週刊てのひら怪談

2007年2月、字数制限800字の文学賞「ビーケーワン怪談大賞」から生まれた作品集が『てのひら怪談』として発売され、たちまち話題となり、その夏に開催された第5回の同賞は、質量ともに前年までを大きく上まわる活況を呈した。
2007年12月、第5回の応募作663編の中から選りすぐられた作品が、『てのひら怪談2』として早くも発売された。ここでは、その『てのひら怪談2』収録作家たちが新たに書き下ろした渾身の一作を、週替わりで2編ずつお送りしていきます。
800字怪談の精鋭が腕を競う『対の妖(ついのあやかし)』の諸相を、ご堪能ください!

向こう側

 コンコンと墨のような水が、壊れたあの石の台から湧き出ている。あたりにはあの時の臭いが立ちこめていた。
 二人だけで海のほうに行ってはダメよ、引っ越しの車の中でお母さんは言った。行けるわけないよ、僕と弟は答えた。今度の家は埋立て地にあるから海が近いの、とお母さんは続けて言ったが、初めて行く土地のことなんか知っているはずないじゃんと思った。だから僕と弟は引っ越しの邪魔にならないよう、家のそばの空き地でキャッチボールをした。奥の方に、細長い石の台がある空き地だった。
 僕の投げたボールが大きく弟の上を超えて、石の向こう側に落ちた。弟は石の上に飛び乗って、拾うね、といって飛び降りた。ばちゃん、と大きな水飛沫が上がって少し僕にかかった。あたりには嗅いだことのない臭いが立ちこめた。何だよ今の、と弟の降りたあたりを見たけど、弟はいなかった。
 それ以来、弟はいなくなった。
 結局、僕と弟は二人で海に行って、弟は海に落ちたんだろうということになった。僕たちはすぐまた別の土地に引っ越した。

 僕は今日、弟のことが知りたくてあの石の台のある空き地に行った。ちょうど駐車場にする工事をしていて、あの石の台は取り壊されるところだった。こちら側からショベルカーで石の台を崩した瞬間、プンッとしたあの臭いを僕の鼻が嗅いだ。ショベルカーが止まった。工事の人があたふたしている。なんだか悲鳴も聞こえてきた。「水だ!」「黒い水!?」「いや、海水か?」声が聞こえたとき、僕は駆け出した。
 半分壊れた石の台の向こう側から、黒い水がコンコンと勢い良く湧き出ていて、下に大きな水たまりを作っていた。漏れ出る水に目を凝らすと、弟のグローブが黒い水とともにこちら側に出かかっていた。
 

プロフィール

登木夏実(のぼりぎ・なつみ)
雨の降る日は、コーヒーを片手に怪談本を読むのが好きです。でも、夕方になるとペットの犬がやってきてエルボーを鳩尾にかまされ、渋々犬に促されて散歩に行きます。雨にも、風にも、犬にも・・・負けながら。

海の思い出

 彼岸も過ぎた鄙びた港町の海岸を、僕は一人あてもなく歩いていた。何処までも続く誰もいない砂浜を見つめていると、ふと泳ぎたい衝動に駆られる。上着を脱ぎ捨てると、僕は波間へと飛び込んでいった。
 泳ぐのにも疲れ、プカプカと海面を漂っていた。いつの間にか僕の周りを子供の顔の大きさほどの半透明な物体がいくつも浮かんでいた。よくよく見ると、その物体の表面には溺死体の様に膨れ上がった醜い顔がついていた。僕は水面中に犇(ひし)めいているそれをどうすることも出来ず、ただ波に流されるままに彷徨(さまよ)っていた。そうしたら、浜の方からおっさんの声が聞こえてきた。
 「坊(ぼん)、そこで何しとるん」
 僕は、泳いでいたらいつの間にか、この変なものが集まってきて動くに動けなくなったと簡単なことのあらましをおっさんに説明した。
 「坊。ここはおっちゃんの養殖場なんやで。勝手に入ってもらっては困るわ」
 にやにや笑いながらおっさんは話し続けた。
 「坊、こいつら気持ち悪い思ったやろ。せやけど、こいつらが立派に成長したら観賞用として持て囃されて、俺もうはうはや」
 おっさんは一匹一匹愛おしそうに掻き分けながら、僕を連れて岸辺へと上がっていった。
 「こんなん見たことあらへんよ」
 安心した僕は、おっさんに尋ねてみた。
 「まだ開発の段階やからな。あと二年くらいすれば、こいつらも売り物になるわ」
 おっさんは嬉しそうにけらけら笑った。僕も嬉しくなってつられるようにけらけら笑った。
 あれから二度の夏が過ぎようとしている。未だにおっさんが育てていた奇妙な生物をこの町で見たことはない。ただ、最近夢の中におっさんがよく出てくる。おっさんはあいつらと一緒に波間を気持ちよさそうに漂っていた。そしてあいつらの顔は全て僕の顔に成長していた。僕に気付くとおっさんはけらけら笑い、つられて僕の顔もけらけら笑っていた。

プロフィール

加楽幽明(かたの・ゆうめい)
読手としては、怪談の季節を間近に迎え、まだ見ぬ怪異に思いを馳せながらも、懐具合が心配で恐怖する日々を送っております。書手としては、最近は短い怪談を書く傍ら、長い怪談も書く怪談漬けの日々を送っております。

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