友達と呼んでもいいものかどうか。
  間宮は敏感な男だ。それだけで何かを感じ取ったようだった。
 「きみはどうして十一年まえ、八年まえ、六年まえに起こった殺人事件なんかに興味を持ってるんだっけ? たしか、ぼくがそのことを訊いたのに、きみはまだ返事をしてないんじゃなかったっけ?」
 「……」
 「もう一度、訊くけどさ。どうしてきみは連続殺人事件なんかに興味を持っているんだろう。それに、いまのはきみの友達かい」
 「……」
 間宮がぼくの沈黙をどう受けとめたのかはわからない。ただ、くり返すようだけど、間宮は敏感な男であり、人の内面――それも暗い部分を理解するのにきわめて鋭いところがある。ダース・べイダーのように人のダーク・フォースを直感的に理解する。思うに、彼自身が人に言えない暗い部分をふんだんに隠し持っているからかもしれない。
 「もしかしたら、きみには誰か殺したい人間がいるんじゃないか」
  間宮はいきなり切り込んでくるようにそう言ったのだ。これには驚かされた。
 「誰にだって殺したいと思う人間の一人や二人いるんじゃないですか」
  ぼくはそう切り返すのがやっとだった。笑いにごまかそうとしたが、その笑いはたぶんに不自然にこわばっていたはずだ。
 「そう、誰にだって殺そうと思う人間の一人や二人はいるだろう。でも、きみは思うだけじゃない。具体的に誰かを殺そうとしているんじゃないのか。それで連続殺人事件に興味を持っているんじゃないか」
 「どういうことですか。なに言ってるんだか、わけわかんないよ。何で、ぼくがだれかを殺そうとすると、連続殺人事件に興味を持たなければならないんですか」
 「だれか殺したい人間がいるからといって、それですぐに人を殺せるわけじゃない。たぶん人を殺すのにはぎりぎり最後の踏み切りのようなものが要るんじゃないかと思う。最後の一線を越える衝動のようなものが要るんじゃないかと思う。きみにはそれがない。だから、きみはそれを得るために……」
 「憶測でものを言わないで欲しいな」ぼくは自分でもそうと意識せずに大声で間宮の言葉をさえぎっていた。「迷惑なんだけど――」
  だけど、間宮はそんなことで怯んだりする男ではない。なにか言いたいことがあるときには、相手が何を言おうと、最後までそれを言い切らずにはいられない。間宮にはそういうところがあった。
 「人を殺せるけれど殺さない。それでこそ自由意志が生まれる余地があるし正義の概念を論ずる根拠も与えられる。そこにこそ人間の尊厳がかかっている。なあ、そうは思わないか。それに比べて、人を殺せないから殺さない、というのではあまりに凡庸すぎる。それはただ、きみが平凡きわまりない人間だということを示しているにすぎない……」
 間宮は何を言っているのだろう。たぶん、ぼくに託して、べつの何事かを言おうとしているのにちがいない。けれども、ぼくにはそれが何であるのかわからない。そして、それが何であるかを確かめようにも、そのときにはもう武藤が事務所から出てきて間宮に声をかけたのだった。
 「おい、生駒智代が戻ってきたぜ」
  それを聞いて間宮はもうぼくのことなんか忘れてしまったようだ。クルリと武藤のほうに体を向けた。
  武藤の後ろに一人の女性が立っていた。小柄だが、体が引き締まった、たくましい印象の女性だった。
 「こいつが間宮優作だ」
  武藤はそう紹介し、わきに身をしりぞける。彼と入れ替わるように女性が一歩まえに出てくる。
  ショート・ヘアに、よく日に灼けた肌をしている。けっして美人ではないけれど、まずは好ましい顔立ちといっていいだろう。――洗いざらしのTシャツ、膝から下を切り落としたジーンズ、それに踵を穿きつぶしたスニーカー。
  これが六年まえ、もう一人の園芸クラブ員だったという生駒智代なのだろうか。
 「ああ、生駒さん」間宮は嬉しそうに声を張りあげて、「ぼくのこと覚えてますか。園芸クラブで一緒だった間宮優作です」
 「間宮さん……」
  生駒智代はあいまいな笑顔を浮かべて、自信なさげに目を瞬かせた。指で髪の毛を掻いて、ごめんね、と言う。
 「わたし、記憶力悪くてさ。よく覚えてないんだ」
 「ぼくのことも?」
 「うん、あなたのことも」
 「……」
  間宮は何ともいいようのない表情になってしまう。
  気の毒で間宮の顔を見ることができなかった。もちろん、記憶力が悪い、というのは生駒智代の優しさが言わせた言葉であって、要するにそれだけ彼が印象にとぼしい生徒だったということなのだろう。
 「園芸クラブって冴えないクラブだったから……誰も熱心に活動しなかった。ぼくにしてもあまり人の印象に残るほうじゃないから……覚えてなくても無理ないし……」
  間宮は力のない微笑を浮かべる。彼としても他にどうにも返事のしようがないのにちがいない。
 「ごめんなさい」生駒智代がもう一度間宮に詫びる。「わたしバカでさ。きのうのこともよく覚えてないから――」
 「あ、いや、謝ることなんかないよ、謝る必要なんか何もない」
 「何か覚えてることあればいいんだけど。あのころ、わたし、お祖母ちゃん亡くしてね。わたし、お祖母ちゃんっ子だったから、悲しくて、悲しくて、正直、園芸クラブどころじゃなかった……」
 「武藤くんはお父さんが家出をした……生駒さんはお祖母さんを亡くした……みんな、あのころ色々あったんだね。ぼくはあのころさ。自分のコンプレックスに打ちひしがれ、自分一人のことにかまけて、そんなの何も気がつかなかった。結局、ぼくは自分のことにしか興味がなかったのかもしれない」
 「……」
  ぼくはびっくりして間宮の顔を見た。間宮に出会ってわずか数時間しかたっていないけれど、それでも彼のことはそれなりに理解しているつもりだ。いつもの間宮からはおよそこんなふうに反省する姿など想像がつかなかった。
 「わたし、負けん気が強いから、学校じゃそんなところ見せなかったけどさ。毎日、学校の帰りに墓参りしてた。毎日、お線香あげてた……」
  トラックを運転するというから、活動的な女性ではあるのだろうが、それと同時に繊細さもあわせ持っているようだ。
  ぼくが仮に母親を亡くしたところで、たぶん年に一度か二度、お盆か何かで墓参りに行くのがせいぜいだろう。毎日、学校の帰りに線香をあげるためにお墓に行くなんて、とてもそんなことはできない。そのことだけからでも彼女の優しさがうかがえるような気がした。
  ――墓参り? お線香?
  ふと何か引っかかるものを感じた。気にかかることがある。何だろう? 考えたが、何が気にかかるのかわからない。大切なことであるように感じたが、どう大切なのかもわからない。
  気を取り直したように間宮が言葉をつづけた。
 「なにか水素ガスの実験のことを覚えてないかな。帰国子女の修善寺君恵さんが理科室で実験をしてて事故を起こした。あのときには生駒さんもいたし、ぼくも、武藤もいた。病気で死んだ野々村正子もいた。それに矢作浩一がいた。矢作は――」
  一瞬、間宮が言いよどんだのは、何かしら痛みのようなものを覚えたからだろう。たいして親しくなかったにせよ、矢作はかつては同じ園芸クラブの仲間だったのだ。それが殺されたとなれば、平静ではいられないにちがいない。
 「今朝、死んだ、殺されたんだよ――」
 「殺された?」さすがに生駒智代は驚いたようだった。「だって、そんな……矢作君はこの町にはいないと聞いたよ」
 「教育実習生で中学に戻ってきてた。今朝、学校の裏で、何か金属バットのようなもので殴り殺された。どうしてかもわからないし、むろん犯人もわからない」
  武藤が補足するように言う。
 「矢作君が……」生駒智代は呆然としている。「殺された……」
  間宮が、そうなんだ、とうなずいて、
 「べつだん確証があるわけじゃないけど、もしかしたら矢作が殺されたのも、なにか六年まえのあの事故に関連があるのかもしれない。それで――何でもいいから、あのときの事故で覚えてることがあったら、聞かせてくれないだろうか」
 「わたし、何も覚えてないよ。そう、あのとき理科室にいたのは修善寺君恵、武藤、死んだ野々村正子、矢作浩一、わたし、それにあなた、間宮さんだっけ。それに……」
  生駒智代が独白するように言う。歯切れが悪かった。なにか武藤の言葉に釈然としきれないものを感じているようだ。その目が過去をさまようようにぼんやりしたものになった。
 「あのとき水素ガスにライターで火をつけた人間がいる。それが誰だったか覚えてませんか」
  と間宮は訊いたが、それにも生駒智代はただ首を傾げるだけで、はかばかしい返事をしようとはしなかった。
  なにか生駒智代はおかしかった。他に気を取られていることがあって、目のまえの間宮の言葉に集中しきれずにいるという印象があった。
 たぶん間宮はそのときの生駒智代の反応に、もうすこし注意を向けるべきだったのだろうと思う。そうであれば、後に起こった悲劇を避けることもできたかもしれないのだが――けれども間宮にしろ、武藤にしろ、そんなことを予想できようはずがない。もちろん、ぼくにも……
  そのときのことだ。ふいに頭のなかに閃くものがあった。あ、とぼくは思わず声をあげた。前後に何の脈絡もなく、あまりといえばあまりに唐突に、それまで何が気にかかっていたのかがわかったのだ。
  それまで終始、無言のまま傍観者でいつづけたぼくが、いきなり声をあげたことに、三人は驚いたようだ。
  ぼくは六年まえの園芸クラブ員ではない。事実として、傍観者であるわけなのだが、それでもこの際、口出しせずにはいられなかった。
 「ぼくは内村真樹男といいます。中学の後輩です」
  ぼくは彼らとは個人的には何のかかわりもない。とりあえず後輩とでも自己紹介するしかなかった。
  生駒智代は、それがどうした、というような怪訝そうな顔をしたが――そして、それは当然のことであるのだが――、ぼくはかまわずに言葉をつづけた。どうしても生駒智代に確かめなければならないことがある。
 「あなたはさっき学校の帰りにいつもお祖母さんのお墓参りをして線香をあげたとそうおっしゃいましたね。ということはいつもライターかマッチを持ち歩いていたということではないでしょうか」
  間宮と、武藤は、あっ、というような顔をして、ぼくたち二人を等分に見つめた。
  生駒智代はふしぎそうな顔をして、
 「ええ、百円ライターを持ち歩いてました。それが何か?」
 「実験のときに誰かがライターで水素ガスに火をつけたのだと聞きました。それで爆発事故が起こったのだと……」
 「冗談じゃない。わたしじゃないわよ、わたしはそんなことはしない」
 「ええ、ええ……ぼくも生駒さんが火をつけたとは考えていません。そうではなしに、そのとき生駒さんは誰かにライターを貸しませんでしたか。中学生がライターを持ち歩いているのは不自然です。武藤さんは当時からタバコを吸っていらっしゃったそうですが、ライターではなしに、紙マッチを持ち歩いていたという。だとしたら、実験のときに使われたライターは生駒さんのものだった、と考えるのが自然です。そして生駒さんがそうしたのではないとしたら、だれか他の人間が生駒さんのライターで水素ガスに火をつけたのではないか。それは誰か? そのことは覚えてらっしゃいませんか」
  一瞬、沈黙があり、その沈黙のなかに雨音だけがきわだって響いた。
  暑い、と思った。
  その日、初めて、ぼくは暑さを耐えられないものに感じた。
  たまらない暑さ、だと思った。
  ――暑い、暑い、こんなに暑いんじゃ体が溶けちゃうよ……
 「そのことも覚えてないなー。わたし、何も覚えてないよ」
  やがて生駒智代がどこか放心したような声でそう言った。
 「すいません、わたし、まだ仕事中なものだからさ……できるかぎり園芸クラブのことを思い出すようにしてみるから、夜にでも倉庫のほうに来てもらえないかな。七時過ぎには一応あがるから。まだ後片付けとか残ってるけど、それでも話ぐらいはできると思うから……」
  仕事中ということであれば、ぼくはもちろん、間宮にしても、それ以上、無理に話をするのを強要するわけにはいかない。生駒智代が言うように、あらためてあとで職場先を訪ねるようにする他はなかった。
  生駒智代はそのままトラックに乗ってガソリン・スタンドから走り去っていった。
  ぼくたち三人はトラックが雨のなかに消えていくのを、ただなすすべもなく見送るしかなかった。トラックの尾灯が雨のなかに消え残って滲んだが、それもやがて見えなくなってしまう。
  やがて武藤が間宮に向き直って、
 「さすがにこれ以上、パトカーに乗せるわけにはいかねえよ。パトカーはタクシーじゃないんだからさ。あとは自分たちで適当にやってくれ。携帯、入れるからさ」
  そう言ったが、ふと顔を顰めると、
 「それにしてもひどいレインコート着てるじゃねえか。そんなんじゃ水が染み込んでくるだろうよ。傘も持たずに、そんなお粗末なレインコートで歩きまわるつもりかよ」
  なにか非難がましい口調になってそんなことを言った。
 「……」
  間宮は怪訝そうな顔になった。
  それはそうだろう。どうして、いきなり武藤は間宮のレインコートのことなんか気にかけるのか? あまりに唐突だし、これまでの話のいきさつとも何のつながりもない。それをどう理解すればいいのか、間宮ならずとも、そのことにとまどうのが当然だった。
 「何だったら、おれのレインコートを貸してやるからよ。それをおれに渡せよ。あとで取りにくればいい。それまでによ。署に、六年まえの事故の記録が残されていないか、ちょっと調べてみるよ。誰が水素ガスにライターで火をつけたのかわかるかもしれない。だから、あとで署まで、そのレインコートを取りに来いよ。なあ、そうしなって――」
  武藤は執拗で、何があっても間宮の着ているレインコートを自分が持っていくのをあきらめそうになかった。かわりに自分の黄色いレインコートを貸してくれるのだという。
  武藤はどうしてそれほどまでに間宮のレインコートに執着するのか? その真意がわからないだけに、かえって間宮もそれをむげに断ることができずにいるようだった……

PM7:00

プロフィール

山田正紀(やまだまさき)
1950年生まれ。1974年に『神狩り』で第6回星雲賞を受賞して、劇的なデビューを果たす。以後、特にSFやミステリ作品を中心に数々の優れた作品を生み出し、『最後の敵――モンスターのM・ミュータントのM』で第3回日本SF大賞を、2002年に『ミステリ・オペラ』(早川書房)で第2回本格ミステリ大賞および第55回日本推理作家協会賞をダブル受賞。主な著書に『僧正の積木唄』(文藝春秋)、『マヂック・オペラ』(早川書房)、『カオスコープ』(東京創元社)、『雨の恐竜』(理論社)ほか多数。

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