サマータイムキラー


 何が驚いたといってこんなに驚いたことはない。思わず声をあげてしまう。反射的に跳ねあがった。ベッドのスプリングが悲鳴のように軋んだ。いや、金切り声の悲鳴をあげたのはぼくのほうかもしれない。
 「何なんだ、何なんだ、何なんだ――」というのがぼくの第一声だった。「あんた誰なんだ」
 ぼくの声は震えていたろうと思う。どうしてだろう。とにかく、この状況が恐ろしくてならなかったのだ。とにかく、むしょうに恐ろしかった。どうか、何がそんなに恐ろしかったのかは訊かないで欲しい。それはぼく自身にもよくわからないことなのだから。
 「――」
 かすかに笑い声が聞こえたようだ。男が一人、窓を背にして、ぼくのほうを向いてすわっている。彼が笑ったのだろうか。だとしたら、彼はぼくの何を見て笑ったのか。
 「何がおかしいんだ」
 ぼくは男を見つめた。男のほうは、というと――ぼくを見ているのかどうかもわからない。男の顔はよく見えない。
 それというのも男が背にしている窓が露出過多の写真でも見るかのようにただもうギラギラと明るいからだ。雨なのに明るい。明るすぎる。雨の一筋一筋がはっきりと見てとれるほどだった。むしろ白っぽいといったほうがいいかもしれない。
 どう言えばいいのだろう。たんなるハレーションのようではない。なにか雨がそれ自体で発光しているかのようなのだ。それも神経にじかに突き刺さってくるような嫌な光り方だった。それを見ているうちに口のなかがしだいに渇いてくるのを覚えた。
 男の姿は逆光になっていて、ごく間近に接しているはずなのに、その容姿をよく見さだめることができない。ぼんやりと影のようになって明かりのなかに浮かんでいる。まるで夢でも見ているかのように。
 夢? そう、子供のころにこんな夢を見たことがあったような気がする。目を覚まして淋しい思いにかられたのを覚えている。いたたまれないほどに淋しい思い――。
 けれども、ぼくは何をそんなに淋しいと感じたのだろう。あいにく、そのときも、そしていまもそのことはわからずじまいのままに終わっている。何もわからないままに、ただ淋しかったという記憶だけがほのかに残されている。
 そのことを思い出した。思い出したからといって何もいいことなんかない。口のなかがいっそう渇いただけだった。
 「あんた、誰なんだ?」もう一度、ぼくは尋ねた。「何がおかしいんだ。どうして笑ってるんだ」
 自分でははっきりと話したつもりだ。けれども舌がもつれて、ろれつが回らなかった。たぶん、まだハチ毒アレルギーの後遺症が残っているのだろう。もしかしたら瞳孔が開いているのかもしれない。それで窓の光が過剰に目のなかに入ってくるのではないだろうか。その真っ白にまばゆい光のなかを――。
 男が動いた。それにともなって男の背に射している光がずれた。白い光のなかに男の顔がぼんやりと浮かんだ。首から下が白い光にかき消されているためにまるで生首だけが浮かんでいるかのように見える。その生首が言った。
 「笑ってるように聞こえるか」かすかに苦笑まじりの声だった。
 中学生の声ではない。こんな中学生はいない。先生だろうか。見覚えはないけれど、それについては何のふしぎもない。ぼくはどんな教師にも関心がない。はなから教師の顔など覚えるつもりがない。
 それで、その顔のことなんだけど――どう言えばいいのかな? まだ若いのに老けて見えると言えばいいのか。それともけっこうな歳なのに若く見えると言えばいいのか。ちょっとどちらとも見当をつけにくい顔だちをしていた。
 何か微妙に違和感があるっていえばいいのかもしれない。だけど、その顔をふつうに見るかぎりでは、どうしてそんなふうに感じるのかがよくわからない。ほかの人とどこがどう違うのだろう。
 いずれにせよ、ぼくより年長なのは間違いない。それもかなり年長――要するに、大人だ。
 優等生のぼくとしては微妙に言葉づかいを軌道修正せざるをえないじゃないですか。慎重にならざるをえない。
 「ええ、笑ってるように聞こえます。そうじゃないんですか」
 「笑ってるんじゃない。これでもおれは泣いてたつもりなんだけどな。大泣きじゃないにしてもさ。ちょっと、しゃくりあげた。そうなのさ。おれはしゃくりあげたんだよ」
 「あのう、誤解しないで欲しいんですけど――」とぼくが言う。
 「何を」
 「べつに逆らうつもりじゃないんですが」
 「だから何が?」
 「しゃくりあげたようには聞こえませんでした――」
 「しゃくりあげたようには聞こえずに、どう聞こえたというんだ」
 「誤解しないで欲しいんですが」慎重に、慎重に。「けっして逆らうつもりじゃないんですけど――」
 「それはもう聞いたって」
 「やっぱり笑ってるようにしか聞こえませんでした」
 「だから、そうじゃないと言ってるだろう。わからないかな。おれはしゃくりあげた。何かな、思わずしゃくりあげてしまったっんだ。そういうことってあるだろう」
 「さあ」
 「きみにはそういうことってないのか」
 「ぼくには物心ついてから何かに泣いたって記憶が一度もないものですから」
 そう言ってからその言葉に自分自身で驚いた。ほんとにそうなんだ。ぼくには泣いたという記憶がまるでない。
 こういう人間はめずらしいのではないだろうか。それともわりにありふれているのか。こういう統計ってどこかにあるんだろうか――。三〇人に一人とか、四〇人に一人の割合いで、物心ついてから一度も泣いた記憶がない人間がいるってふうにさ……。
 ――ぼくはどんな人間なのだろう。こんな人間がいていいんだろうか。ほんとうにぼくには泣いた記憶がない。一度もない。
 言った当人は心底から驚いた。それなのに、それを聞いた男のほうはさして驚いた様子がなかった。そうなのか、まあ、そんなこともあるかもしれないな、とあっさりとそれを受け流して、
 「きみとおれとは初対面だ。おれがどんなふうに笑うのか、どんなふうにしゃくりあげるのか、これまできみはそれを聞いたことがない。そもそもおれが笑ったのか、しゃくりあげたのか、その判断基準となる前例がない。前例がない以上、きみはおれが笑ったのか、それとも泣いたのか、それを判断することもできないはずじゃないか。違うか」
 「……」
 この人はやはり教師なのかもしれない、と思った。微妙に講義するような口調になっている。あるいは、どこか自己弁解めいた、言い訳がましい口調、といったほうがいいだろうか。いずれにしろ教師に特有の口調といっていい。そうであれば、ぼくとしてはなおさら慎重にふるまわざるをえない。
 ぼくはとりあえず下手に出ることにした。
 「すいません。よく顔がわからないんですけど……あのう、風中学の先生でいらっしゃるのでしょうか」
 「先生ってわけじゃない。もちろん生徒であるわけがない。おれは教師志望の大学生でさ。教育実習生として来学期に一月ほど風中学に赴任することになってるんだ」
 「教育実習生……」
 「ああ、矢作浩一〔やはぎこういち〕って名前なんだけどな」
 男は宙に指で字を書くようにした。窓に雨滴がしたたるのがかすかに室内に影を落としていた。その流れる影のなかに、矢作浩一、という字が一瞬、浮きあがったかのように感じられた。
 「矢作浩一……教育実習生……」
 なるほど、そういうことか。べつにめずらしいことではない。毎年、二学期になると、必ず、教師志望の大学生が何人か学校に派遣されてくる。たいていは一週間ほどで姿を消してしまう。顔と名前を覚える暇もないし、一日二日すればもう彼らのことなど忘れてしまう。
 矢作浩一と名乗った男は、ああ、そうだ、とうなずいて、
 「今日は遠泳大会だっていうんで特別に学校に呼ばれたんだ。これも教育実習の一環ということでね。保健室に詰めろってさ。それなのに遠泳大会が明日になってしまった。どうしていいのか、ちょっと手持ちぶさたでいたところなんだ。そこにきみが運ばれてきた。校医の先生にざっと診てもらったんだけどな。ハチ毒アレルギーだろうが、まあ、二、三時間も安静にしてれば大丈夫だろうってことだった」
 「二、三時間……」
 壁にかかってる時計を見た。驚いた。すでに十一時に近かった。
 「それでな、きみが目を覚ますまで、保健室にいてやることになったんだけどな」
 男が椅子をまえに動かした。ガタン、と音をたてた。たいした音でもないのに、びっくりして飛び上がりそうになってしまった。自分でも何にそんなにびっくりしたのかわからない。――だけど、ぼくがほんとうに驚かされることになったのは、それから先のことだった。男はこう言ったのだ。
 「きみはしきりにうわ言で、どうやって殺人に踏み切ったらいいのかわからない、というようなことをくり返していた――」
 「どうやって殺人に踏み切ったらいいのかわからない?」動揺せざるをえなかった。「いや、だけど、それは……」
 「いい、いい、べつに気にしなくたっていいんだ」男は手を振ってぼくの言葉をさえぎった。「なにもその言葉自体を咎めだてしようということじゃないんだからさ」
 「べつに本気でそんなことを考えてるわけじゃないですよ。そういうことじゃない。ただの妄想です」
 「そうかな、そんなふうには聞こえなかったけどな」男はニヤリと笑って、「まあ、妄想なら妄想でかまわないんだけどさ。どうせ、うわ言なんだから――」
 「そうです。どうせ、うわ言なんですから――」
 それはそうなんだけど……そのうわ言に裏切られてしまった。心の底の衝動に裏切られてしまった。――ぼくにはそのことがひどくショックだった。これまで誰にも覚〔さと〕られることのなかった内心の殺意を、うかつにもこの男に知られてしまった。なにか取り返しのつかないことにならなければいいのだが。
 「うわ言にしてもさ、きみはしきりに殺人に踏み切るのに十分なまでの殺意が欲しい。自分にはそれだけの殺意が欠けている、というようなことをくり返していた。思うに、それがきみにとって、ある種の脅迫観念のようになっているのは事実なんじゃないか」
 「……」
 「それでさ、教育実習生のおれとしてはだ。将来の理想的な教師になるべく、悩める生徒によき助言をすべきだと思う。ここで一つ、きみに、どうしたら人を殺せるのか、その適切なアドバイスを授けようと思う。どうしたら自分のなかに実際に人を殺せるだけの十分な殺意を蓄えることができるか、それを教えてあげようと思う」
 「……」
 ぼくに何を言うことができたろう。この男は本気でそんなことを言ってるのか? ただあ然として、まじまじと男の顔を見つめるだけだった。
 男の顔は痩せていた。色があさ黒い。始めて見たときに感じた、あの微妙な違和感のようなものは、いまもその顔から消えていない。それが何から生じるものなのかはわからない。
 おかしい。初対面であることには間違いはない。それなのになぜか見覚えがあるように感じるのだ。どこかでこの人を見たことがあるように感じられてならない。
 ――そうか。
 ふいに思いあたった。
 ――あの黒イヌに似ている。
 そうなのだ。ヒマワリ畑に入っていこうとするときのあの黒イヌに似ている。振り返ってニヤリと笑ったあのときの黒イヌに――。
 「ほんとうに」声がわずかに上ずった。「それを教えてくれるというんですか」
 「きみはダークエネルギーってのを聞いたことがあるか」
 男は急に口調を変えて訊いてきた。
 「ダークエネルギー?」この男は何を急に言い出すのだろうか。「いや、何ですか。それは?」
 「宇宙にはそれを観測することもできなければ、その実体を知ることもできないエネルギーが充満しているというんだけどな。それをダークエネルギーと呼んでいる」
 「そのダークエネルギーとかがどうかしたのですか」
 「だからさ、ダークエネルギーは宇宙の質量密度のじつに七三パーセントにもおよぶ。ところがこれの正体が何であるのかがわからない。いまだにダークエネルギーが何であるのか観測されていない」
 「何の話ですか。夏休みのよい子の科学教室ってか。やめてくれないかな」さすがに言葉が乱れた。怒りがこみあげた。「ぼくがあんたに訊いているのはそんなことじゃない」
 「そんなことなのさ。きみはぼくに、人はどうやったら人を殺せるのかを訊いた。殺意とは何なのかって――だから、おれはそのことを話しているんじゃないか。殺意ってのはダークエネルギーのようなものだって。誰にもそれが何であるのかわからない。誰の目にも見えない。でも、それは確実にきみを支配している。ダークエネルギーが宇宙を支配しているように殺意はきみを完全に支配しているのさ――」
 頭のなかで黒イヌがサッと身をおどらせた。笑いながらヒマワリのなかに飛び込んでいった。ヒマワリの目にしみるほどに鮮やかな黄色い色! その花粉が飛び散った。それがミツバチの群れに変わった。ミツバチはブンブンと翅〔はね〕を鳴らしながら狂ったように舞っている。
――ねえ、知ってる? ミツバチってさ、一匹が人を刺すと、ほかのハチも急に興奮して人を刺そうとするんだって……
 そのハチの群れの翅音にナレーターのように早野美紀の声が重なった。どうしてここに早野が登場しなければならないのか、それはぼくにもわからない。何かあまりに唐突なようでもあり、どこか深いところで関連があるようにも感じた。
 どこか深いところで――しかし何の、どこの深いところで? ぼくは何を考えているのだろう。何を混乱しているのだろう。ぼくは心の奥底でいったい何を知っているのだろうか
 「殺意がぼくを支配してるって? 何を言ってるんだ。そんなことがあるもんか。それどころか、ぼくには決定的に殺意が欠けている。だから人を殺すことができないんだ」
 ぼくは笑った。自分でもその笑い声が異常なものに聞こえた。ガラスをツメで引っ掻いたかのようにどこかの虚空に軋んだ。口のなかが渇いた。
 「きみには殺したい人間がいる。そうだろ。きみには殺したい人間がいる」男がふいに低い声で切り込んできた。「それなのに殺すことができずに悩んでいる。だからさ、その悩みを解消してやろうというんだよ」
 「どうやって? どうやってさ」ぼくは混乱した。
 「実際に人を殺した人間に会えばいい。そして、どうやったら人を殺すことができるか、殺人に踏み切ることができるか、それを教えてもらえばいい。そうは思わないか」
 「思わないよ。本気かよ」
 「誰にだって殺したいとまで憎んでいる人間の一人や二人はいる。だけど実際には人を殺すことができずにいる。人を殺すのはホントにむずかしい。どうしたら人を殺すことができるのか。たぶん、それには何かコツのようなものがあるんじゃないかと思う。誰かを殺したいと思うだけの人間と、ほんとうに誰かを殺してしまう人間との違いは、ほんのわずかなコツの違いなんじゃないか」
 「本気なのかよ」
 「だったらさ。本物の殺人者に会ってそれを訊いてみたらいいじゃないか。どうやったら殺人を実行することができるのか、それを訊いてみればいいんだ」
 「だから本気ですかって」
 「本気さ。本気だよ」と男は言う。「どうして本気じゃないなんて思うのかなー」

 


 男はそのまま、なあ、知ってるか、と言葉をつづけて、
 「十一年まえ、八年まえ、六年まえの夏、それぞれ遠泳大会の当日に、風町で人が殺された。五年にわたって三回――三人もの人間が殺されたことになる。十一年まえ、遠泳大会の日、海岸に沿った県道で、男が一人、胸を二カ所、何らかの刃物で刺されて死んだ。とうとう刃物は特定されなかった。何でも酒屋の店員とかで、町の飲み屋に酒を配達する途中で刺殺されたらしい。軽トラックで海岸にさしかかり、遠泳大会を見物していて、それで誰かに刺されたということらしい。あのあたりは夏でも人通りがないし、ほとんど車も通らない。岩場だらけの海岸で海水浴をするのにも適当じゃないから。
 それから三年後、いまから八年まえになるか。やはり遠泳大会の当日、たまたま海岸にさしかかったサイクリングの女性が胸を刺されて死んだ。さきの被害者とは何の関係もない。通りすがりの主婦だ。遠泳大会を見物していて殺されたのにちがいない。死体に残された傷跡が前回の事件のものと非常に似ていた。二カ所の刺し傷が残っていた。このときになってどうも二本の刃物が使われたらしいということが推測された。三年前の刃物と同じものであるかどうかはともかく、同一種の刃物であるのは間違いない。ここにいたってようやく三年まえの事件との関連性が疑われるようになった。ただ被害者との間には何の関連もないから、通り魔的な連続殺人事件として捜査が進められた。けれども捜査はすぐに行きづまってしまった。
 翌年の遠泳大会では何事も起こらなかった。おそらく警察はひそかに警戒してたんだろうけど何も起こらなかった。だけど、その翌年、いまから六年まえに、海岸で遠泳大会を見物していたらしい近所のコンビニ店員が刺殺された。女子高校生のアルバイトだ。このときは警察の警護のあいまを縫うようにして、わずかな時間に犯行が行われた。ほんの十分ほどの警備の隙をついての犯行だったらしい。もちろん警察はパトカーを巡回させていたし、警察官も何人か配備させ、海岸をパトロールさせていた。被害者は刺されたときに悲鳴をあげた。それで何人もの警察官がすぐに現場に駆けつけた。
 そのときにはもう遠泳に参加した生徒たちが続々と海岸にあがっていたが、全員がその場にとどめられた。もちろん生徒たちにかぎらず、犯行が行われたあと、海岸を離れた人間は誰もいない。生徒たちは全員が水着姿で、凶器を隠し持つところはどこもない。あの海岸は岩場が多いから、凶器を埋めて隠せる場所はごくかぎられている。なにより、被害者が悲鳴をあげてから、警察官が駆けつけるまで、ほんのわずかな時間しかたっていなかったから、どこか念入りに凶器を隠せる時間的な余裕などなかったはずなのだ。それなのにふしぎなことにとうとう凶器は発見されなかった。凶器は煙のように消え失せてしまったわけなのだ。このときも被害者の体には二カ所の刺し傷が残されていた。前回、二回の事件と同一種の凶器と判断されたが、やはり、それがどんな凶器であるかは特定されなかった。当時、おもしろ半分にだろうが、犯行はバルタン星人の仕業だって噂が中学生の間で流れた……」
 「バルタン星人ってウルトラマンの――それはまたどうして?」と訊きかけて苦笑することになった。「そうか、バルタン星人は忍者星人で姿を消すことができるからか」
 「それにバルタン星人の手はカニの鋏のように二つに分かれている。あの手で刺されれば二本の刃物で刺されたように見えるだろうって言うんだけどな。もう一つ、犯行が行われた時刻に、海岸のうえをUFOが飛んでいるのを見た、という証言が何人かの生徒から寄せられている。どうよ、これ?」
 「どうよって――」
 何とも答えようがなかった。風中学の生徒たちは何かというとUFOを目撃したという話になってしまう。ここまでくるともうUFOは、遠泳大会と同じように、風中学の伝統の一つとしかいいようがない。
 「修善寺君恵はまさかバルタン星人とまでは呼んでなかったけどな。その犯人をカニ男って呼んでた。必ず二本の刃物で相手を刺して殺害するからだ。六年まえ、遠泳大会の何日かあとに、修善寺君恵は理科室で実験をするからという口実で、五人の被疑者たちを集めた。おれたち園芸クラブの三年生部員たちだよ」
 「おれたち?」と言って、あわてて言いなおす。「あなたたち?」
 「ああ、そうだ」と男はうなずいた。「おれもそのなかの一人だったんだよ。当時、おれも園芸クラブの部員だったんだ。デージーを植えたり、花壇に肥料を撒いたりしてな。もっとも、そのときにはもうおれたちは三年生だったから、事実上、何もしてなかったんだけどな」
 「園芸クラブ……」
 中庭の花壇を思い出した。デージーやチューリップが植えられている――それはもうほとんど犯罪的といっていいまでに――子供だましの花壇。考えたこともないけれど、あんなものだって誰かが手入れしなければ維持できないはずなんだ。いまも園芸クラブってあるのだろうか。それとももうとっくに廃部になっているのだろうか。
 六年まえに中学三年生だったということは、いまは二十一歳ということか。たしかにそれなら教育実習生として派遣されてきたのも計算が合う。
 計算が合わないのは、そのときの三年生部員が全員、五年にわたって三人もの人間が殺されたという殺人事件の被疑者にされたそのことだった。
 だって十五歳の五年まえといえば、まだ十歳か、せいぜい十一歳のはずじゃないか。絶対に計算が合わない。そんなことがあるはずがない。――もっとも三年まえであれば十三歳か、十四歳になる。こちらのほうは可能性が皆無というわけではない。皆無どころか、現に十四歳のぼくがこうして松井を殺そうとしているのだから、大いに可能性があるといっていい。
 だけど――。
 どちらにせよ、これは警察が園芸クラブの部員を殺人事件の被疑者としてあつかったというたぐいの話ではないようだ。そんなことがあれば、なにしろ――生徒が犯人あつかいされたのだから――大変なことで、後々まで学校の話題として残らないはずがない。被疑者が未成年であれば、警察は極秘のうちに捜査を進めたろうが、それにしたって何一つ情報が外部に洩れないなどということは絶対にありえない。
 つまりはその修善寺君恵という女生徒一人が園芸クラブの三年生部員を殺人事件の犯人ではないかと疑ったということになる。もしかしたら殺人事件を独自に調査するために園芸クラブに入ったという可能性だって大いに考えられる。それにしても園芸クラブの三年生部員が殺人事件の犯人ではないかと疑われるだけの何かしかるべき理由があったのだろうか。
 「どうして園芸クラブの五人の部員が殺人犯だと疑われることになったんですか」
 と尋ねた。
 「どうしておれたち六人が殺人事件の被疑者にされたのか――」と男は言った。
 「それはおれにもわからない。修善寺君恵に訊いてくれ」
 「その修善寺君恵さんって人も園芸クラブの部員だったんですか」
 「そうだ。三年生にもなって園芸クラブに入ってくるような物好きはいなかったから最初は何だと思ったよ。彼女はワシントンからの帰国子女だったから、ふつうの生徒とは感覚が違うのかなって――まさか、おれたち園芸クラブの部員のなかに、殺人者がいるのではないかって疑って、それで入部してきたなんて夢にも思うはずがない」
 「そうだったんですか」
 「何が?」
 「ほんとうに当時の園芸クラブ員のなかに殺人犯がいたんですか」
 「だからさ。それはおれにもわからない。ただ修善寺君恵が、あの日、理科室におれらを集めたのは、真犯人を指摘するためだったんじゃないかと思う。ほら、よくミステリー・ドラマなんかで、最後に探偵が関係者を集めて謎解きして、真犯人を指摘するじゃないか。彼女はそれをしたかったんじゃないかと思う。でも、そのまえに水素に引火して、爆発事故が起きてしまった。彼女は顔に大火傷を負って入院してしまった。結局、犯人はわからずじまいさ」
 「彼女はどうなったんですか」
 「さあ、なにしろ火傷を負ったところが顔だったからな。この町の病院では処理しきれなかったんだろうと思う。どこか大きな病院に移送されたんじゃないかな。死んだという話も聞いてないけど、治ったという話も聞いてない。どちらにしろ、もうこの町にはいないんじゃないかな。そのあとの消息は聞いてないよ」
 「それにしてもおかしいな」ぼくは首をひねった。「どうして、よりによって理科室なんかに人を集めたんでしょうか。ただ謎解きをするだけのためだったら、ふつうの教室にすればよかったろうと思うんだけど」
 「水素の実験をしたかったんじゃないか」
 「だから」とぼくは言いつのった。「どうして水素の実験なんかする必要があったんでしょうか」
 「さあ」
 「あなたはその場に同席してたんでしょう?どうして理科室なんかに人を招集したのか、どうして水素を発生させる実験なんかしなかればならなかったのか、修善寺君恵さんはそれを教えてはくれなかったのですか」
 「教えてはくれなかった」と男はさすがに悔しそうに言う。「ほら名探偵って、最後のぎりぎりになるまで、事件の真相を話そうとしないじゃないか。彼女もそれを気取っていたんじゃないかって思うよ」
 「彼女は名探偵だったんですか」
 とぼくは尋ねたが、さすがにわれながら、この質問は間が抜けているように感じた。フイクションのなかででもないかぎり、この世に名探偵などというものは存在しないだろう。
 「それはまあ推理趣味はあったんだろうさ。ミステリーが好きだった。それは否定できない。だけど、そのことだけで彼女の行動を説明することはできない。おれはそう思う」
 「それはどうしてですか」
 「何かな。いくら母親の実家だからといって、ワシントンとこの町とではあまりに環境が違いすぎたんだろうよ。それで彼女、精神的に追いつめられていたんじゃないかな。おれは彼女からそんな印象を受けた」
 「その印象とは具体的にどういうことなんでしょうか。ワシントンから帰ってきたばかりで、この町には友達もいない。ひとりぼっちだったんでしょうか」
 ひとりぼっちで孤独だったのか? ぼくのように――。
 「ああ、孤独だったろうし、しょっちゅうイライラしているようにも見えた。あれは何でかな。何であんなにイライラしていたのかな。ときどきヒステリックなまでに見えたよ」
 「何にそんなにイライラしていたのか彼女そのことを話しませんでしたか」
 「話さなかった。というか彼女、たちいったことは何も話さなかったよ。自分のことは何も話そうとはしなかった。なにしろワシントンから帰国してきたばかりで、彼女、学校の誰とも親しくなる時間なんかなかった。何かな、ひとりで探偵ごっこをして、ひとりで盛りあがっていた。幸せそうには見えなかったし、実際に彼女が何を考えていたのか誰にもわからなかった――」
 「探偵ごっこですか」
 「ああ、おれにはそんなふうに見えたな。園芸クラブの誰一人として彼女の行動をまじめに受け取っている人間はいなかった。実際のところ、誰も彼女が何を考えていたのか、わからなかったんじゃないのか」
 「興味もなかった?」
 「ああ、多分な」
 そういうことであればやむをえない。話を変えることにした。
 「修善寺君恵さんはいつからアメリカにいたんですか」
 「父親の仕事の関係で小学校の一年生のときにはもうワシントンにいたって聞いたように思う。何でも両親が離婚して、それで母親の実家がある風町に帰ってきたんだ、ってそんなふうに言ってたように思うよ」
 「おかしいじゃないですか。それではその五年まえ――ええと、ということはいまから十一年まえになるのかな――の殺人事件とか、のときにはまだ彼女はワシントンにいたはずじゃないですか。それなのにどうして風町で起きた殺人事件の犯人を知ることなんかできたんですか」
 「そんなことおれに訊いたってわかるかよ」と男は苦笑するように言って、「なにしろ修善寺君恵が風中学に入ってきたのは夏休みが始まる直前のことだったんだ。入学するのと同時に園芸クラブにも入ってきた。さっきも言ったように誰とも知りあう時間なんかなかったよ。それだから部員の誰一人として彼女がどんな人なのか知らなかった。というか学校の誰も知らなかったんじゃないかな。知り合うまえにあの爆発事故に遭遇した。結局、彼女のことは何もわからずじまいのままで終わってしまった――」
 「……」
 「なにしろ彼女は美人だったからな。それに園芸クラブのくせに、男子部員のほうが多かった。どちらかというと帰宅部のようなものだったからな。それでもかまわないようなもんだけどな、それにしても園芸クラブで男子のほうが多いってのは何かな、カッコ悪い気がしたものさ。彼女が入部しても、まだ男子のほうが多かったけど、それでもどうにか園芸クラブとしての格好がついたように感じたものさ」
 「修善寺君恵さんは園芸クラブに入ってからどんな様子だったんですか」
 「夏休みが始まると、園芸クラブの何人かに話を聞いてまわったらしい。おれのところには来なかったから、何の話を聞いたのかはわからないけどな。――要するに連続殺人事件の捜査をして回ったということらしい。わけわかんないよ」
 矢作はまた動いた。窓から射し込んでいるハレーションのなかに体の輪郭が二重にぶれたかのように見えた。その残像が白っぽい光のなかに黒々と浮かびあがる。
 まるで一瞬、そこに黒イヌが横顔を見せたかのように。黒イヌはハッ、ハッ、ハッと赤い舌を出していた。笑っていた。
 「あ……」
 ぼくは思わず声をあげていた。ベッドのうえを尻で後ずさった。壁に背中が当たって鈍い音をたてた。
 「どうかしたのか」矢作は不審げにぼくを見た。
 「いえ、何でもありません」
 ぼくは首を振った。そう、何でもない、何でもない、ただ……この矢作には何か違和感のようなものがつきまとっていて、それが――喉に刺さった魚の小骨のように――妙に気にかかるだけのことなのだ。
 その違和感は何なのか? 何から来ているのだろう? どうしていつもあの黒イヌと錯覚されるのか。ぼくはどうにかしてそれを知りたい。それを知る方法はないものか、と思う。そして、そう思うだけで焦燥感がつのるのを覚える。口のなかがさらに渇いてしまうのだ。
 「それで警察の捜査はどうなっているんでしょうか。なにか犯人逮捕につながる手がかりのようなものを突きとめたんでしょうか」
 とぼくは訊いた。
 「なにもニュースで報じられなかったところを見るとさして捜査に進展はなかったんじゃないかな。有力な容疑者が浮かんだという話も聞いていない。何といっても凶器を特定できていないことが最大のネックになっているんじゃないかな。最後の事件にいたっては、殺人現場付近から出てきて当然のはずの凶器がどこかに消えてしまっている。失態もいいところさ。なにしろ最後の事件からだってすでに六年が過ぎている。おれはいまでも警察が捜査をつづけているかどうか疑問に思うよ。わが県の警察の検挙率は日本でもワーストの部類に入る。無能だ。通り魔連続殺人事件の捜査はこの県の警察にはちょっと荷が重いかもしれない――」
 監察医制度もないことだし、とこれはぼくが頭のなかでつぶやいた。そしてさらに質問を重ねた。
 「十一年まえは酒屋の店員、八年まえはサイクリング途中の主婦、六年まえはコンビニでアルバイトをしていた女子高生……その三人の被害者の間には相互に何か関係があったのでしょうか」
 「何もなかったようだ。警察の見解ではいずれもたまたま遠泳大会の当日に海岸を通りがかったにすぎない、ということらしい。行きずりに殺された、運が悪かった、ということなんじゃないか」
 「要するに、まったくの通り魔殺人ということでしょうか」
 「そういうことだと思う。それぞれの殺人に個人的な動機はなかったんじゃないか」
 「念のためにお訊きするんですが、矢作さんも含めて、当時の園芸クラブの部員のなかに被害者と何らかのかかわりがあった人はいるんでしょうか」
 「いないと思う。おれ自身ははもちろん被害者に知り合いはいない。一人ひとり確認したわけではないけれど、当時、ほかの園芸クラブの部員にも被害者とかかわりのあった人間はいなかったんじゃないかな。何らかのかかわりがあれば、当時、部員たちの間で話題になっていたはずだから」
 「園芸クラブの部員たちは仲がよかったんでしょうか」
 「そうでもない。まあ、廊下で顔をあわせれば立ち話ぐらいはするけれど、放課後に一緒に遊ぶというようなことはしなかった。当時の校則で生徒は全員、何らかの部活をしなければならない決まりになっていた。それでまあ、渋々、園芸クラブに入っていたような連中ばかりで、部としての活動は最低限のことしかしていなかった。さっきも言ったように帰宅部も同然だったから……」
 「個人的な殺害の動機はない、犯人と被害者との間にかかわりはない……そういうことであれば警察にしてからが犯人を突きとめるのは至難のわざだ。事実、最後の事件が終わってから六年がすぎても、捜査に進展があった様子はない。それほど難しい事件なのに、修善寺君恵は園芸クラブの部員のなかにその犯人がいる、と推理したらしい。それはどうしてだったのかと思いますか」
 「わからないよ。もしかしたら、すべては彼女の妄想だったんじゃないか、とも思うんだけど……」
 「だけど――何ですか」
 「きみは花壇からこのビニール袋を掘り出した。たぶん偶然からだと思う。バインダーのなかには事件当時の新聞の切り抜きが入っている。いずれも十一年まえ、八年まえ、六年まえの殺人事件の新聞記事のコピーだ。誰があんなものをあそこに埋めておいたのか、それはおれにもわからない」
 「修善寺君恵がバインダーを花壇に埋めたんじゃないんですか」
 「どうして? 何のために彼女がそんなことをする必要があるんだ?」
 「さあ」
 ぼくとしても何も確信があって言ったことではない。あいまいに首をひねらざるをえない。
 「バインダーのなかには理科室の爆発事故のことを報じた記事も入っていた。彼女は事故のあとすぐに病院に搬送された。顔に大火傷を負って重態だった。彼女にこの記事をバインダーに挟んでビニール袋に入れるのは不可能なことだと思う。それに爆発事故があったのはすでに六年もまえのことだぜ。ほかの場所じゃない。花壇に埋められていたんだ。日常的に花を植えたりするところだ。いくら何でも六年もの時間があればとっくの昔に掘りかえされていたはずじゃないか。これはごく最近、誰かが花壇に埋めたものにちがいない。そうは思わないか」
 「そうかもしれません。そうだろうと思います」とぼくはうなずいて、「だとすると、これはどういうことになるのでしょう。誰がこのバインダーをビニール袋に入れて花壇に埋めたんでしょうか」
 「犯人じゃないだろうか」と矢作は低くささやくような声で言う。「おれは犯人がこれを花壇に埋めたんじゃないだろうかと思う」

プロフィール

山田正紀(やまだまさき)
1950年生まれ。1974年に『神狩り』で第6回星雲賞を受賞して、劇的なデビューを果たす。以後、特にSFやミステリ作品を中心に数々の優れた作品を生み出し、『最後の敵――モンスターのM・ミュータントのM』で第3回日本SF大賞を、2002年に『ミステリ・オペラ』(早川書房)で第2回本格ミステリ大賞および第55回日本推理作家協会賞をダブル受賞。主な著書に『僧正の積木唄』(文藝春秋)、『マヂック・オペラ』(早川書房)、『カオスコープ』(東京創元社)、『雨の恐竜』(理論社)ほか多数。

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