遊星ハグルマ装置

傷だらけのジン  朱川湊人

   あの街を思い出すと、必ず一緒に、ジンの可愛くないツラを思い出すぜ。
 もう三十年くらい前になるか……その頃、俺は東京の下町にある、おんぼろアパートに住んでた。ちょっと大きな地震が来たら潰れちまいそうな、古い木造アパートだよ。俺が入った時でも、もう築二十五年くらいは経ってたんじゃねぇかな。外壁なんかヒビだらけだったし、鉄製の階段は、あちこち錆びて穴が開いてた。窓枠も木でできてて、強い雨が降ると部屋に水が染み込んでくるような建物だよ。
 そのアパートに入ったのは、二十二歳の秋頃だったかな。
 勤めていた金型工場で同僚とケンカしたんだけど、なぜか一方的に俺が悪いってことになってな。そのままクビを切られて寮にもいられなくなって、慌てて探したんだよ。その頃の俺は本当に金がなかったから、そのアパートに入るのもギリギリだったんだけどな。
 あの街には、本当にたくさん猫がいたなぁ。
 昼間に歩いたりしてると、人間より猫にたくさん会うぐらいでさ。細い路地の真ん中を悠々と歩いていたり、ブロック塀の上に丸くなって居眠りしていたり――今はいろいろうるさくなって野良猫が減ってるみたいだけど、あの街は野良猫の天国みたいだった。夜なんか空き地に何十匹も集まってるのを、よく風呂の帰りに見かけたもんだよ。
 ジンは、その野良猫の中の一匹だ。
 元は白いのかもしれないけど、何せ野良猫だから、いつも薄汚れててなぁ。ぼんやりとした灰色にしか見えねぇんだ。あの街はどこも埃っぽかったから、そこを走り回ってる猫どもが薄汚くなるのも仕方ねぇ話だな。ヤツらは自分のふわふわした毛で、あちこち拭き掃除して回ってんだから。
 ジンは……可愛くねぇ猫だったよ。
 卑しい顔つきって言うのかね、猫のくせに目が小さくて、眦が下がってるんだ。おまけにいつも上目遣いの三白眼なものだから、いかにも他人の隙を伺ってるみたいな感じで――気安く頭だの喉元だのを撫でてやろうって気にならないツラをしてたな。
 実際あいつは、これっぽっちも人間を信じてないみたいだった。いくら舌を鳴らして呼んでみても、「その手に乗るかよ」って顔して、遠くからこっちを睨んでるばっかりなんだ。それまで、よっぽどひどい目にあったのかもしれねぇけど、本当に可愛くねぇったら、ありゃしねぇ。
 おまけにあいつは、仲間の猫たちからも嫌われてるみたいでな。どういうわけか、ケンカしてるところをよく見かけたよ。しょっちゅう神社の境内だの町工場の裏だので、まるで悪魔みたいな声を張り上げて、別の猫とぶつかり合ってるんだ。正真正銘のガチファイトで、ああいうところを見ると、やっぱり猫も野獣の仲間だなって思えたよ。
 でも、あいつは体が小さいから、あまり強くなかったみてぇだな。
 その証拠に見るたびに、たいていどっかしらケガしてやがるんだ。耳の裏だの目の上だの――ひどい時は、左の腿がザックリ抉れてたこともあったな。血をダラダラ流してるもんだから、その時はさすがにやばいかもな……って思ったけど、何週間か後にケロリとした顔で歩いてやがった。まぁ、弱いくせに、根性だけはあるんじゃねぇの。
 ジンって名前は、そこからつけたんだ。早い話、『傷だらけの人生』の“ジン”だよ。安直なのは認めるけど、なかなかカッコいいだろうが。もっとも、あいつはそんなこと、知ったこっちゃなかったろうけどね。
 それにしても、あいつはまったく、どうしようもねぇヤツだよ。
 ケンカが弱いなら、それなりに上手に生きてく方法を覚えりゃいいのに……やっぱり猫は脳ミソが小せぇから、ダメなんだろうな。性懲りもなくケンカして、体に傷ばっかり増やしてやがる。ちょっとばかり人間や強い仲間に媚びれば、もっと楽に生きられるだろうによ。まぁ、さっきも言ったみたいに、あいつは可愛い顔じゃなかったからな。そんな風にしか、生きられなかったのかも知れねぇな。
 うん? 俺に似てるってか?
 確かにな――自分でも、そういう風に感じてたところもあるよ。だから名前をつけたりもしたんだろう。もっとも呼んだところで、ヤツは絶対に返事なんかしなかったけどな。
 
 実は、そのジンが一度だけ、俺の部屋に来たことがあるんだよ。
 あれは八月のクソ暑い日だったなぁ……昼間っから家にいたぐらいだから、日曜日だったんじゃねぇかな。
 まぁ、古い話だから、前後のことは細かく覚えてねぇ。とにかく俺はパンツ一丁で、自分の部屋の真ん中に転がってグッタリしてたんだ。もちろん貧乏アパートにクーラーなんかねぇから、扇風機一台だけが頼りでよ。窓も玄関も開け放してたけど、風なんか少しも入ってこねぇ、地獄のような日だったよ。
 あんまり暑いんで、こうなったら寝ちまうに限る……と思って、俺は何本か缶ビールをかっくらって、うつらうつらしていたんだ。なかなか寝つけなかったんだけど、どうやら瞼が重くなってきた頃――いきなり開けっ放しにしていた玄関から、何かがすごい勢いで飛び込んで来たんだ。
 いや、驚いたってもんじゃねぇ……何せ仰向けになってる俺の腹の上を、そいつは駆け上って行ったんだからよ。たぶんみっともねぇ声の一つもあげたと思うけど、俺は慌てて飛び起きたんだ。
 飛び込んできたそいつは、でっかいネズミ花火みたいに部屋中を走り回って、カラーボックスの上の目覚まし時計を弾き飛ばしたり、壁にかけたカレンダーを落っことしたりしやがった。いったい何なんだと見たら、どうやら白い――いや、薄汚れた灰色の猫だ。俺には、すぐにジンだとわかったよ。
 すぐ近くの窓も開いていたけど、やっぱり二階から飛ぶ度胸はねぇのか、ジンは小さなテレビ台の後ろに逃げ込むと、そのままそこに嵌まり込んで、じっと動かなくなった。何でまた飛びこんで来たんだろうと思ってると、玄関先で何人か子供の気配がした。押し殺した声で、ここに入ったぞ……とか何とか言っていやがる。俺がズカズカと足を踏み鳴らして近づくと、わっと逃げて行って、途中で一人、階段を踏み外して転ぶ音がした。ざまぁみろ。
「クソガキどもめ……ほら、あいつらは、もういなくなったぞ」
 ジンは口を利けねぇけど、聞くまでもなく事情はわかる。夏休みで退屈を持て余したガキどもが、路地を歩いていたジンにちょっかいを出しでもしたんだろう。猫ってのも、苦労が多いもんだ。
 けれどジンは、なかなかテレビ台の後ろから出てこなかった。上から見ると、よほど怖い目にあったのか、ガタガタ震えていやがる。
(ガキども……いったい何をしやがったんだ)
 無理やり引っ張り出そうかとも思ったけど、さすがに逆効果と思えたから、俺はそのまま放っておくことにした。勝手に飛び込んできたんだ、そのうち勝手に出て行くだろうよ。
 それでも二十分近く経っても、ジンは出てこなかった。もしかすると俺がいるからかも知れねぇが、そこは俺の部屋なんだから、わざわざ席を外してやるってのも変な話だ。俺は部屋の真ん中に大の字になったまま、ジンの存在を忘れてやることにした。
(まったく、警戒心の強いヤツだな)
 そんなことを考えながら、俺は少しだけ眠った。何だか急に瞼が重くなって、坂道を転がり落ちるみたいに眠っちまったんだ。
 目を覚ましたのは、強い雨の音が聞こえたからだ。まるで滝のような音が遠くに聞こえて、体を起こしてみると、窓の外には激しい夕立が降っていた。名前の通りに夕方で、空はほんのりとオレンジ色になっているのに、強い雨が降ってるんだ。心なしか、その雨そのものも、ほんのりとしたオレンジ色に見えたよ。
 俺が驚いたのは――ジンが窓辺にちょこんと座って、その雨を見ていたからだ。気のせいかも知れねぇけど、薄暗くなった部屋の中で、その白い体がボンヤリと光ってるように見えたぜ。
「……ジン」
 本人の知らねぇ名前で呼ぶと、窓辺に座ったジンは振り向きもせず、ただ尻尾を立ててピクピクと動かして見せた。何でもない動きだけど、それが猫の挨拶だってことは知ってた。あいつは曲がりなりにも、俺の言葉に答えたんだ。
 それから、ほんの数分だけ、俺とジンは不思議な時間を持った――窓辺に二人で座って、ピンク色の夕立を眺めていたんだ。何でかはうまく言えねぇけど、あの時、俺は妙に幸せな気持ちだったよ。言葉は通じねぇけど、ジンと分かり合ったような気がしてな。
 しばらくしてジンは、開け放した玄関から静かに出て行った。出て行く間際にも、立てた尻尾を二度三度動かして、挨拶していったんだ……本当だぜ。
(どうやら、俺を認めてくれたのかな)
 そう思いながら俺は、立ち上がって部屋の電灯をつけた。それで、喉から心臓が飛び出るくらいに驚いたんだ。
 ジンが隠れていたテレビ台の下から、赤茶けた血のようなものが流れ出ていたんだよ。慌てて上から覗いたらー―ジンの体は、まだそこにあった。よほど苦しかったのか、苦悶の表情を浮かべたまま、こと切れていたんだ。
 クソガキども……きっと寄ってたかって、ジンを痛めつけたに違いねぇ。加減を知らねぇバカどもが――。
 あれから三十年も経つのに、あの日のことは、どうしても忘れられねぇ。もし俺が、もっと早く気づいてやれていたら、あいつを死なせずにすんだかもしれないと思うと――どうにも、いたたまれねぇ気持ちになるんだ。
 もうオヤジの俺だけど――昨夜も、夢の中で泣いたよ。

 


 

著者プロフィール

朱川湊人(しゅかわ・みなと)
1963年、大阪府出身。
出版社勤務を経て、2002年「フクロウ男」でオール讀物推理小説新人賞を受賞してデビュー。2003年 「白い部屋で月の歌を」で日本ホラー小説大賞短編賞を受賞。
2005年『花まんま』で第133回直木賞を受賞。
著書に『さよならの空』『わくらば日記』(以上角川書店)、『いっぺんさん』(実業之日本社)『スメラギの国』(文藝春秋)などがある。
笹公人(ささ・きみひと)
1975年、東京都出身。
17歳の頃に寺山修司の短歌を読んだことがきっかけで作歌をはじめる。
2003年、処女歌集『念力家族』(インフォバーン)を刊行。
04年、未来年間賞を受賞。主な著作に『念力姫』(KKベストセラーズ)、『念力図鑑』(幻冬舎)、『抒情の奇妙な冒険』(早川書房)、『笹公人の念力短歌トレーニング』(扶桑社)がある。
公式HP:http://www.uchu-young.net/sasa/

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