第1話 試し読み

 その料理教室は、大正時代に建てられた町屋長屋にある。
 京阪祇園四条駅から徒歩で十分ほど。
 阪急河原町駅で降りるなら、鴨川を渡って、大和大路通を南下していく。あたりには古い町並みが残っており、昔ながらのかんざし屋や老舗割烹があったり、舞妓らしき女性のすがたを見かけたりして、昼間でも祇園の雰囲気を感じることができる。
 だが、大和大路通をはずれ、細い道に入ると、途端に観光地のにぎわいはなくなり、住宅地が広がる。ひとびとの暮らす場所。生活のための空間。地元の人間しかおとずれないような道を進んでいくと、一本の煙突が空へと伸びている。昨今はめっきり少なくなった銭湯が、ここではまだ現役として活躍しているのだ。
 情緒を感じさせる銭湯のとなりには、木製の黒い門構えがある。
 そこが路地の入り口だ。
 知らなければ、気づかずに通り過ぎてしまいそうな狭い空間。
 私的な空間と、公的な空間との、境目ともいえる路地には、独特の雰囲気がある。
 路地の先は、行き止まりだ。京都では、通り抜けられる道のことを図子という。対して、通り抜けができないようになっているのが、路地である。
 長方形の青い空。薄暗くてひっそりとした路地。両脇に続く古びた長屋。
 南側の一番奥の玄関には、暖簾がかけられていた。軒先には緑が溢れ、すみれ色のちいさな花が咲いている。
 風がふわりと吹き抜け、格子戸の前で、暖簾が揺れる。
 淡い藍色で染められた暖簾には、白抜き文字で「小石原愛子の料理教室」とある。
 やがて、出汁のいい匂いが漂ってきて……。

 
   1

 「ほんなら、つぎはお大根を面取りして、隠し包丁を入れていきます」
 愛子先生の声に、四人の生徒たちは一斉に、大根へと手を伸ばす。
 しかし、まだ、包丁は動かさない。まずは、愛子先生のお手本を見てからである。
 愛子先生の手のなかで、包丁はすうっと流れるように動き、二センチほどの輪切りになった大根の角がくるりとむき取られていく。
「面取りは煮崩れをふせぐためにします。角がとがったままやと、火が通って、やらこうなったときに、そこから崩れやすいですから」
 つづいて、大根には十字の切れ目が入る。
「隠し包丁は、片面だけに十字に入れるやり方と、裏面に縦、表面に横と交互に入れていくやり方がありますが、見た目の美しさを考えると片面だけに入れて、切り込みの入ってないほうを見えるように盛りつけるんがええと思います。切り込みの深さは、お大根の厚みの半分から三分の二くらいまで。浅すぎると意味がないですし、深すぎても煮崩れて割れてしまうんで気ぃつけてくださいね」
 はんなりとした愛子先生の言葉に、四人の生徒たちはうなずいて、おのおの包丁と大根を手にさっき見た動きを真似ていく。
「隠し包丁をすることで、火の通りが早うなって、味の染みもぐんとようなりますから、ひと手間かける価値はありますよ」
 にっこり微笑んで、愛子先生は生徒たちの慣れない手つきを見守る。
 小石原愛子先生は御年六十はゆうに超えていると思われるが、小柄ながらも背筋はすっと伸びて、凛とした存在感があった。身に馴染んだ紬の着物に、白い割烹着がとてもよく似合っている。
「そうそう、真渕さん、お上手」
 愛子先生の言葉に、真渕智久は照れたような笑みを返した。
 先生にほめられる、という経験は久しぶりで、なんだか面映ゆい。
 まさか自分が料理教室に通うことになるなんて、思ってもみなかった。
 料理にはまったく興味がなかったのだ。学生時代は勉強ばかり、そして社会に出たいまは仕事に追われる日々。
 智久にとって、食事は「栄養補給」にしか過ぎなかった。空腹を満たすため、体調を維持するために、必要なものを摂取する。智久が住んでいる左京区には学生街もあり、安くておいしい店に困らない。食材や調理器具や調味料などをいちからそろえて自炊をするよりも、外食や弁当などを買うほうが経済的で合理的だと考えていた。
 しかし、いまは……。
「これで下ごしらえはできました。コンロに火をつけてください。お鍋に油を熱して、鶏の手羽元を焼いていきましょう」
 包丁とまな板は、生徒それぞれに用意されているが、コンロはふたりにひとつしかないので、ここからは分業となる。
 智久は、いっしょに作業をしている佐伯のほうをうかがった。
 佐伯は髪を短く刈り込んだ五十がらみの男性だ。
 料理教室で顔を合わせるのは、これで四回目である。
 初回に自己紹介をしたときには、佐伯は既婚者だと言っていたが、仕事については話さなかった。愛想がなく、眉間に刻まれた皺や頑固そうな目つきは、職人的な雰囲気というか、一般的なサラリーマンではないように智久には思えた。
 相手の職業、収入、ライフスタイルなどを、つい頭のなかで想像してしまうのは、智久の職業病のようなものだ。どんな暮らしをしているのか。家族構成はどうなっているのか。どんな家に住んでいるのか。
「真渕くんに火のほう、頼んでええかな。こっちは調味料をやるから」
「わかりました」
 智久が鍋の用意をするとなりで、佐伯は計量スプーンを手に取る。
「先生、油はどれぐらいでしたっけ?」
「小さじに半分くらいですね」
 実際に家で料理をする際には炒めるときの油など目分量で入れることになるだろうが、小さじ半分がどれくらいかという感覚をつかむためにも、教室ではきちんと量を計る。
「油、入れるで」
 横から佐伯に言われ、智久は鍋の上に手をかざして、温度を確かめた。
「あ、はい」
 熱した鍋の上で油がさらりと広がるのを見て、智久は鶏手羽元を入れる。
「最初はいじらず、旨味を閉じこめるよう、じっくり焼き目をつけてくださいね」
 愛子先生の言葉に、智久は菜箸を持つ手を止めた。しばらく待ち、鍋肌に接している面にこんがりとした焼き色がついたのを確認してから、転がすようにほかの部分も焼いていく。
「お鍋がない場合にはフライパンでも作れますよ。フッ素加工のフライパンなら、油を引かへんでもできますし」
 鶏の皮がはぜる小気味いい音が響いて、香ばしいにおいが漂ってくる。
「真渕くん、ちょっと火加減、強すぎへんか?」
 自分の作業が終わった佐伯が、気になる様子で、コンロをのぞきこんできた。
「そうですね、もう少し弱めたほうがいいかも……」
 智久はコンロのつまみをまわすと、強火と中火のあいだくらいに調節して、佐伯のほうをうかがう。
「これくらいでしょうか」
「ああ、そんなもんやろ」
 佐伯は納得したように、うなずいた。
 愛子先生から説明を受けたあと、実際に料理を作るときには、二人一組で調理台を使って、切ったり炒めたりという役割を分担することになっていた。前回は佐伯が炒める作業を担当したので、今回は智久に譲ってくれたのだろう。
 智久のイメージでは、料理教室というのは結婚をひかえた女性が通うようなところだった。いわゆる花嫁修業だ。もしくは、時間に余裕のある専業主婦が、家で作る料理のレパートリーを増やすために通う。どちらにしろ、独身男性である自分には縁のない場所だと思っていた。
 だが、意外にも、最近は男性が多いと、電話で問い合わせた際に愛子先生は言っていた。特に土曜日の夜に行われる初心者向けのクラスは、これまで台所仕事をしたことがないような男性を対象としているのだと説明され、智久も参加を決めたのだった。
 料理を覚えて、いつか……。
 夢みたいなことだと、自分でもわかっている。
 こんなことをしても、無駄かもしれない。
 それでも、智久は料理教室の扉を叩いた。
「そろそろ、お大根を入れてもよさそうですね。お大根を下茹でする場合には、米のとぎ汁を使うと、大根の甘みが増すので、覚えておくといいですよ。でも、今日はこってり味で仕上げますので、下茹なしで入れてしまいましょう」
 智久がさっき切った自分の分と、佐伯の分の大根を鍋に入れる。
「鶏をちょっと横によけて、開いたところに、お大根をならべるように……。そうそう、ええ感じ。できたら、お出汁を入れてください。ひたひたよりも、心持ち多めくらいで」
 教室には大きな容器に昆布を入れた水がたっぷり用意されていた。佐伯が計量カップで計って、鍋へと入れる。
「今日のお出汁は昆布にしましたが、ひたしておく時間がなければ、ふつうのお水でもかまへんです。骨付きのお肉からは、それだけで十分にうまみがでますから。あれば、干し椎茸の戻し汁を使うてもいいですよ。戻した椎茸をいっしょに炒めるとおいしいですし」
 こういうアドバイスが、あとあと、自分で作るときにも役に立つ。智久は忘れないよう、しっかり記憶する。
「沸騰したら、灰汁と余分な油を取ります。灰汁取り用のあみじゃくしがあればいいんやけど、今日はおたまを使ってください」
 煮汁が沸騰して、細かな白い泡がぶくぶくと浮いてきた。泡は膜のようになって、広がっていく。
 智久はおたまで煮汁の表面をそっとなでるようにして、灰汁をすくう。灰汁のついたおたまは、水を張ったボウルですすぐ。きれいになったおたまで、ふたたび、灰汁を取る。汚れが取り除かれ、煮汁が澄んでいくのを見るのは、気持ちがいい。薄茶色のべっとりとした灰汁が一度に大量に取れると、智久はささやかなよころびを感じた。
 においに刺激されて、智久の胃袋がぐうっと空腹を訴える。
 もうひとつのテーブルから、くすりと笑い声が響いた。
「おなか空きましたね、真渕さん」
 計量カップを手にしたミキが、こちらを見て、悪戯っぽく笑う。
「いま、聞こえちゃいましたよ。もう少し、我慢、我慢」
 ミキの格好は、作りモノめいている。
 フランス人形を思わせるふんわりとカールした栗色の髪、フリルのたくさんついたワンピースに、これまた装飾過剰なふりふりとしたエプロン、白いレース編みの長靴下。ミキが身につけているものは、白とピンクが基本で、過剰なまでに乙女チックである。羽ばたくような長いまつげ、ほんのり赤みをさしたほほ、濡れた桜色のくちびるは、どこからどう見ても女性なのだが、たしか、この初心者クラスは男性を対象にしているはずだが……。
 ミキのすがたを見れば見るほど、疑問がぐるぐると渦巻いて仕方ない。
 しかし、あなたは女性なのですか、それとも男性ですか、と訊ねることなどできるわけもなく、智久は深く考えることはやめて、こういうひとなのだと受け入れることにした。
「炒める係のおふたりは、火の番をしてくださいね。そのあいだに、佐伯さんとミキさんは、もう一品、準備しましょうか」
 佐伯とミキは、すり鉢でごりごりとごまをすりはじめる。
 今日のメインディッシュは「大根と鶏の炊いたん」である。
 京都では「煮る」ことを「炊く」と言う。大学進学で、京都で暮らすようになり、タイタンという響きをはじめて耳にしたとき、智久の脳裏にはギリシア神話に出てくる巨人族のすがたがよぎったものだった。いまではもう慣れて、おあげさんの炊いたん、といった言い方に違和感はない。
 つけあわせは「菜の花のごまマヨ白和え」だ。佐伯たちが作っているのは、その和え衣だろう。
「さて、味つけの順番は覚えていますか? ヴィンセントさん」
 愛子先生は、ミキのとなりに立っている人物に、声をかけた。
「サシスセソ、ですね。マダム」
 鼻から抜けるような発音でそう答えたのは、青い瞳をしたフランス人男性だ。金髪をひとつに束ねて、馬のしっぽのように垂らしている。その髪型はサムライを意識してのことらしい。忍者や妖怪に憧れて日本に来たらしく、エプロンの下には風神雷神が刺繍されたど派手なジーンズを着用していたり、たまに『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌を口ずさんでいる。
 職業はパティシエというだけあって、ナイフは使い慣れており包丁の扱いには迷いがないのだが、箸を持つ手はぎこちない。
「フランスでは、あまり肉や魚を甘辛く煮つけるということをしないので、料理に砂糖を使うのは未知の領域だ」
 その横で、マヨネーズをしぼる手を止めて、ミキがふと小首をかしげる。
「セって、なんでしたっけ?」
 すると、ヴィンセントは明瞭な口調で答えた。
「サトウ、シオ、ス、セウユ、ミソ。セウユとは、醤油のこと。どうです? 完璧でしょう」
「ええ、正解です」
 愛子先生がうなずくと、湯気を立てる鍋の前で、ヴィンセントは誇らしげにウィンクしてみせる。
「さすが、ヴィンセントさん」
 ミキが屈託のない笑みを浮かべ、ぱちぱちと手を叩く。それを受けて、ヴィンセントも満更でもなさそうである。
 智久と佐伯の地味な組みあわせに比べて、あちらのテーブルはずいぶんと華やかだ。
「お大根がほんのり透きとおってきたら、味をつけていきます」
 愛子先生の声に、智久のとなりで、佐伯が計量スプーンに手を伸ばす。
「今日は春大根を使っていますんで、冬大根より水分が多めなので、心持ち、味は濃いめにつけていきましょか。まず、お砂糖ですね。お砂糖には鶏肉をやらこうする作用もあるので、隠し味程度に入れておきましょう」
 教室ではひとつの容器に入った調味料を順番で使っている。
 ミキたちが先に砂糖の容器を取ったあと、智久のほうへまわしてくれた。
「うちでは、甜菜糖を使っています。ふつうのお砂糖はさとうきびを原料にしたものが多いですけれど、この甜菜糖は北海道産の砂糖大根を原料にしているんですよ。優しい甘さで、適度にコクもあって、煮物によう合うと思います」
 愛子先生がそう説明した砂糖は、粒子が大きめで、薄茶色をしていた。
「砂糖っていっても、いろいろあるんですね」
 言いながら、智久は砂糖の容器を佐伯に渡す。
「せいぜい、グラニュー糖と黒砂糖くらいしか知らなかったですが……」
「フランスでも、甜菜糖は使われる。田舎にバカンスに言ったときには、よく畑に植わっているのを見かけた。大根というより、むしろ、かぶに似ているな。聖護院大根みたいなものだ」
 パティシエだけあって、ヴィンセントは砂糖についてくわしそうだ。
「砂糖といえば、和三盆も素晴らしい。さらさらとして口溶けがよく、気品のある甘さで、サブレを作ってみると、感動的な仕上がりだった」
 そこに、ミキが片手を挙げて、質問する。
「愛子先生。料理によっては、砂糖じゃなくて、みりんを使うこともありますよね? 砂糖とみりんって、どう使い分けたらいいんですか?」
「本みりんはお酒の一種ですから、甘みをつけるだけじゃなく、生臭さを消すことができます。照り焼きなどつやを出したいときには、みりんを使いますね。あと、みりんには素材を締める効果があるんで、身のやわらかな魚などの煮崩れを防ぐときにも役立ちます」
「かれいの煮付けとか作るときには、やっぱり、みりんですよね」
「そうですね。あと、蕎麦つゆのかえしを作るときにも使えますよ。かえしがあれば、天つゆや親子丼なんかにも応用できますし。それから、にしんの甘露煮も、みりんを使うほうが甘さに切れが出ますね」
「なるほど、なるほど」
 ミキはうなずきながら、エプロンのポケットからメモ帳を取りだして、愛子先生の言葉を書きつけていく。
「そろそろ、お砂糖がしっかり染みたようですね。では、次に、お酒です。日本酒も煮つめることで、うまみのもとになるんですよ。それから、お醤油ですね。味つけができたら、落としぶたをして、中火で煮つめていきます」
 落としぶたをする前に、智久が菜箸を鍋に入れようとしたら、愛子先生から注意された。
「あ、もう混ぜなくてもいいですよ。お砂糖やお塩をくわえたとき、つい菜箸やら木べらやらで混ぜて、しっかり溶かしたくなりますけれど、ここはもう、お鍋に任せといたらええんです。大事なんは、ぐつぐつと煮汁を対流させること。この動きで、熱もまんべんなく通るし、調味料も自然に溶けますから」
 落としぶたとして、アルミホイルのはしを折ってまるくしたものをかぶせて、智久は時計を見た。煮込む時間は二十分だ。
「では、真渕さんとヴィンセントさんもいっしょに、菜の花を和えていきましょうか」
 菜の花をさっと茹でたあと、冷水にさらして、きつく絞り、しっかり水気を切る。
 そこで、愛子先生は「醤油洗い」という技を教えてくれた。菜の花の水気を切る際に、小さじ半分ほどの醤油で下味をつけてから絞ると、野菜の余分な水分がしっかりと出て、おいしく仕上がるらしい。
「ご飯も炊きあがりましたよ」
 奥にあるコンロでは、最初に仕込んだ竹の子ご飯が炊きあがっていた。教室では土鍋で炊いているが、智久が実際に家で作るときには、炊飯器に材料を入れて、スイッチを押すだけになるだろう。
「鶏の炊いたんも、ええ感じになってきました。最後に、生麩を入れたら、二~三分で、火を消します」
 落としぶたを取ると、大根はおいしそうに色づいていた。
 中央にスペースを作って、生麩をふたつ、煮汁にひたすように入れる。
 むにむにとした生麩は、智久にとって、未知の食べ物だ。
 生麩という食べ物の存在を、智久は学生になってから知った。実家では一度も食卓にのぼったことはなかった。乾燥した麩なら吸い物やすき焼きなどで食したことはあったが、京都では生のままで売られているのを見て、驚いたものだ。京都で暮らすようになったいまでも、実際に食べたことはなかったので、今日のメニューが生麩を使った料理だと知り、楽しみだった。
「生麩は長く火を通すと、ふくれすぎて、もっちりした食感がなくなってしまうので、気ぃつけてくださいね。ふわっとしたくらいで十分ですから」
 生麩がふっくらしたのを確認してから、もう一度、落としぶたをして、火をとめた。
「煮物は冷めていくときに味がしみていきますから、そのまま、しばらく置いておきましょう。そのあいだに、ほかのおかずを盛りつけましょうか」
 その声にうなずいて、智久は皿を取りに行く。
 愛子先生の料理教室は、古い町屋長屋の一階にある。
 採光と通風に優れた格子戸、梁は力強く組まれ、壁には落ちついた風合いがあり、黒光りする柱は天井からさげられた電球の淡いオレンジ色の灯りに照らされている。
 そして、箱階段。階段の下の空間を有効に使うためにひきだしや戸棚を取りつけた箪笥は、箱階段と呼ばれ、愛子先生はそこにたくさんの食器や調理器具を仕舞っていた。
 試食をするときには、まず、各自、漆塗りの平たいお膳を用意する。つづいて、たくさんある箸置きから、好きなものを選ぶ。季節に合わせて、智久はつくしを模した箸置きを使うことにした。
「あ、つくしの箸置き、いいですね。可愛い」
 ひきだしに手を伸ばすと、横からミキがのぞきこんできた。
「愛子先生の箸置きコレクション、ほんと、素敵ですよね。うーん、この桜の箸置きもキュートだし、迷っちゃうな」
 両手を胸の前で組み、うっとりと目を輝かせて、ミキは箸置きを見つめる。
 食器も、高価そうなものから素朴なものまで、多種多様とりそろえてある。
 料理のうちで、盛りつけが、もっとも智久の好きな作業だった。
 炊き込みご飯だから、茶碗はシンプルなものにしよう。そう考え、有田焼らしき白磁の茶碗に、桜海老と竹の子の炊き込みご飯をよそった。菜の花のごまマヨ白和えは、緑と白のコントラストが映えるように、マットな質感の黒い小鉢を使うことにした。円錐状にこんもりと盛り、黒ごまを数粒ぱらぱらとかける。
 メインディッシュは、鶏手羽元が二本と、まるい大根がふたつに、四角い生麩だ。深さのある楕円形の器に、それらをバランスよく、立体的に盛りつける。
 四角い膳のなかに、皿を配置していき、余白すらも完璧と思える空間を作りだす。隙のない構図だが、箸置きで遊ぶことによって、ユーモラスな感じも……。
「真渕さんって、センスいいですよね」
 ミキは人懐っこい笑みを浮かべて、智久を見つめた。
 つい、どぎまぎしてしまう。
「いや、そんなこと……」
 智久が盛りつけを楽しいと思うのは、仕事に通じるところがあるからだろう。大学で建築学を専攻したあと、縁あって著名な建築家の事務所で働くことになった。いまはまだ修業中の身だが、ゆくゆくは独立して、自分で事務所を構えたいと思っている。
 盛りつけを終えたヴィンセントが、カメラを取りだしてきた。
「うん、実に、素晴らしい。膳は、日本の庭園のようだ。ワビサビがある」
 ヴィンセントの器の選び方は斬新で、盛りつけも自由奔放だ。
 ミキの盛りつけは器と内容がちぐはぐしており、佐伯の盛りつけは無骨で実用的だ。
 おなじ料理だが、使う器や盛り方によって、受ける印象がまったくちがってくる。
 それはあたかも、おなじ家族が、どんな家に住まうかによって、変わるかのようで……。
「では、いただきましょうか」
 愛子先生の声に、それまでの作業テーブルではなく、となりの部屋の卓袱台に場所を移して、四人は試食をはじめる。
 手を合わせ、声をそろえて、いただきます、と言うことも、そういえば久しくなかったな……と智久は思う。
 炊き込みご飯は桜海老の風味も香ばしく、米は一粒一粒がぴんと立って、竹の子はしゃっきりと仕上がっていた。鶏肉はやわらかく、ほろりと身がほぐれて、口いっぱいに甘辛い味が広がる。生麩は、鶏肉のうまみと大根の甘みをふくみ、くにゅくにゅと歯に吸いつくような食感が楽しい。
「生麩って、こんな味なんですね。はじめて食べました」
 味自体は、淡泊で主張しないが、つきたての餅にも似た独特の弾力ある歯触りが、口のなかで際立つ。
「え、真渕さん、生麩を食べたことなかったんですか?」
 ミキが驚いたように目をまるくして、大げさな声を出した。
「それじゃ、真渕さん、麩まんじゅうも食べたことないとか?」
「ええ、ないです」
「なんてもったいない。せっかく錦に近いところにいるのに。もっと京都を楽しみましょうよ」
 錦小路通にある商店街には魚や野菜や乾物や漬物など食品を扱う店が軒を連ねているのだが、そんな錦市場の徒歩圏内に住んでいながら、智久はあまり利用したことはなかった。
 ミキは錦市場にある店の「麩まんじゅう」なる食べ物がいかに美味かということを蕩々と語る。
「この官能的な味わいを知らずにこれまで生きてきたなんて、人生かなり損してますね。佐伯さんも、そう思いません?」
 黙々と食事としていた佐伯は、ミキに話題を振られ、わずかにうなずいた。
「生麩いうたら、田楽やな。辛口の酒によう合う」
 すると、ヴィンセントも身を乗り出す。
「生麩はチーズとも相性がいい。はじめて食べたときには感動した。これほどまでにワインとマリアージュする食べ物があるとは、まったく京都は奥深い」
「ほんなら、今度は生麩のチーズはさみ揚げでも作りましょうか?」
 愛子先生の提案に、ヴィンセントもミキも目を輝かせた。
「素晴らしいですね、マダム」
「わあ、おいしそう。ぜひぜひ、教えてください」
 そんな話をしながらも、料理はどんどん口へと運ばれていく。どれもが自分の作ったものだとは思えないほどの出来栄えだ。きちんと教わったとおりに作れば、プロ顔負けの味を再現することができる。それはつまり、愛子先生の教え方が上手いということなのだろう。
「そういえば、トモ」
 大根を箸で突き刺したヴィンセントが、おもむろに口を開いた。
「その後、どうなっているんだい? 憧れの女性との関係は」
 危うく、智久は生麩を喉につまらせるところだった。盛大にむせて、げほげほと咳きこみ、顔を真っ赤にしていると、横から愛子先生がお茶の入った湯飲みを差しだしてくれた。
「おやおや、だいじょうぶですか」
「あ、すみません」
 お茶を一口飲んで、どうにか心を落ちつける。
「どうも、こうも、べつに話すことなんて……」
 耳まで赤くなりながら、智久は言葉を濁した。
「ああ、その話! うんうん、くわしく聞きたいです」
 ミキも身を乗りだすようにして、興味津々のまなざしをむけてくる。
「いや、だから、話すことは、なんにもないですって……」
 ごまかすように、智久は目をそらした。
 ヴィンセントが思い出したのは「あのこと」だろう。
 料理教室をはじめて訪れた日のこと。
 まずは自己紹介を、という流れになり、愛子先生が料理を習おうと思った理由など教えていただけるといいですねと言ったので、それを受けて、佐伯がこんなことを話した。
 なんや、急に、嫁はんから料理教室に通うよう言われまして。料理のほうはずっと任せきりやったんで、さっぱりなんですが、よろしゅう頼んます……。
 憮然としたその言い方は、どこか、子供がすねているようでもあった。頑なだった佐伯の印象が、ふと、やわらいで、その場の空気も和んだ。
 そして、次が、智久の番だった。
 佐伯につづいて、自分も動機のようなことを言わなければならない気がした。だから、つい、口を滑らせてしまったのだ。
 自分が料理教室に通うことにしたのは、気になる女性の一言がきっかけだ、と……。
 

  2

  はじめて会ったときには、特に美人だとか可愛いひとだと思ったわけではなかった。
 ただ、耳のかたちが印象的で、じっと見つめていたことを覚えている。黒い髪のすきまからのぞいた耳は、うつくしい曲線を描いていた。ピアスの穴などは開いていない、まっさらな耳。機能はデザインに一致する、という言葉が頭に浮かんだ。相手の言葉をきちんと訊く。耳をかたむける。そういう耳だという気がした。
「それでは、建築をテーマにした作品はいかがでしょう?」
 カウンターの向こう側で、彼女は言った。
 彼女の声と、耳のかたちは、しっかりと記憶に焼きついている。
 日曜日の図書館。
 よく晴れた日だった。春の陽気に誘われるようにして、ぶらぶらと散歩をしていたところ、図書館の前を通りがかり、ふらりと立ち寄ったのだった。
 智久が働いている建築設計事務所では、日曜日にも打ち合わせなどの仕事が入ることが多い。その日も朝から事務所に行き、現場の監理を行う所長のお供をして、めずらしく昼過ぎには解散となったので、どうせならと周囲を散策することにした。
 左京区では、明治から昭和初期にかけて建てられた洋館が、美術館や大学の施設などとして使われているのを目にすることができる。この図書館も明治時代に作られた煉瓦造りの名建築だったが、いまは外壁だけを保存するかたちでファサードとして残し、背後にはガラス張りの新館が増築されている。
 白い煉瓦に金色に塗られたテラコッタや装飾の細かな鉄扉など、旧館のデザインにはアール・ヌーヴォーの影響を受けた優美さがある。歴史様式のなかに新時代の息吹を感じさせるモダンさも兼ね備え、保存するだけの価値がある建築だ。
 平面的なファサードが特徴で、それによって、カジュアルな印象となり、重厚さが排されている。銀行建築ならば、堅牢さや風格など、もっと重みを意識したデザインが求められるところだ。しかし、ここは図書館である。
 親しみやすさ。図書館においては、それが旨とされると、設計者は考えたのではないだろうか。
 だれもが使いやすいように。だれもが学べるように。多くのひとに向けて、門戸を開く。
 だからこそ、智久も特に図書館に用事はなかったのだが、入ってみようという気持ちになった。それが建築の持つ力だ。
 高い天井に、窓からのやわらかな光。あたたかみのあるオレンジ色のライトも灯され、内部は明るく、心地いい空間が広がっている。吹き抜けの中央には、螺旋階段がある。立体を意識した大胆な構成だ。この巨大な螺旋階段をおりて、閲覧室のある地下へ向かう。
 本棚は天井に届くほどの大きさだが、絶妙な間隔で配置されており、木のぬくもりを感じさせることもあって、圧迫感はない。テーブル席やソファも多く、利用者はゆったりと寛いで、思い思いに読書を楽しんでいる。
 自分もいつか、こんな建築を手がけてみたいものだ。
 社会に出て、シビアな現状を知るようになったいまでは、規模の大きな公共施設の仕事を請け負い、意匠にこだわり、独自の世界観を表現できる建築家なんて、ほんの一握り、いや、ひとつまみほどしかないことは十分に理解している。それでも……。
 知の集積された場所にふさわしく、室内は静寂に包まれ、落ちついた雰囲気に満ちていた。
 あまり読書の習慣がない智久も、その空間にいると、なにか読みたくなった。建築の写真集でも眺めようか。いや、たまには活字を読むのもいいかもしれない。本を広げて、物語の世界に没頭したい。そんな気分になったのだが、自分ではこれといったものを思いつかなかった。そのとき、レファレンスカウンターにいる女性のすがたが、目に入った。引きよせられるようにして、その前に座った。本の専門家。彼女ならば、きっと、面白い本を知っているだろうと思った。
 智久は学生時代に、大学の図書館でレファレンスをよく利用した。論文を書くときなど、自分では見つけられなかったような文献でも、専門の資格を持つ司書がどこからか探してきてくれて、非常に助かったものだ。
 だから、その日も、図書館で「読みたい本」を探すため、レファレンスカウンターに向かった。
 そこにいたのが、彼女だったのだ。
 智久の「なにか面白い本を教えてください」という漠然としたリクエストに対して、彼女は少しだけ戸惑ったようだ。しかし、落ちついた物腰で、質問を返してきたのだった。
 智久が、なにを面白いと感じるのか、どんなことに興味があるのか、どんなジャンルが好きなのか、求めているものは一体なんなのか……。
 どのようなものが読みたいのか。
 それが、智久自身にもわかっていなかった。
「なんでもいいんです、あなたが最近読んで感動した本とか、おすすめの小説があれば、それを読みます」
 智久が言うと、彼女はわずかに困ったような表情を浮かべた。
「申し訳ありません。司書は、主観的な判断ではお答えできないのです」
 あくまで、司書は利用者の手助けをする役割なのだという。
 彼女は「あなたの知りたいことに、わたしも興味があるの。いっしょに探しましょう」という態度で、真剣に智久の話を聞いて、心をほぐしていった。
 ひとつ答えるごとに、自分の言葉が、彼女の耳に吸いこまれていく。
 それは心地いいカウンセリングを受けているかのようだった。
 そして、結局、建築をテーマにした小説をいくつか列挙してもらうことになった。
 好きなもの、興味があることは、なんといっても、建築だ。いつでも仕事から離れられない。
「建築といっても、ジャンルによって、いろいろありますね。現代物、時代物、恋愛物、ファンタジー、ミステリー、SFなど……。城造や宇宙ステーションの建造なども、建築をテーマとしているといえなくはないですし。作者は日本人のほうがいいですか? 外国の作品も候補に入れましょうか?」
 そんなやりとりをしながら、彼女はパソコンを使って、作品を次々とリストアップしていく。
 そうして、選ばれた本が、幸田露伴の『五重塔』と松家仁之の『火山のふもとで』という二冊だった。
 寺田露伴という名前には覚えがあったが、実際に作品を読んだことはなかった。もうひとりの作家にいたっては、これがデビュー作らしく、名前すら聞いたことがない。だれかにすすめてもらうことでもなければ、おそらく、手に取ることはなかっただろう。
 本をカウンター越しに手渡され、ゆっくりと椅子に腰かけて読書を楽しんでいたのだが、あいにく、すぐに閉館時間となってしまったので、続きは家に持ち帰って読むことにした。
 図書館の本には、ひとの気配が染みついている。
 仕事を終えて、だれもいない部屋に帰り、彼女が手渡してくれた本の続きを読む。それから一週間かけて、毎晩、少しずつ本を読んだ。
 幸田露伴の『五重塔』は文語体に最初は苦戦したが、慣れてくると独特のリズムを心地よく感じるようになった。大工が図面を引き、自分の手で建物を造っていた時代。建築家という職業がなかった時代の話だ。のっそりとあだ名される大工の十兵衛は、百年に一度の機会である五重塔を建てる仕事にすさまじいほどの情熱を注ぐ。十兵衛と、その親分でありながら仕事を奪われてしまう棟梁の源太。ふたりの大工の生き様、職人としてのぶつかり合いに、静かな感動をおぼえる。
 松家仁之の『火山のふもとで』は一九八二年の軽井沢が舞台で、文章もぐっと読みやすく、すらすらと頭に入ってきた。経済が右肩上がりに成長して、建築家の仕事も需要が多かった時代の話だ。自分が働いている事務所の所長くらいの世代のひとが若かったころの様子が描かれていて、興味深かった。少しでも建築をかじった人間なら、主人公が先生と呼んでいる老建築家のモデルが吉村順三で、コンペで競うことになるライバル役の建築家が丹下健三だということはぴんとくるだろう。主人公がひと夏を過ごす別荘も、吉村順三の「軽井沢の山荘」やアントニン・レーモンドの「夏の家」を想起させるのだが、それが実に的確な文章で表現されていることに驚いた。
 建築は「体感」するものである。しかし、一方で、思想であり、論理であり、言葉との親和性も高い。久しぶりにじっくり本を読む時間を持ったことで、言語野に刺激を受け、新たな発想も生まれてきそうだった。
 一週間後、本の返却に行ったときに、彼女のすがたを見つけ、智久は声をかけた。
「このあいだは、ありがとうございました。本、どちらも面白かったです」
 すると、彼女はとてもうれしそうに微笑んだのだ。
「よかった。気に入っていただけて」
 気持ちのいい笑顔だった。
 レファレンスで探した本に智久が満足したことを、自分のことのように喜んでいる。
 他人の役に立つ喜び。自分の仕事への誇り。
 智久がもっとも大切にしていること。おなじ気持ちを、彼女も持っているような気がした。
 その瞬間、彼女のことをもっと知りたい、と思った。
 彼女が身につけた紺色のエプロンには、名札がついていた。
 胸元の名札には「宮沢永遠子」とあった。
 永遠子さん、か。素敵な名前だな。
 このときになって、ようやく、智久は彼女の名前を知り、個人として認識したのだった。
 次の週も、智久は図書館を訪れた。しかし、そのときには永遠子のすがたを見つけることができなかった。今日は休みなのだろうか。がっかりしている自分に気づいて、智久は戸惑った。彼女に会えなかったことで、こんなにも気落ちするとは……。
 そのまた次の週も、智久は図書館を訪れた。カウンターの向こう側に、永遠子のすがたを見つけて、ほっとする。声をかけるわけでもなく、ただ、遠くから見守る。最初に会ったときにはなんのためらいもなく、レファレンスのコーナーに行くことができた。だが、彼女のことを意識するようになったいまでは、話しかけるのにも勇気がいって、意味もなく館内をぐるりと歩きまわってしまった。
 地下の閲覧室には特別設置コーナーがあり、関連資料が展示されている。そのときの展示は「近代美術と絵本の世界」だった。
 しばらくすると、どこからか子供が集まってきた。母親らしき女性に連れられた幼い子供、それに小学生同士のグループもいる。この図書館で子供を見かけるのはめずらしい。今日は特別な催しがあるようだ。
 やがて、永遠子ともうひとり年配の司書が、大きな絵本を手にして、子供たちの前にあらわれた。
 年配の司書が挨拶をした後、永遠子は絵本を広げ、読み聞かせをはじめる。
 智久は、本棚のかげに身をひそめるようにして、彼女の声に耳を澄ました。

 おじいさんが かぶを うえました。
「あまいあまい かぶになれ。
 おおきな おおきな かぶになれ」

 穏やかで、落ちついた声。決して大きいわけではないのだが、明瞭で、芯の強さのようなものがある。やわらかでありながら、ふわりと遠くまで運ばれていくような声だ。

 うんとこしょ どっこいしょ まだまだ かぶは ぬけません。

 繰り返しのリズムに乗って、彼女の声が響いてくる。
 永遠子はことさらに感情をこめるよりも、一言一言をきちんと、はっきりと発音することを心がけているようだった。あくまでも、彼女の声は媒介。主体は、絵本である。集まっている子たちの意識は、彼女の手にある絵本へと集中している。
 ただひとり、智久だけは、絵本の内容ではなく、彼女の声に夢中だった。
 こんなに気持ちのいい声の持ち主を、ほかに知らない。軽く目を閉じて、思う存分、彼女の声を堪能する。このまま、永遠子の声に身をゆだねて、まどろむことができたら、どれほど心地よいだろうか……。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、いつのまにか、読み聞かせは終わっていた。
 そして、目の前に、永遠子が立っていたのだ。
 目が合うと、永遠子は笑みを浮かべた。
「こんにちは。なにかお探しですか?」
 永遠子はまだ絵本を手に持っていた。通り過ぎようとして、智久の存在に気づいたのだろう。
 突然、声をかけられ、智久は動揺を隠せなかった。あわてて、目の前にあった本に手を伸ばす。
「あ、いえ、だいじょうぶです」
 闇雲につかんだその一冊は、節約レシピ満載の本であった。
 智久が立っていたのは、料理本のコーナーだったのだ。
 せめて、料理の専門書やプロのシェフの本であればまだしも、よりによって、節約レシピなんて……。
 気恥ずかしさを感じていると、永遠子は相手を安心させるような声で言った。
「料理ができる男性って、素敵ですよね」
 その一言で、智久は心に決めた。
 料理のできる男になろう。
 そして、料理教室に通うことにしたのであった。

   ***

 愛子先生の料理教室で、興味津々のまなざしを向けられ、智久は渋々ながらも、永遠子との出会いをかいつまんで説明することにした。
 図書館でのことを話そうという気持ちになったのは、まず、ヴィンセントの存在が大きい。フランス人といえば、恋愛上手というイメージがある。ヴィンセントは智久の目から見てもハンサムな男性であり、さぞかし恋愛経験も豊富であろう。そんなヴィンセントに話せば、有益なアドバイスがもらえそうだ。
 それに、ミキの意見も気になる。女性のような外見をしているミキならば、女心にもくわしいかもしれない。
 自分ひとりでは手詰まりだった。つきあってもいない相手のために料理教室に通うだなんて、迂遠なことをしているのはわかっている。しかし、ほかにどうすればいいのか……。
「ふうむ、図書館に勤める知的な女性か。いいな、会ってみたいものだ」
 ヴィンセントはそうつぶやいたあと、怪訝そうに眉をひそめた。
「しかし、理解できないのだが、なぜ、トモは、そのとき、きみがあまりにも魅力的な声をしているので思わず聞き惚れてしまった、と本人に言わなかったのだ?」
「ええっ、そんなこと、言えませんって」
「なぜだ?」
「いやいや、それが日本人男子の感覚というか……。ですよね? 佐伯さん」
 智久は茶を飲んでいた佐伯に同意を求める。
「ああ、そやな。言わんな、ふつう」
 面白くもなさそうな顔で、佐伯はうなずいた。眉間に皺の刻まれた佐伯は、いかにも昔気質で、亭主関白という感じがする。家に帰っても、妻に向かって「飯、風呂、寝る」だけしか言わないような前時代の遺物といった雰囲気があるのだ。愛の言葉をささやくところなど、想像もつかない。
「わからないな。なぜ、言わないのだ? その女性に好意を持っているのだろう? 親しくなりたいのだろう? ならば、まず、伝えなければ。うつくしいと思えば、そう伝える。それによって、女性というものは、もっともっと、うつくしくなっていくのだよ」
 自明の理というように語るヴィンセントに、智久は超えられない壁を感じる。ヴィンセントはまったく照れることなく、女性に「愛している」と告げることができるタイプの人間なのだろう。自分には無理だ。相手のことを意識すればするほど、緊張してしまって、なにも言えなくなる。
「思いを込めて、じっと見つめる。きみに惹かれている、と、目で、伝える。そして、向こうが気づいたら、にっこり微笑むんだ。やあ、こんにちは。今日も綺麗だね。相手の反応をたしかめて、食事に誘う。なにも難しいことはないだろう?」
「簡単に言うけれど、めちゃくちゃ難しいですって、それ」
 智久は即座に答えて、ミキのほうを見る。
 ミキは箸を置き、ハンカチでくちびるをおさえるようにして拭くと、口を開いた。
「まあ、ヴィンセントさんのようなレベルは無理でも、アプローチしないことには、先には進めないですよね」
 いたく真っ当なことを指摘され、智久もうなずく。
「そうなんですが、具体的にどうすればいいのか……。彼女は仕事をしているわけで、常務時間中に話しかけたら、迷惑になるかもしれないし」
「うーん、まあ、挨拶やちょっとした雑談くらいならいいんじゃないですか。それこそ、空気を読むというか、迷惑がられない範囲で。さりげなく、徐々に親密度をあげていくしかないでしょう」
「さりげなく、ですか……」
 どちらにしろ、難しいことには変わりない。
 菜の花のごまマヨ白和えを箸でつまみながら、智久は軽く嘆息する。菜の花は水っぽさもえぐみもなく、こっくりとした豆腐のクリームのような和え衣がからみつき、隠し味のマヨネーズが効いていて、ご飯が欲しくなる味だ。土鍋で炊いたご飯は少し冷めてもふっくらとして、ほんのり甘みすら感じる。おこげの風味も、また格別だ。
「もしかして、真渕さん、だれかとつきあった経験がない、とか?」
 ミキから容赦のない指摘が飛んできて、智久の胸にぐさりと突き刺さる。
「ええ、恥ずかしながら……」
 智久が通っていた中高一貫の男子校は、恋愛なんてものとは無縁の環境だった。大学に入ってからも課題をこなすのに精一杯で、学生の本分は尽くしたものの、ロマンチックな思い出はひとつもない。就職してからも仕事に専念してきた。
「わあ、それで、そんなに健気なんですね」
 感嘆した声で言うと、ミキは目をうるませて、智久を見つめる。
 健気? そんな言葉で形容されるとは、意外だった。
「男子校出身なんで、女性と接した機会すらほとんどなくて。だから、こういう場合に、どう行動すればいいか、自分のなかにデータがないというか」
「いいなあ、そういうピュアな片思い。遠くから見つめているだけで、胸がどきどきして、ときめきが止まらなくて……。そのひとのことを考えるだけで、幸せで、でも、切なくて、苦しいんですよね。ああ、甘酸っぱいなあ。なんだか、心が洗われるようです」
 胸元で両手を組むと、うっとりとした口調で、ミキは言う。
「真渕さんの恋、応援しますよ! うん、だいじょうぶ。真渕さんって、見た目で絶対NGってことはないですから、自信を持っていいと思います。笑顔で挨拶。それで、一歩前進。こつこつと積み重ねていけば、いつか、チャンスが来ますって。恋愛って、結局は、巡り合わせっていうか、運次第のところもあるし。もし、振られても、それは自分にどこか欠点があったわけじゃなく、相性が悪かっただけ、と思うことですね」
「って、振られること前提ですか!」
 思わず口を挟んだ智久に、ミキは悪びれず、にっこりと微笑んだ。
「いえ、そういうわけじゃないですけど、初恋は実らないっていうし。話を聞いた限りでは、かなり成功率は低そうかと」
 可愛い顔をして、ずばずばと言いたい放題である。
 ミキの言葉に、ヴィンセントもうんうんと何度もうなずく。
「出会いなんてものはどこにでも転がっている。魅力的な女性は星の数ほどいるのだ」
 まだ失恋したわけではないのに、なぐさめるような言葉をかけられ、智久は複雑な心境になる。
「とりあえず、ミキさんの言うように、笑顔で挨拶、をやってみます。たまに図書館に行って、挨拶するくらいなら、迷惑じゃないですよね?」
「それくらいならストーカー扱いされることはないと思いますよ。まずは図書館の常連さんになって、彼女に顔を覚えてもらうことですよね。図書館ならキャバクラなんかとちがって、お金もかからないし、通いやすいからいいですよね。また進展があったら、ぜひ、教えてください」
 あきらかに他人事を楽しんでいるという様子で、ミキが言う。
 進展のしようがあるのだろうか……。智久にとってはまったく未知の領域で、手探り状態なので、次への一歩をどこへ踏み出せばいいのかすら、わからない。
 愛子先生は穏やかな微笑みを浮かべて、そんなやりとりを聞いていた。
 料理を教えているとき、火加減に水加減、味つけなど、愛子先生はいつも絶妙のタイミングで、勘所を押さえた言葉をかけてくれる。お手本があり、目指すべきものがはっきりとしていれば、そこに至るまでの道筋がわかりやすい。料理中に行うことは、すべて、最終的に「おいしいものを作るため」である。
 料理の知識も経験もほとんどなかった智久だが、教室で料理を作るときには、愛子先生の一言によって、どうすればいいのか、どこに向かっているのか、手順を理解して、コツのようなものをつかむことができた。
 そして、いまも。
 なにげない口調でありながら、愛子先生は示唆に富む言葉を口にしたのだった。
「いつか、その方にも、真渕さんの作ったお料理を食べてもらえるといいですね」
 その一言で、智久の脳裏に明確なイメージが広がる。
 彼女に好意を持っている。それは自覚していた。だが、だからといって、どうしたいのか、自分でも曖昧なままだった。それがいま、くっきりと浮かんだのだ。
 智久はキッチンに立ち、フライパンでなにかを炒めている。あたりには、おいしそうな匂いが広がる。部屋のソファーには永遠子が座っている。智久はフライパンをかたむけて、皿に料理を盛りつけると、振り返って、永遠子に差し出す。さあ、めしあがれ。
 自分が大切に思うひとのために、料理を作る。そして、おいしい、と言ってもらうことができれば、どんなに幸せだろうか。そう、自分が望んでいるのは、そんな関係……。
「おいしいものには、ひとを引き寄せる力があるんですよ」
 にっこりと微笑むと、愛子先生は言った。
 おいしいものには、ひとを引き寄せる力がある……。
 愛子先生の言葉を心のなかで繰り返すと、本当にそんな気がした。
「ご縁がつながるといいですね」
 それから、愛子先生はヴィンセントのほうに顔を向ける。
「そうそう、ご縁といえば、たしか真渕さんのお仕事は建築家だったはずですよ」
 すると、ヴィンセントがぱちんと指を鳴らした。
「ああ、そうか、それはちょうどいい」
「どういうことですか?」
 話が見えず、智久は首を傾げて、ヴィンセントの言葉を待つ。
「実は、カフェを開きたいと思っているんだ」
「カフェ、ですか」
 ヴィンセントは中京区にある有名パティスリーで、チーフパティシエを務めていると聞いていた。
「ああ、愛子先生には話したのだが、実は、自分の店を持ちたいを考えていてね。独立の準備を進めているところなんだ。お菓子を買って帰るだけではなく、その場で楽しめるような店をやりたいのだよ」
「なるほど。だから、カフェなんですね」
「これもまさに、縁というやつだな。その店の設計を頼めるひとを探していたんだが、トモ、やってみないか」
 設計を頼みたい?
 思いがけない話に、智久の胸は高鳴ったが、すぐに返事をすることはできなかった。
 建築の世界では、三十代で駆け出し、四十代で若手とされることも珍しくない。事務所の規模や所長の方針によっては新人のうちから企画から監理まで任されることもあるらしいが、智久が働いている大沢事務所は年功序列が厳しく、いまだに半人前扱いされている。
「でも、建築事務所に勤めていると言っても、僕はまだ見習いのようなものですし……」
 いきなりの依頼に智久は戸惑うが、ヴィンセントはお構いなしだ。
「それがなんだというのだ。だれにでも、はじめての仕事というものはある」
 ヴィンセントの自信たっぷりな口調に、智久の心も前向きになってきた。
 言われてみれば、そのとおりだ。
 十分に経験を積み、失敗しないようになってから……などと考えて、挑戦しないままでいたら、いつまでたっても一人前になれないだろう。
 これは、ちょうどいいチャンスかもしれない。
 ほかの所員たちは親戚や知人から住宅の設計などを頼まれ、大沢に許可を取り、その案件を担当するということを行っていた。自分で受注してきた仕事なら、一切を任せてもらえる可能性も高い。
「わかりました。カフェの設計ですね? 販売だけではなく、飲食も可能な店舗ということですよね?」
「ああ、そうだ。理想とするカフェの条件は、まず、京都らしいこと。この料理教室の建物は、素晴らしいだろう? ひと目で運命を感じた。歴史の積み重なった建物で、とても落ちつく。まさに、私がやりたい店も、こんな感じだ」
 室内を見まわして、ヴィンセントは目を輝かせる。
「伝統のある建物を使いたい。女性が年月を重ねることで、より一層、魅力的になるように、古い建物は素晴らしい空気を持っている」
 ヴィンセントの言わんとしていることは、智久にも共感できた。
 料理を習いに行こうと思って、近くにある教室を調べていたとき、智久は雑誌に載っていた一枚の写真に目を留めた。京都の特集。古い町屋の一室にある料理教室を紹介する写真だった。その写真で、愛子先生のことを知ったのだ。
 柱、梁、建具などに使われている木材すべてに風情があり、色褪せた畳も懐かしい安心感に満ちていて、遠い記憶が呼び覚まされるような気持ちになった。割烹着を身につけた愛子先生のすがたも相俟って、本物の情緒のある空間が、そこには存在していた。
 この場所にぜひ通いたい。そう思って、智久はすぐに申し込んだ。
 愛子先生の教室がほっと心が和むような雰囲気に満ちているのは、その人柄や料理自体はもちろんのこと、この町屋長屋という空間も大きいだろう。
「たしかに、この空間は素晴らしいです」
「でも、ここ、もう少しで取り壊されるところやったんですよ」
 さらりと言った愛子先生に、智久は目を見開く。
「ええっ、どうしてですか?」
「もう古い建物ですから。もといた住人の多くは、もっと暮らしやすいところに越していきはりました。それが、ほら、おとなりの三味線屋さんとか、鞄屋さんとか、若い職人さんが集まって、自分たちで手直しして住んでいくということになって、なんとか保ってるんですよ」
「そうだったんですか。すごいですね」
 愛子先生が一階で教室を開いて二階を生活空間としているように、この長屋のほかの住人たちも一階で仕事をしているひとが多いらしく、看板や表札が出ているところが多かったが、そんな理由があったとは知らなかった。
 人間観察が職業病のような智久だが、愛子先生の家族構成については、いまいち、つかめないでいた。
 家族で暮らすには手狭な空間に思われるが、ひとりで住んでいるのだろうか。
 愛子先生の佇まいには家族を見守って陰ながら支える存在という感じがあり、良妻賢母や内助の功といった最近ではあまり聞かない言葉を思い浮かべるのだが、それにしては所帯じみた印象を受けず、孫の話題なども出たことがなかった。
「こんな素晴らしいものを取り壊すなんて、もったいない話だ」
 ヴィンセントが憮然とした様子で、鼻を鳴らす。
「パリでは古いアパルトマンをいかに長持ちをさせるかということを考える。手を入れることで、愛着も深まるというものだ。私のカフェも、そういうものがやりたい」
 ヴィンセントの意見を聞いて、智久の頭はすっかり仕事モードになる。
「それなら、新築というよりも、町屋をリフォームというか、リノベーションするようなプランがよさそうですね」
 考えるほどに心が躍り、意欲が湧きあがってきた。
「古い建物のリノベーションには、僕も興味があって、やってみたいと思っていたんです」
 大学時代の課題でも、都市再生や有形文化財の保存と活用などは、特に熱を入れたテーマだった。
 京都には、維持管理が負担になり、解体されてしまう古い建物も多い。そのうちのひとつでも、自分の手によって、ひとびとが集うカフェによみがえらせることができれば、どれほど素晴らしいだろうか。
「艶めく古い柱、ワビサビを感じる畳。あと、必要なものは、窓から見える緑だ。テラス席も欲しい。太陽の光を浴びることができるテラス席は、カフェでも特別な場所だ」
 ヴィンセントは目を閉じて、両手を広げながら、熱っぽい口調で語る。
「上質のコーヒーや紅茶といっしょに、私の作るとびきりのケーキを提供する。そして、恋人たちや友人たちが語り合う。もしくは、ひとりでゆったりと瞑想的な時間を過ごす。そんな店を作りたいのだ」
 テラス席ということになれば、広い庭も必要だろう。うなぎの寝床と言われる造り長屋では、難しいかもしれない。だが、坪庭を活かして、どうにか工夫をすれば……。智久の頭には次々にアイディアが浮かんでくる。
 だが、わくわくする一方で、不安もあった。建築についての知識はそれなりにあるつもりだが、実際に自分ひとりで手がけた仕事はないのだ。
「本当に、僕でいいんですか?」
 念のため、もう一度、確認すると、ヴィンセントはこともなげに言った。
「ああ、もちろんだ。トモの仕事は、ていねいだ。決して、手を抜かないだろう。ここで作った料理を見て、トモのことはわかっている。だから、頼みたい」
 ヴィンセントの言葉を受けて、愛子先生もにっこりと笑顔を浮かべ、うなずく。
「そうですね。真渕さんなら、できますよ」
 これまで興味のなかった料理というものを身につけたいと思って、教室に通うようになった。それが仕事につながるなんて思いもしなかった。これも縁というものなのだろう。
 愛子先生がうなずくのを見て、智久は決意した。
 信頼に応えたい。これは自分がやる仕事だ。ヴィンセントが想像している以上に、素晴らしいカフェを作りあげよう。俄然、燃えてきた。
「希望のエリアやお目当ての物件はあったりしますか?」
「市内で探しているのだが、いくつか気になるところはある。できれば、物件を選ぶところから手伝ってもらいたい」
「わかりました。事務所の所長に相談してみます」
「ああ、よろしく頼む」
 ヴィンセントが右手を差し出してきたので、智久はしっかりと握り返した。
「素敵ですね。カフェができたら、絶対に行きますよ」
 ミキは両手を組みあわせ、期待に満ちた表情で、ヴィンセントを見あげる。
「もちろん、オープニングレセプションにはここにいるみんなを招待するつもりだ」
「やったあ。ね、佐伯さん。もちろん、佐伯さんも行きますよね?」
 ミキにうながされ、佐伯も軽くうなずく。
「そやな。甘い物はいらんが、まあ、コーヒーくらいなら……」
「そんなこと言わずに、ぜひとも、私の作るケーキを食べてもらいたい。甘い物が苦手だったが、うちのケーキならば食べることができる、とお客さんに言われたこともあるのだ。ようし、燃えてきたぞ。トモ、絶対に、いい店を作ろう」
「はい、頑張ります」
 力強く答えた智久を見て、愛子先生は力づけるような笑顔でうなずいた。

 

   3

  翌日、智久はカフェの資料を調べるため、さっそく図書館に向かった。
 図書館に入ると、展示コーナーのまえに永遠子のすがたがあった。
 ミキのアドバイスを思い出して、智久はぎこちないながらも笑顔を作り、挨拶をする。
「こんにちは」
 永遠子も顔をあげて、微笑みを返した。
「こんにちは」
 一歩前進、なのだろうか。永遠子の笑顔は親しげで、自分のことを覚えてくれているように智久には思えた。少なくとも、顔見知りにはなれたのかもしれない。
 永遠子は展示コーナーの絵本を整理していたようだ。展示の内容があたらしくなり、並べられている絵本はこのあいだとはちがっていた。
 絵本の表紙に描かれているのが「家」だったので、智久は興味を惹かれた。
 豚のキャラクターが、レンガで家を建てている。ほかにも、わらの家や木の家などの挿絵がある。
「『三びきのこぶた』ですか。懐かしいな。ある意味、これも建築の話ですよね」
 智久が言うと、永遠子は笑顔のままで答えた。
「ええ、興味を持っていただけてよかったです」
 そして、はにかむような表情になる。気のせいかもしれないが、智久には、永遠子の言葉が、特別な意味を持っているように感じられた。
 もしかしたら、彼女がさまざまな家の出てくる『三びきのこぶた』を展示のテーマにしようと思いついたのは、先日のレファレンスがきっかけになっていたりするのではないだろうか。智久が興味を持つだろうと思って、この展示を……?
 いやいや、考えすぎだ。自意識過剰だ。
 自分がまた図書館に来ることを、彼女は待っていた……なんて、そんな都合のいい話があるわけない。でも、ひょっとしたら、ひょっとするということも……。智久は甘い期待が広がるのを止められない。
 意識してしまうと、平静ではいられなくなった。
 まぶしくて、まともに彼女の顔を見ることができない。
「いろんな絵本があるんですね」
 とっさに永遠子から目をそらして、智久は展示されている絵本をながめていく。
 幼いころに読んでもらったと思うのだが、たくさんの絵本が並んでいると圧巻だ。おなじタイトルでも、絵によって、ずいぶんと印象がちがう。豚や狼がリアルな動物のすがたとして描かれているものもあれば、擬人化されて服を着ているユーモラスなものもある。
 丸々とした写実的な豚が三匹並んでいる絵本を手にとって、ぱらぱらとめくった。
 智久の記憶では、最初にわらの家を作った子豚も、次に木の家を作った子豚も、狼に家を吹き飛ばされてしまうものの、レンガの家に逃げてきて助かっていたはずだ。だが、この絵本では、二匹の子豚が食べられてしまう展開になっていた。
 しかも、レンガの家を吹き飛ばすことができなかった狼が煙突から家のなかへと侵入しようとすると、豚は煮えたぎった鍋を用意する。そして、煙突から鍋に落ちた狼を、豚はぐつぐつ煮込んで晩ご飯にして食べてしまうのだ。
「こういうシビアなラストもあるんですか」
 智久が言うと、永遠子はうなずいて、いくつかの資料を広げた。
「これはジョセフ・ジェイコブズの『English Fairy Tales』に収録されている話を翻訳したものですが、ウォルト・ディズニーの製作したアニメーションだと、二匹の子豚も助かるのでそちらで内容を記憶しているひとも多いですね」
「ああ、そういえば、観たことがある気がします」
 ぷっくりした子豚たちが楽しげに「狼なんてこわくない」と歌っているアニメーションを智久は思い出す。あの映画では、二匹の子豚がわらや木でさっさとお手軽に家を建てて遊んでいる横で、末っ子の子豚はこつこつ真面目にレンガを積みあげていた。
 この『三びきのこぶた』という物語は、いかにも西洋の話だという気がした。レンガが最強。レンガ造りの家ならば吹き飛ばされることはないというのは、建築において「壁」を重視する西洋の考え方だ。このあいだ読んだ『五重塔』でも描かれていたように、日本で古くから受け継がれてきた木組みの建物ならば、台風ですら持ちこたえることができる。木の家が、狼によって簡単に吹き飛ばされてしまうさまは、木造伝統工法の素晴らしさを知っている智久には不満だった。
「こうして並んでいると、ちがいを見比べることができて、面白いですね」
 そんなことを言いながら、英語版の文章に目を通していたところ、あることに気づいた。
「木の家は、原文ではwoodではないんですか?」
 英語版の文章では、二匹目の子豚が家の材料を手に入れる場面に「give me that furze to build a house」と書かれていた。
 一匹目の子豚は「straw」で、三匹目の子豚は「bricks」で家を建てる。二匹目の子豚が「木の家」を建てるのなら、ここは「wood」ではないだろうか。この「furze」という英単語がどんな意味なのか、智久には知識がなかった。
「本当ですね。私もいま、気づきました」
 智久の持っていた本をのぞきこんで、永遠子は言う。
「ちょっと待ってください。辞書を持ってきます」
 やがて、本棚から辞書と図鑑を取ると、永遠子は戻ってきた。
「これですね。ハリエニシダ。マメ科の植物とありますね」
 永遠子は辞書を開いて、「furze」の項目を見せる。漢字では「針金雀児」と書くようだ。
 続いて、永遠子は図鑑を開いてみせた。
 ハリエニシダの写真が載っている。花は黄色くて、名前に針という字がつくだけあって、ハリエニシダの葉は針状に尖っており、枝にも棘がある。草丈は二メートルに満たないほどで、枝も細い。
「なるほど。この植物で作った家なら、狼に吹き飛ばされても納得ですね。日本の木造建築をイメージすると、どうも腑に落ちなかったのですが」
 智久がそう言って笑うと、永遠子も笑みを浮かべた。
「そうですね。このジェイコブズ版をもとにしたものは、木ではなく、木の枝や小枝と訳されているものもあった気がします。この本でも、木の枝になっていたはずです」
 永遠子は展示されていたべつの本を手に取り、確認する。たしかに、そこには木の枝と書かれていた。
 絵本によっては、ベニヤ板のような建材を使っていたり、丸太小屋のような挿絵もあるのだが、棒切れや小枝を寄せ集めたような家が、このハリエニシダという植物で作った家のイメージに近いのではないだろうか。
「日本では馴染みのない植物だから、子供にもわかりやすいように、木と訳すことが多いのでしょうね」
 永遠子の言葉に、智久もうなずいた。
「ハリエニシダの家と言われても、ぴんとこないですもんね」
「児童向けの作品では、そういうことって結構あるんです。ベーグルという食べ物がまだ一般的ではなかった時代には、ロールパンと訳されていたり……」
「へえ、そうなんですか。大人になってからこうやって絵本を見ると、またあたらしい発見があって面白いな」
 いつか本物のハリエニシダを見てみたいものだ、と智久は思う。実際に、わらやハリエニシダを材料にして、家を建てるのも面白そうだ。その場合、どんなプランが考えられるだろうか。もちろん、ひとが住む家には適さないだろう。だが、実現を伴わないような案であっても、構想することで建築のヴィジョンが広がったりする。
 そのとき、智久の脳裏にひらめくものがあった。
 そうだ、ヴィンセントのカフェには、フランスの植物を使おう。
 店舗においては、内装はもちろんのこと、外溝の印象が重要だ。インテリアは居心地につながり、エクステリアは集客を左右する。
 京都の町屋と、フランス菓子の融合。その媒介になるのが、エクステリア空間における植物たちで、日本庭園にフランスの花が咲いていることで、一体感を演出できるはずだ。
「ありがとうございます。この展示のおかげで、仕事のアイディアが浮かびました」
 図書館の静寂を壊さぬよう声をひそめながらではあるが、智久は興奮気味に言う。
「お役に立ててよかったです」
 永遠子もうれしそうに言って、智久を見あげる。
 視線がぶつかり、見つめあうようなかたちになり、智久はどぎまぎしながら、あわてて目をそらした。
「すみません。お仕事中に邪魔して」
 思いがけず立ち話が長引いた。これも会話が盛りあがっているというのだろうか。智久はとても楽しかったのだが、永遠子がどう思っているのかはわからない。
「あ、そうだ。今日はカフェに関する資料を探しに来たんです」
「カフェですか?」
「ええ、実は、仕事で町屋をリノベーションしたカフェを手がけることになって、そのイメージ作りというか、参考になりそうな資料を探そうと思って」
「お手伝いしましょうか?」
「できれば、お願いします」
「わかりました。では……」
 展示コーナーの絵本を手早く整えると、永遠子は書架に向かう。
「インテリア関係でしたらこちらですね。京都にあるカフェの案内書などはあちらに……」
 カフェの資料といっても、開業のためのハウツー本もあれば、カフェのレシピ、おしゃれな飲食店の写真集、実際のカフェを紹介している観光ガイドブックなど多岐にわたる。それから、町屋のリノベーションが載っている資料も見ておいたほうがいいだろう。大沢事務所で請け負う仕事は新築の設計ばかりで、リノベーションに関してはほとんど資料がなかったはずだ。調べなければならないことは山積みだが、永遠子のアドバイスのおかげで、智久は求めていたものを見つけることができた。
「ありがとうございます。助かりました」
 数冊の資料を抱えて、智久は礼を述べる。
 自分だけなら建築学の本棚にあるものくらいしか探せず見落としがあっただろうが、永遠子はさまさまな観点から資料を集めてくれた。
「さっそく、ここに載っているカフェをめぐってみたいと思います。あ、そうだ。司書さんはどこか、お気に入りのカフェとかあったりしますか?」
 貸し出しを終えたところで、そんな質問をすると、永遠子は少し困ったような表情を浮かべた。
「申し訳ありません。司書という立場では、主観だけの回答はできないのです。カフェに関する資料などをお渡しすることはできますが、個人的な意見は……」
 そうだった。あくまでも、彼女は司書であり、自分は図書館の利用者だ。
 はじめて本を借りたときに比べて、彼女と自分との距離が近くなっているような気がした。だが、智久が利用者という立場だから、彼女は感じ良く接してくれているだけなのだ。個人的な親しさと勘違いしてはいけない。
 舞いあがりそうになっていた自分に、智久は心のなかでそう言いきかせる。
「すみません。変なことを訊いて」
「いえ、こちらこそ。あの……」
 一瞬、ためらったように言葉を切ったあと、永遠子はつづけた。
「素敵なカフェになるといいですね」
 永遠子の顔に、ふたたび、笑みが戻る。
 この笑顔だって、職務上のもの。
 そう思って予防線を張りつつも、もはや、彼女への思いは止められそうになかった。


 ※続きは、6月5日発売の単行本『初恋料理教室』でお楽しみください!

プロフィール

藤野 恵美 (ふじの・めぐみ)
1978年大阪府生まれ。2004年に『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞を受賞し、デビュー。著書に、『ハルさん』『ぼくの嘘』『わたしの恋人』『世界で一番のねこ』『七時間目のUFO研究』『お嬢様探偵ありすと少年執事ゆきとの事件簿』シリーズ、『怪盗ファントム&ダークネス』シリーズなど多数。児童文学からミステリ、恋愛小説まで幅広く活躍している。

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