カネハラ言ノ葉研究所

日夜、英語と日本語のあいだで格闘するスーパー翻訳家・カネハラ教授の「言ノ葉研究レポート」。言葉のもつ力、不思議、面白さが見えてきます!

第9回 ソースはどこから

 前回の「ホルモン」について京都のモヒカン少女からこんなメールがきたので、ご紹介。

  そうだ、ホルモンのコラム、読みました。
  こっちでは普通にホルモンを、ほるもんと、認識してますよ。だって、大阪人の友達でホルモン嫌いな子は「なんで捨てるもん食わなあかんねん」って言い訳したりしてますもん。皆、たぶんどっかで語源を聞いたことあるのか、それともなんとなく、ホルモンはほるもんって音から解ってるのか、どっちなのかは曖昧ですが……。元々の語源と、今使われてる意味としてのホルモンと、どっちもが同時に飛び交ってるのってちょっと考えると、変ですよね。ホルモンを食わない自分としては、ホルモンは「捨ててもいいんじゃね?って肉」って思ってメニュー見てます。てか、ホルモンって漢字じゃないのに表意文字だったんですね。今気がついた。って考えると、自分の中で変な読み方とか汲み方しちゃってる言葉、いっぱいあるんでしょうね。

  彼女は現在、ヴィレッジヴァンガードでバイトしてるそうです。まだピンクのモヒカンらしいのです。

  さて、今回は「ホルモン」からいきなり「ソース」の話へ。ソースといっても、ホワイトソースとかベシャメルソースとかの“sauce”じゃなくて、“source”、つまり「源泉、水源、出所」などという意味のソース。文学関係だと、「材源」なんて野暮な訳語をあてることもある。そうそう、このコーナーには珍しく、アカデミックな話なのだ。
  じつはもう30年ほど前のこと、大学院である先生から「その作品のソースを知っているかね?」とたずねられて、「え、え、え?」と反応したことがある。なんのことはない、簡単にいってしまえば「ネタ」、あるいは「種本」のことだ。たとえば、シェイクスピアの『リア王』のソースは、作者未詳の劇『レア王とその三人娘、ゴネリル、レーガン、コーデラの実録年代記』といわれている。『リア王』を知っている人なら、このタイトルを見ただけで、「えー、それって盗作じゃん!」といいそうだ。『レア王』の上演からおそらく10年しないうちに『リア王』が上演されているらしくて、まあ、現代なら、訴えられたかもしれない。細かい部分や、エンディングはちがうけど、設定そのものはそのまま借りてきてるわけだし。
  しかし、当時はおおらかだったのだ。著作権なんてなかったし。だから、同業者同士、異業者同士、仁義なきパクリ合いだったといっても過言ではない。
  とくにシェイクスピアなんか、自分のオリジナルといえる作品はあまりない。たいがい、ネタ、つまりソースがある。たとえば、白水社の小田島雄志訳「シェイクスピア全集」の解説によれば、こんな感じ。
●『マクベス』←『ホリンシェッドの年代記』
●『ジュリアス・シーザー』←プルタークの『英雄伝』のなかの「シーザー伝」「ブルータス伝」「アントニー伝」
●『テンペスト』←ヤーコブ・アイラーの『美しきジデア姫』
  盗作であろうが、パクリであろうが、おもしろければ勝ち、という時代があったのだ。『三銃士』なんかで有名なアレクサンドル・デュマが、弟子に盗作で訴えられ、法廷で、「あ、たしかに盗作だけどね、おれの書いたやつのほうがずっとおもしろいから」と豪語したという伝説もあるくらいだ。この流れは延々と続いてきた。というか、ついこないだまでそうだった。若い人は知らないと思うけど、いまから30年、40年前の日本のマンガなんか、いろんなところから無断でネタを借りてきていた。

  またシェイクスピアにもどるけど、『ロミオとジュリエット』のソースは、アーサー・ブルックの『ロミウスとジュリエットの悲劇の物語』(1562年)という長詩だといわれている。そしておもしろいことに、この日本にもよく似た物語がある。文楽、歌舞伎の名作、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の「山の段」がそれ。
『ロミオとジュリエット』は、花の都のヴェローナで、権勢を争う、モンタギュー家とキャピュレット家、この両家のロミオとジュリエットが愛しあってしまうところから起こる悲劇。蛇足ながら、ロミオはおそらく気の多いプレイボーイで、そんなロミオが命がけで恋してしまう相手のジュリエットは、なんと「14の春を」まだ迎えていない(素直に考えれば、ジュリエットは13歳……だけど、まあ「14の冬」はもう見てるかもしれない)。
  一方、『妹背山婦女庭訓』の「山の段」では、吉野川をはさんで、その両方に、妹山と背山というふたつの領地、それぞれを治める太宰と大判事、その子どもの雛鳥と久我之助(こがのすけ)。このふたりが結局は、死によって結ばれるという物語。まさに日本版『ロミオとジュリエット』。
  いやあ、よく似ている……が、おそらく『ロミオとジュリエット』と『妹背山婦女庭訓』のあいだには直接の影響とかはないと思う。『ロミジュリ』の初演が16世紀末、『妹背山』の初演(文楽)が1771年だから、はるばるシルクロードか何かをたどって、長崎あたりまで話が伝わって、それが近松半二たちの耳に入って……という可能性がなくもないけど、まあ、ないかな。それより、人間って、国は変わっても同じようなこと考えるんだなあとすませるのが大人の常識ってやつだろう。

  じつはもうひとつ似たような話が歌舞伎にある。鶴屋南北の『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』。なんと、これをシェイクスピアの『ロミジュリ』の翻案であると主張した人がいた。そして、それに対し、おいおいと声をかけた人がいた。
  声をかけたのは中野好夫……といっても知らない人が多いと思うので、ちょっと解説を。中野好夫は東大の英文科の教授だったけど、居心地が悪かったのか、給料が安かったのか、途中であっさりやめて雑誌の編集長をやったり、翻訳や批評をやったりしたあげく、また中央大の教授になったりという、おもしろい経歴の人。ただ、金原にとっては、ディケンズ、コンラッド、モームといった英文学の翻訳者として非常に印象の強い人だ。
  この中野好夫が『英文学夜ばなし』という1971年出版のエッセイ集に、こんなふうに書いている。

  ところで、いまではもう四十年近くも前の話になるが、当時竹村某という英語学者がいて、例の四世鶴屋南北におけるシェイクスピアの影響といった、かなり異色の発表を英文学会でした。

  1971年の40年前ということは1930年頃、ということは今からおよそ80年前のことだ。
  さて、ここからちょっと話は入り組んでくる……けど、それを簡単にまとめてしまうと、中野好夫の指摘は以下の通り。
  そもそも、竹村某の主張の核になっている部分は、太田南畝『一話一言』および、伊原青々園の論稿『日本に於ける沙翁劇』(「沙翁」というのはシェイクスピアのこと)の一部の盗み取りであって、それがよろしくない。さらに、その主張を支えるべき根拠が薄弱であり、「わたしはこの影響論を信じない。」
  もちろん、中野好夫も絶対否定しているわけではない。影響説を裏付ける証拠があまりに少ないといっているのだ。
  このあたりが非常に、というか、微妙におもしろい。もちろん、決着などついていないわけで、ネットで調べてみると、まだこの説が根強く残っていることがわかる。南北の『心謎解色糸』は日本で初めてのシェイクスピア劇の翻案であったと書いている人もいる。また、中公文庫の『日本史を読む』という丸谷才一と山崎正和の対談集にこの説が出てくるが、本当なのだろうかと書いている人もいる。
  南北の書いた物が見つかって、じつは、南蛮に伝わる異なる話をきき、これに触発されて、というふうなことが書いてあれば、即決着となるのだが……。
  このほかにも似たような話、物語はいくらでもある。たとえば、言文一致運動の提唱者であり、日本で初めてのシェイクスピア全集の訳者でもある坪内逍遙が『百合若大臣』は「ユリシーズ」の翻案であるといっていたのは有名……だが、これも確証はない……けど、ユリシーズとユリワカってなんか似てるよな。
  とまあ、このように、語源と同じように、物語や話のネタというのも、あんがいとわからない。そこがまた、楽しいのだと思う。まあ、結局、どっちでもいいんだけど、そのへんで侃々諤々(かんかんがくがく)の争いになってしまうのも、また楽しい。

プロフィール

金原瑞人(かねはら・みずひと)
1954年、岡山県生まれ。法政大学社会学部教授。翻訳家。ヤングアダルトの分野を中心に精力的に翻訳活動を行ない、訳書は300点近い。エッセイや評論などでも活躍。おもな訳書に『豚の死なない日』(ロバート・ニュートン・ペック)、『満たされぬ道』(ベン・オクリ)、『青空のむこう』(アレックス・シアラー)、『ブラッカムの爆撃機』(ロバート・ウェストール)、『リビアの小さな赤い実』(ヒシャーム・マタール)、『武器よさらば』(アーネスト・ヘミングウェイ)、『国のない男』(カート・ヴォネガット)など。著書に『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』『大人になれないまま成熟するために』などがある。

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