お戒壇巡りって、ご存知でしょうか。
 今日はどうしたのですかという私の問いに、女はそう切り出した。
 あ、行かれたことがあるんですね。だったら話が早いです。アレは本当に真っ暗ですよねえ。中入っちゃうと何にも見えないんで、初めてだと皆さん驚かれますもんね。この間――そう、年の瀬の頃なんですけどね。特に酷かったんですよ。何って、観光客が。わかるんですけどね、キャー暗い、とか、後どれくらい? 後どれくらい? なんて騒がれると、興ざめしちゃうでしょう。だから私ちょっとおどかしてやろう、て思ったんです。うふふ、意味はないんですけどね、中頃まできたあたりで、にゃあ、なんて鳴いてやったんですよ。やだ先生、後ろなんか見て。私ですよ。上手いもんでしょう、鳴きマネ。ですから皆さん面白いくらい驚いてくれまして。今、猫の声したよね。何で? なあんて言って。つい面白くなっちゃいまして何度かにゃあにゃあ言ってたんですけどね、そしたらそのうち別な人もマネして鳴きはじめたんです。
 にゃあにゃあ
 にゃーん
 にゃあにゃあにゃあにゃンにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにャ
 さすがにやり過ぎでしたね。列の先頭あたりの人が錠前をがちゃがちゃ触る頃になっても、まだにゃあにゃあ言ってましたから。がちゃん、にゃあにゃあ、がちゃがちゃ、にゃああンてな具合で、ずうっと。
 それでですね。気がついたのは、本堂から出た後だったんですけれど。
 女は浅黒い腕を差し出した。
 ――痛みはしないんですが、いつまでたっても消えなくて。
 腕には産毛の合間を縫うかの如くびっしりと、猫が引っ掻いたような跡が残されていた。
 傷跡が幽かに放つ獣の臭いに眉を顰(ひそ)めると、女の眼は三日月形の、緩やかな弧を描く。

阿丸まり(あまる・まり)
世界で一番善光寺に近い短期大学で学びはじめて早一年あまり。
月日の流れが急加速する毎日に、時折恐怖しております。

 産まれたばかりの坊ちゃんを抱いて、裏戸からそっと出た。奥様がお産みになった子だが、父親は旦那様ではない。旦那様はもう三年も知事として地方に行ってお戻りでない。これが知られたら奥様は石で打たれて殺されるし、私にも鼻を削がれるくらいの罰はあろう。だから夜陰に乗じて坊ちゃんを隠すのだ。隠すと言っても私の里に預けるのだが。きれいな子なので欲しい人はすぐ見つかるだろう。
 お屋敷を離れると小さな影が現れた。小声で阿道(あとう)かと問うと影が頷く。山の道は里への近道だが危険も多い。賊や獣、あやかしに遭うやも知れぬ。阿道は十を過ぎたばかりの童子だが、山の道に明るいので案内を頼んだ。私は夜目の利く阿道に導かれ、山の細い道を上り下りした。湿った森の匂いが全身を覆う。夜鳥が啼くと心底震えたが、足を止めなかった。
 しかし、だいぶ歩いてそろそろ里に近い野に出るはずなのに山の気配が途切れない。ふと不吉が胸に兆し、まだ歩くのかと阿道に問うたが返事がない。足を止めると後から臭く熱い息を吐く大きな気配が迫っているのがわかった。右手には衝立のような岩が続き、左手は深い谷。前を歩く阿道の影が薄闇に紛れ、細くて高い声が響いた。
「肉の柔らかい女を連れてきたぞ。おれは片方の太股で充分じゃが、分け前は寄越せよ」
 魔物にたばかられたか。
 私は坊ちゃんを抱きしめて身を固くし、重く鋭い爪に我が身が裂かれる覚悟をした。
 「――おい、この赤ん坊はおれの息子ではないか。おまえはおれに、息子を食わす気か」
 破鐘のような声がし、生臭い風が吹いた。
 「息子を連れて行く。娘、これは受領の印だ」
 坊ちゃんが風で巻き上げられると、額が熱した刃物を押しつけられたように痛み、私はうずくまった。

 これが私の額にある赤い爪痕の故事なのです。

勝山海百合(かつやま・うみゆり)
岩手県生まれ。炒めタマネギを作って冷凍しておいたり、梅酒を漬けたり、手間はかかっても、気が向いたらすぐにオニオングラタンスープが作れて、梅酒が飲める喜びには代え難い。と最近気が付いた。
 

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