カネハラ言ノ葉研究所

日夜、英語と日本語のあいだで格闘するスーパー翻訳家・カネハラ教授の「言ノ葉研究レポート」。言葉のもつ力、不思議、面白さが見えてきます!

第11回 カード・マジック

 20世紀前半を代表するイギリスの作家にジェイムズ・ジョイスがいる。意識の流れ(無意識)まで小説に取りこもうとした人で、代表作は『ユリシーズ』。
  いまからもう35年ほど前、法政大学に荒正人という教授がいらっしゃった。荒先生は大のジョイス好きで、ある年、これを授業に使った。毎週、1章分の要約を提出させるというもので(もちろん、日本語訳で読んでOK)、荒先生は授業が始まると前回提出した要約にAからCまでの成績をつけたものを返却し、当日提出の要約をまとめて持って帰るという授業だった。たまに短いコメントがあったりしたものの、ほぼ毎回、10分か20分で終わっていた。
  荒先生はじつに変わった人物で、じつに浮世離れしていた。あるとき、教壇で学生の名前を呼びながら、採点済の要約を返却していたとき、いきなり激昂して「呼ばれたらこいといっただろう! 呼ばれもしないのにくるんじゃない!」と怒鳴って、前にいた学生の頭を出席簿でなぐった。そして「みなさんの成績はすべてDです。わたしは、もう授業にはきません」と宣言して、本当にこなくなった。そうなると、出席する学生の数も次第に減ってきて、2か月ほどすると、教室にも数人しか学生がいないという状況になった(こうなってまでくる学生がいるということ自体驚きだと思うが、まじめな学生というのはいつの時代でもいるのだろう)。ところが、そんなある日、荒先生がふらっと教室に入ってきて、「おや、今日は少ないですねえ」といったらしい。そんな有名なエピソードを残した方だった。
  また、卒業論文の口頭試問の当日、大学に姿を現わさず、事務の人があわてて家に電話をしたら、「ああ、そうでしたか。来週にしてください」といったとか。職員の人もこまったと思う。学生もこまっただろうけど。ともあれ、ほぼいつもシャツの後ろをズボンからはみださせて大学内をふらふら歩いている姿は異様に目を引いた。

  さて、当時はジョイスがまだまだ日本でも人気があって、どこの大学の英文科でもこれをテキストに使う先生が必ずいた。そのジョイスの初期の作品に『若き芸術家の肖像』(1916年)という小説がある。自伝的な要素が多いので有名なんだけど、大学院のときにこれを原書で読まされた。平井豊一先生の授業だった。平井先生は専門がシェイクスピアとジョイスという、ちょっと変わった方だったが、すこぶる面倒見のいい先生だった。あるとき、大学院の授業の途中で、「いま、イギリスからシェイクスピア・カンパニーがきているが、きみたちはもう観にいったかね?」とたずねた。ぼくは指導教授がシェイクスピアということもあって、もう観ていたけど、ふたりほど観ていない学生がいた。すると「それはもったいない。今日明日も当日券があるはずだから、ぜひいってきなさい。チケット代は貸してあげる。返すのはいつでもいい」といって財布からお金を。
  平井先生は晩年、目をずいぶん悪くされて、小金井の介護施設に移られた。その頃一度、大学院仲間がジョイス関係の文献をお借りしたいというので、いっしょに訪ねたことがあった。夏で、駅付近の果物屋でスイカをひとつお土産に買っていった。奥様と迎えてくださった、異様に分厚いメガネをかけた平井先生がそれを見て、厳しい顔で「学生が、二度とこんなことをするんじゃない」とおっしゃったのが印象的だった。
  その平井先生も亡くなり、その蔵書が現在、法政大学の図書館に収められている。法政のHPにはこうある。

  • 本学英文学科教授を務めた英文学者平井豊一氏(1907-1993)の個人蔵書。
  • シェイクスピアを中心とするイギリス演劇関係と、ジェイムズ・ジョイスの二本の柱とした西欧の文学全体にわたるコレクション。
  • 和書 3,702冊  洋書 10,320冊

  わが家の蔵書とちがって、雑本がほとんどない。
  その平井先生の授業で『若き芸術家の肖像』の原書を読んでいたときのこと、「スペード形の傷のあるジャガイモ」というのが出てきた……というか、ぼくがそう訳しただけなんだけど、これがいうまでもなく誤訳。じつは、そのとき訳本を参考にしながら予習をしていて、それにそう書いてあったのだ。
  平井先生は笑いながら、「金原くん、それはトランプのスペードじゃなくて、鋤だよ」とおっしゃった。つまり、掘ったときの鋤のあとがついているということ。まあ、昔から誤訳の多い金原だったということらしい。

  ところで、このスペードだが、英語では“spad”。意味は「鋤」。ところが、トランプのスペードは鋤じゃなくて剣。イタリア語の“spada”(剣)からきているらしい。
  それはさておき、トランプの4種類の絵柄について、松田道弘のいくつかの本を参考に紹介してみよう(松田道弘というのは、日本のマジック界の第一人者で、著作も非常に多いし、名著もまた多い)。

  • 英語では、スペード、ハート、ダイヤ、クラブ。
  • 仏語では、槍、心臓、教会の敷石、三つ葉。
  • 伊語では、剣、聖杯、貨幣、棍棒。
  • 独語では、木の葉、心臓、鈴、ドングリ。

  これを見てもわかるように、トランプというのは、その国柄がよく表れている。ということはまた、元々の絵柄にそれほどの拘束力がなかったということでもある……んだけど、その「元々」がじつは、よくわからないらしい。紀元がエジプトなのかインドなのか中国なのか。少なくとも日本ではないらしい。
  あるとき、母親から中国土産をもらった。なにかというと、「水滸伝トランプ」。これを手にしたときは、ちょっとびっくりした。というのも、これには二組のトランプが入っていて、それぞれ正札52枚とジョーカー2枚。つまり、合計108枚のカードが入っている。そう、『水滸伝』に登場する英雄は108人なのだ。これを見て、そうか、トランプはどこが発祥の地かは不明だけど、少なくとも、この『水滸伝』の洗礼をどこかで受けて世界に広がったのだと思った……のだが、どうもそうではないらしい。
  というのも『水滸伝』は、施耐庵(したいあん)と羅貫中(らかんちゅう)がまとめたものといわれていて、その成立は13世紀終わりから14世紀後半にかけてだったらしい。ところが、松田道弘の本によると、ジョーカーが登場したのは19世紀後半のヨーロッパというのだ。残念!
  しかしそれにしても、『水滸伝』の108人と、トランプ54枚というのは偶然といえば偶然すぎるような気がする……のは、ぼくひとりだろうか。それから、もし気になる人がいたら、『不思議の国のアリス』のテニエルの挿絵を見てほしい。さて、最後のほうでトランプが出てくる場面に、ジョーカーはいたかいなかったか?
  トランプにはほかにも不思議と気になる要素がいくつかある。
  たとえば、1から13までの数字をすべて足すと(はい、数学の授業でやったはずなんだけど、覚えてるかな)、(1+13)×13÷2=91。これが四種類あるから、4倍すると364。これにジョーカーを1枚足すと、365。そして閏年のために、ジョーカーがもう1枚ある……って、本当かなあと思ったりするけど、まちがいなく、こうなっているのだ。
  たとえば、英語だと、カードの名前は、“ace, two, three, four, five, six, seven, eight, nine, ten, jack, queen, king”。この文字をすべて足すと52。ちょうど正札の枚数になる……って、本当かなあと思ったりするけど、まちがいなく、こうなっているのだ。
  だれかがたくらんでこうしたのか、あるいは偶然こうなったのか、じつに不思議だと思う。
  ただ、フランス語だと、“as, deux, trois, quatre, cinq, six, sept, huit, neuf, dix, valet(従者), dame(奥方), roi(王様)”で、合計51。惜しくもひとつ足りない! 英語風に“reine”(女王)だったら、52なのに。

プロフィール

金原瑞人(かねはら・みずひと)
1954年、岡山県生まれ。法政大学社会学部教授。翻訳家。ヤングアダルトの分野を中心に精力的に翻訳活動を行ない、訳書は300点近い。エッセイや評論などでも活躍。おもな訳書に『豚の死なない日』(ロバート・ニュートン・ペック)、『満たされぬ道』(ベン・オクリ)、『青空のむこう』(アレックス・シアラー)、『ブラッカムの爆撃機』(ロバート・ウェストール)、『リビアの小さな赤い実』(ヒシャーム・マタール)、『武器よさらば』(アーネスト・ヘミングウェイ)、『国のない男』(カート・ヴォネガット)など。著書に『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』『大人になれないまま成熟するために』などがある。

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