<ゲスト>津原泰水さん(作家) 最終回


パターンが見えるにもかかわらず、ミステリーの魅力はあせない。それはどうしてなのだろう。物語の魅力と不思議、そして作家の創作の秘密に迫ります。
津原泰水(つはら やすみ)
1964年、広島県生まれ。89年に津原やすみ名義で少女小説作家としてデビュー。《あたしのエイリアン》シリーズで一躍人気作家となるが、96年に少女小説を引退。97年、怪奇幻想小説『妖都』を発表。主な著書に『蘆屋家の崩壊』『ペニス』『少年トレチア』『綺譚集』など。近著に、世界観をあらゆるアーティストに開放するという試み《憑依都市》の、土台をなす一冊として書かれた『アクアポリスQ』がある。

◆家は「母親空間」になる

津原:僕も母親に、職業についているとは思われてないです。(萩尾:え!)昨年まで、生まれた広島に戻って暮してたんですけど、家で何をやってるかといったら、もちろん仕事をしてるわけです、私は。そこへ母親がドアをがちゃっと開けて「あ、勉強ね」と言う(笑)。

萩尾:勉強ね(笑)。

津原:姪なんかも「勉強」って言うんですよ(笑)。いささかショックでした。「悪いけど、ここからこっちは職場だから」と言っても、全然通じないんですね。

萩尾:私は、うちの両親が「女の人が仕事をするなんて」ってタイプの人たちだったから,
特にわからないので、私が男だったらわかるのかなあって思っていたんですけど。

津原:わかんないですよ。

萩尾:あっ、そっか〜。

津原:母が掃除機を持って部屋に入って来ましてね、ブーンとかけはじめるわけです、仕事してるのに。編集さんから電話がかかってきて、「もうちょっとだけ待ってください」なんて、メールで原稿を送る相談とかしているのに。「足のけろ」とか言いますもん。しまいには資料を勝手に他所にやって、仕事机を拭き始めたり。「ここきれいにしとくから、外で遊んどけ」って(笑)。遊ばないって。

萩尾:家で自由を得るのは無理だな。だって家は母親の城だもの。

津原:オフィスにされちゃ困るわけですね。子供の頃の食事で、僕は三人兄弟なので、おかずがばーっと減っていくんですよ。そうすると母が「お母さんはいいから」と言う。食べずに偉いなって思ってたんだけど、一人暮らしをするようになってから、あれは作ってる間のつまみ食いでお腹一杯になってたんだとわかった(笑)。僕らは食べてもいいという許可を与えられているに過ぎなかった。家全体がこう、母親空間なんですね。

萩尾:そうでしょうね。母親が目を光らせていて、母親がちゃんとコントロールできる空間。だから「ここまでは母親の領分」「ここから先はあんたのとこだから、お母さん知らないよ」っていうふうに、切り替えをしてもらうためには、ある種の契約がいるんですね。何か改まって、机の前に座ってするような。

津原:でも契約しても母親って忘れるでしょ。「ゆったのに」って、こっちは思う。母親絡みの話題だと方言になりますね(笑)。

萩尾:父親もそうだけど、母親は真面目に子供の話を聞かないですよね。

津原:僕は自分の仕事について「親の理解がなくて苦労してる」と思ってましたけれど、でも萩尾さんがそうだったら仕様がないですね。むしろ苦労しない奴は許せない。日本中が苦労しろ。

萩尾:それで、自分が親とそんなふうにしてもめていたときに、他の人はどうしてるんだろうと思って、けっこう聞いたことがあるんですよ。そうしたら、四人くらい、やっぱり凄い苦労をしていました。たとえば親がちょっと離れたところに住んでいて、月に一回ぐらい会計の何かをやりに来ると、仕事場はすごい修羅場になっている。大変なのはわかっているから、邪魔をしないようにやってくれるけど、「私は娘に気を使っているんだ」という態度がありありと見える(笑)。本当は東京にやってきて寂しいから、案内もしてほしいしご飯も食べたいしおしゃべりもしたいけど、血相変えた編集さんが待ってるので、それができないから。

津原:「東京はいいね、なんでもあって」って言われます。ずっと田舎に住んでいると、東京がワンダーランドのように思えてくるらしい。テレビで見るものがディズニーランドみたいに並んでいる、東京という名のテーマパークだと思ってるんです(笑)。

萩尾:そうね。渋谷のとなりに池袋があって、銀座があって。

津原:美味しいものは全部そこにある。万博ですよ。

萩尾:とにかくみんな、苦労していました。親が何か言うのでアシスタント料を払ってもらえない、というアシさんから話を聞いたこともあるし。でも、全部女性漫画家のケースだから、もちろん男性漫画家は違うと思う。たいていの女性漫画家の場合、生活空間と仕事場はセットになってるから、両親にとっては、「娘の家に遊びに来た」って感じなので、そこが仕事場なのが、もう信じられないみたい。

津原:女親と娘の関係にはどこか、姉妹的というか一卵性のような部分があるように思うんです。だから境界が定めにくい。

萩尾:そうかもしれないですね。

津原:男親と息子は、少なくともお揃いの洋服は着ません(笑)。母と娘でお揃いの服を着たり、一緒に買い物に行く人達は多いでしょう。坊やとパパで洋服を買いには行かない。みなさん行きますか? いや行かれても全然、問題ないわけですけれど。

萩尾:息子と父親は、一緒に釣りにいくとか。

津原:キャッチボールは、やりましたね。じゃあやっぱり一卵性のようなところもあるのかな。あれ、何の話をしてたんでしたっけ。

◆復讐のロマンシチズム

萩尾:400万円を獲る方法についてです。そのキャッチボールもやったほうがいいですかね。

津原:作中で? そうですね、小説講座ふうに語るならば、ミステリーといってもあくまで小説なので。事件がらみのことだけ考えて書いてもふくよかさがなくなります。人物たちの背景はきっちりと考えておいたほうが、実際に書くかどうかは別として、いいでしょうね。行間ににじみますから。もちろん考えついた背景や脇筋を、全部書く必要はなくて。たとえば「考えつかずに書けなかった」のと「考えたけど書かなかった」のとでは、まったく違いますもんね。

萩尾:ああ、そうか。また思いついたんだけど、殺人事件が二つ三つ起こるときに、このどんどん人を殺していく犯人像ですが、この人はお金が欲しかったわけじゃなくて、もっと根深いところで復讐をしたかったんです。その人の一生はね、たぶん「信じていたかったのに、裏切られ続けた」一生で、不幸のオンパレードの人なんです。それと関わりあってくるお風呂場って、何かしら(笑)。

津原:また風呂場の謎が。そんな豪邸にユニットバスを納入した業者が、もういきなり怪しいんですけどね。ところでその人物像は『岩窟王』的ですね。そういった復讐のロマンチシズムに、萩尾さんはおおいに惹かれるのではと想像するんですが。無理やり今日のテーマに重ねますと、復讐を扱ったミステリーのなかで私は、ウィリアム・アイリッシュがコーネル・ウールリッチ名義で書いた『喪服のランデブー』が非常に好きなんです。これは、最初から犯人はジョニー・マーという青年だと読者に呈示されていいる。お読みじゃない方のために冒頭を、曖昧な記憶から御紹介しますと、<二人は毎晩八時に会った、雨の降る日も雪の日も>とまあ、とにかく美文なんです。若く貧しい恋人同士が、毎晩、仕事が終わったあとに待ち合わせをしている。ところがある晩、その場所には女性が倒れていて、まわりが「死んだ」「死んだ」と騒いでいる。かたわらに瓶が落ちてるんですね。「空から降ってきたんだ」という声をジョニーは耳にする。遊覧飛行が流行り始めた時代の話で、実際に乗客のマナーは悪く、平気で物を捨てていたらしいんです。それが事故の原因となることも珍しくなかった。

萩尾:へえ。

津原:ジョニーは遺体の顔を見るんだけど、「僕はここで恋人と待ち合わせをしてたんですけど、こんな娘じゃない」と言い、その瞬間「狂気の復讐鬼ジョニー・マー」が誕生する。遊覧飛行中の誰が捨てたのかわからない、というかみんな捨ててたってことで同罪なわけだから、彼は乗っていた一人一人を殺していくんです。まさに復讐のロマンチシズムです。

萩尾:それはいいなあ。設定がシンプルで。

津原:いいでしょ? ぜひ萩尾望都書店にもコーネル・ウールリッチを置いてほしい。

萩尾:今日、買って帰って、リニューアルの時に置かせていただきます。

◆人はなぜミステリーを読むのか?

津原:今日の御題をいただいたときに、自分はどんなミステリーが好きなのかなって考えてみたんです。小学生の頃が横溝正史の再評価ブームで、角川文庫にずらりと並んでいたという世代なので横溝さんは好きだし。いま御紹介したコーネル・ウールリッチ――ウィリアム・アイリッシュという二つのペンネームで書いている作家、どちらも同じぐらい素晴らしい仕事を遺していて、大好きです。それからギルバート・キース・チェスタトンという、そういえば「探偵がピン」という珍しいパターンの、ブラウン神父シリーズを書いた人とか。ブラウン神父は、「この人が今後神父とペアを組んでいくのかな?」と思っていると、わりと平気で使い捨てちゃうんですよ。神父の存在自体にも曖昧模糊としたところがあり、日本では未だにブラウン神父もチェスタトンも地味〜な存在です。せめてブラウン神父が水もしたたるいい男だったら人気も出そうなもんですが、これがまた冴えない。「いたのか?」「いつからいたの?」「いや最初からいましたよ」といったやりとりが何度も出てくるようなキャラクターなんですよ。チェスタトンという人は大変ひねくれ者だったそうなので、周囲から際立ったタイプの探偵を描いた小説とは正反対のことを、思いつくかぎり全部やったんだと思います。

萩尾:『皇帝の嗅ぎ煙草入れ』とか書いた人ですか?

津原:それはカーター・ディスクンですね。ディクスン・カー名義でしたか。チェスタトンは『木曜の男』や『奇商クラブ』、『ポンド氏の逆説』、ブラウン神父のシリーズは四冊だったかな、それから『詩人と狂人たち』という作品が素晴しいです。

萩尾:そうですか。ブラウン神父シリーズって書店でアガサ・クリスティの近くに置いてあるので、何度か手には取ったんですけど。

津原:読みにくいでしょ。

萩尾:うん。出てくるのがおじさんだったもので、あんまり興味が持てずに。あとね、活字がすごく小さいんですよ。もうちょっと大きくならないかなあ、と。

津原:幾重にも読みにくいんですよ。チェスタトンというのは大変な名文家なんですけれど、我々がぱっと思いつくタイプの名文ではなくて、あらゆる事象をアフォリズムのように凝縮してしまう。ゆえに時間の流れが――我々が慣れているエンターテインメント作品だとだいたい均等に流れていきますよね。僕があんまり改行なしに書いていると、編集さんが「ここ、一行空けますか?」なんて提案してくださるわけで、つまりそこに長い時間経過があるとしたら一行空けるか、せめて改行するという慣例がある――ところがブラウン神父じゃなくてチェスタトンという人は、一行のあいだに何年も経っちゃったりするんですよ。かと思えばほんの数秒のことを長々と書いていたりもする。だから全然、映像的じゃない。テンポ良く読ませようという気なんか毛頭ない。昨今の小説に慣れてしまっている読者は、かなり苦労されると思います。にもかかわらず江戸川乱歩によれば、トリックを創出した数においては、他の作家をはるかにしのいで圧倒的にチェスタトンなんだそうです。

萩尾:それはちゃんと読まないといけないですね。

津原:「横溝正史ミステリー大賞」に応募しようというんですから(笑)、ブラウン神父くらいは読んでおいていただきたい。ただ昔ほどトリックの、前例とのかぶりは気にしなくなってるようですけど。きりがないですもんね。意図して盗んだんじゃなければ、どっちが物語として面白いかという勝負だと思います。そろそろ時間ですか。では「さて」、人はなぜミステリーを読むんでしょうか、萩尾さん?(笑)

萩尾:ミステリーはなんといっても「ここに謎があるぞ」って、具体的なものが最初に提示されるじゃないですか。途中まで何が起こってるかわからないミステリーがあっても、その問題が解決すると、やっぱりスカッとしますよね。そこに理由づけというか、整合性があらわれるから。
 人間の脳というのは、何かしらきちんとした解答を求めたがる。本当に、何らかの理由づけなり解答なりを、みつけたがる構造になっているから、それが小説であっても、解決されるとスッキリするんじゃないでしょうか。

津原:そうですね。合理的にであれオカルティックにであれ、人は理由を求めたがりますよね。「なぜ私はこんなに不運なのかしら」という問いに対して、「それは前世の行ないが悪かったからです」という解答でも、「ずっとあなたの後をつけまわして意地悪をしている人がいるのです」という合理的な解答でも、意外とどちらでもよかったりする。

萩尾:逆に言えば、社会にしろ自分にしろ人生にしろ矛盾だらけで、いろんなところにほつれとか理不尽なこととか、あるわけでしょう。たとえばほら、欠陥マンションの話にしても、一所懸命に働いて30年ローンを組んだのに、欠陥商品で「12月中に出て行ってくれ」って言われて、子供の幼稚園も変えなきゃいけないし、どうしたらいいのかわからない。被害者にしてみれば、どうして自分がこんな目に遭うのか、理由はないじゃないですか。もちろん作った会社の責任だけれど、それにしても、たまたま、どうして自分達なのかはわからないですよね。

津原:あれは国もひどいし、建築業界全体の構造悪でもありますね。そこでやっぱり人は「なぜ」って思う。

萩尾:今の例は非常にわかりやすい「なぜ」だけど、日常的にそういうことがあるんですよ。その不幸には原因があるはずだと、思いたい。その理由づけに、自分とは直接関係なくても、何かまとまったものを読みたい。何かすっきりするものを読みたい。

津原:「理由がつく」というのが、こう、人間の頭にとって、すごく快楽というか……。

萩尾:安心感?

津原:うん、安心感でもあるし、発見の喜びみたいな、はっと新しいフェイズが見えてきて、物事の繋がりを認識しなおせるような、そんな気持ちを抱かせると思うんですよ。その合理主義バージョンがミステリーであると僕は思うし、オカルティックなものも、基本的な機能は同じじゃないかな。話をオカルティックな方向に持っていこうとしてるわけではなくて、結局、近代あるいは現代推理小説でもいいんですが、ポーの『モルグ街の殺人』を始祖とするならば、それは科学の時代の産物ですよね。科学の時代、合理主義の時代と共に歩んできたのがミステリーです。「この鍵はどうやってあけたんですか?」という問いに、「たぶん精霊がやって来て」という解答はあり得ないわけですよ。「誰かが念力で」とかってあり得ないでしょ。ちなみにコナン・ドイルは真面目に妖精を信じていたりもしたわけですが。オカルティックなものがどんどん滅びていった時代、合理主義という新しいものの見方が一般に広まり「ミミズにおしっこかけるな」といった伝承が口にされなくなっていった時代、その潮流のなかに咲いた大輪の花がミステリーだ――というふうに感じるわけでございます。

萩尾:それじゃあ小説としては新しいジャンルなんですね、ミステリーって。

津原:新しいですね。「遡れば古事記もミステリー」といった言い回しも可能ではありますが、近現代ミステリーは19世紀に生まれた新しい文化であり、娯楽です。「ミステリー的な構造」は古典的な物語にもしばしば隠れていますが、「横溝正史ミステリー大賞」がどこまでをミステリーとして許容してくれるのかは、僕にはわからないです。

【質問コーナー】


質問:読者の立場からミステリーを読む動機や理由づけについては、いろいろお話ししていただきましたが、ミステリーを書く人は、なぜ書くのでしょうか? 著者にも読者と同じ理由があるんでしょうか。

津原:まず創作という行為には先人の模倣といいますか、追体験のようなところがあると思うんですよ。自分が少年の頃に胸を躍らせたものは、より若い世代の胸も躍らせてくれるに違いないという、使命感と期待感がないまぜになった気持ちがある。これは確かですね。
 正直にぶっちゃけますと、書きたいのはある一場面や、ほんのディテールだったりもするんです。萩尾さんの発想法も、今日のお話からその本質が垣間見えた部分がありましたけれど、つまり書きたいアイデアを思いついたときに、どんなにしんどくてもそれを書くまで気持ちが悪くてゆっくり眠れないとか、気がついたらそのことを考えてしまっている、いったことがよくあります。これまさにミステリー的な表現になりますが、ほんの一行を書くために、長大な原稿が生まれたりもし得ると僕は思います。萩尾さんはいかがでしょう。

萩尾:それはすごくよくわかります。「そこを書かないと気持ち悪くて」という、こう生理的な。あとは、たとえばですけど、新聞でちょっと読んだだけなのに、すごい気になって気になってたまらなくなる事件が、起こったりするんですね。たとえば「マンション構造偽造疑惑」で設計をしていた姉歯さん、この人はどうしてこういう仕事をすることになっちゃったんだろう、とか、彼の子供時代にどういうことがあって、こんなことになったんだろうとか。子供さんも奥さんもいるっていうけど、もしこの人がお父さんだったら、もし私が子供だったらどうするだろうとか。そういったことを、ついついついつい考えてしまうんですね。
 たいていの出来事は、一過性で忘れたりするんですけど、何かが気になって気になって、ずーっと考えてる場合がある。それが、ミステリーとしてだんだん形を成してきたりする場合があるんです。さっき話で言いました、「一人の男の人は誰にも知られずにどれぐらい家庭を持てるのか」は、なぞなぞみたいなとっかかりなんですけど、ちょっと面白いなと思ってしまうところがあって。というのは、知り合いに結婚して15年目に旦那が浮気してるのがわかった人がいるんですが、それも結婚前からだったから、奥さんがまったく知らないでいたのに、二つ家庭を持っていたんですね。それがばれた時点で離婚しちゃったんだけど、両方の家に子供がいるから、それはもう大変だったらしいんですけど。変な言い方ですが、そのお父さんやヒューザーの社長に、「やむにやまれぬ理由」が、もしあるんだとしたらなんだろうとか。そこらへんを、ドラマ的に作りたくなったりしてしまうんですね。

津原:地下の水脈を探すみたいな感じじゃないですか。

萩尾:そうですね、本当かどうかわからないけど、「これが理由としては一番いいようだ」という答えを見つけると、けっこう嬉しかったりするんですよ。

(次回更新日は4月17日です)
 
 

【萩尾望都】
1949年福岡県生まれ。
1969年「ルルとミミ」でデビュー。『ポーの一族』『11人いる!』で第21回小学館漫画賞を受賞。『残酷な神が支配する』で第1回手塚治虫漫画賞を受賞。
際立ったアイデアと世界観、詩的なネーム、確かな画力に裏打ちされた美しい絵柄で、少女漫画の地平を広げてきた。また劇団夢の遊眠社のために『半神』を戯曲化するなど、さまざまなジャンルで活躍を続けている。


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