その男の顔を、どうしても思い出すことができない。
どんな髪型をしていたのか、メガネをかけていたのか、ヒゲをはやしていたのか――すべてが曖昧で、どうにも判然としないのだ。まだ若かったような気もするし、すでに老人だったような気もする。
ただ言えるのは、彼の態度は紳士的で、十分に善人に見えたに違いないということだ。なぜなら、その頃の私は小学校の五年生だったが、他人に対して、ほとんど心を開かない少年であったからである。その私があんなに親しく言葉を交わすぐらいなのだから、彼の態度が怪しげであったはずがない。どこかしら取っ付きやすいムードが、必ずやあったのではないかと思う。
どんな風に声をかけられたのかも覚えていないが、もしかすると先に話しかけたのは私かもしれない。何せ彼は年代物の古ぼけた皮トランクを横に置き、黄昏の公園のベンチでパイプをふかしていた。テレビや映画では見たことがあったものの、実際にパイプを吸う人間など私はそれまで見たことがなかったから、物珍しさも手伝って、こちらから話しかけた可能性もある。彼が着ていた背広の柄が、薄い灰色地に茶色の太いストライプ模様で、どことなく芸人風に見えた……というのも、気安くなれた理由のひとつかもしれない。
「世の中というのは、不幸だらけさ」
その黄昏の記憶は、男のそんな言葉から始まっている。それなりの会話を経て、そこにたどり着いているはずだが、やはり道筋は覚えていない。
「この世界の誰もが、たいていは幸せになりたいと思って生きているはずだ。けれど実際、この世は不幸で、悲しくなることばかりがある……はっきり言えば、完全に幸せな人なんて、この世にはいないんだよ」
男はベンチに腰掛けたまま、褐色のパイプをふかしながら言った。私は彼の隣に座って、その不思議と甘い匂いを嗅ぎながら、その言葉を聞いていた。本当にどういう流れで、私は見知らぬその男と、そんな話をしていたのだろう。
「だから自分ばかりが悲しい思いをしているなんて、その年から思わない方がいい……そんな思いは、君の世界を狭くするばっかりさ」
きっと男は、私を慰めてくれていたのだろうと思う。ということは、私は男に自分の生い立ちを話して聞かせていたに違いない。
必要に迫られない限り、他人に話さないことではあるが――私は幼い頃に、自動車事故で両親を亡くしていた。車で知り合いの結婚式に出かけた帰りに、酔っ払い運転の車に追突されたのだ。父も母も即死だったそうだが、幸い私は祖母の家に預けられていたので、一家全滅を避けることができた。
だが、それ以来、私は孤児になった。
初めは祖母の家に預けられたが、やがて祖母が体調を崩したので、父の弟である叔父の家に引き取られることになった。叔父夫妻は善良で優しく、自分の子供と私を分け隔てなく育ててくれたが、当の私が分け隔てをしていた。やはり、どんなに優しい叔父叔母でも――しょせんは自分の親ではないのである。
「寂しいかい?」
鮮やかなオレンジ色に染まる空を見上げながら、男は言った。その空には一面に鰯雲が浮かんでいたから、この記憶は秋のものだったとわかる。
「別に寂しくはないよ……みんな優しくしてくれるしさ」
その言葉は嘘ではない。叔父も叔母も従兄弟も私に気を使ってくれたし、優しい人たちに囲まれて、私は十分に幸せだった。けれど、やはり心のどこかにぽっかりと穴が開いていて――そこに時折、冷たい風が吹き抜けるのだ。そして、その風の冷たさが、私の扉を閉ざさせるのである。
「お父さんやお母さんに、会いたいかね」
やがて男は、愚かしいことを私に尋ねた。すぐに答えのわかる質問を、どうして、わざわざするのだろう。
「そりゃ、会いたいけど……死んじゃった人に、会えるわけないよ」
「確かにそうだ。死んでしまった人には、普通は会えない」
男はパイプを深々と吸い込み、青紫の煙を吐き出しながら言った。
「でもね、ちょっと特別な方法を使えば、会えるのさ」
そういいながら男は周囲を見回し、近くに私たち以外の人間の姿がないのを十分に確かめた上で、体の横においてあったトランクを、自分の腿の上に載せた。
「この中に、何が入っているんだと思う?」
「さぁ……本とか?」
その古びた皮トランクを見ながら、私はあてずっぽうに答えた。人の持ち物など、何の情報もなしにわかるはずがない。
「実は、街が入っているんだよ」
男は私の顔を見ながら、そう言って笑った。
もちろん、私はその言葉を冗談だと思った。こちらが子供だと思って、からかっているのだろう。
「まぁ、口で言っただけじゃあ、ピンと来ないだろうね」
私が白けた顔になっているのに気づいたのか、男はそう言いながらトランクの蓋を開き――中を見た私は、思わず小さな声をあげた。
トランクの中に入っていたのは、本当に街だった。
いや、もちろん実際の街ではない。トランクの底を地面にして、模型の街ができていたのである。建物の大きさから考えて、大体144分の1くらいの大きさだろうか。
「うわぁ、よくできてるなぁ」
その精密な建物群に、私は思わず目を見張った。駅の近くの商店街に小さな模型屋があって、その店の中に主人が作った畳一畳分くらいの鉄道模型のレイアウトがあったが、それ以上に精巧な出来栄えだった。
真ん中に四車線の広い通りがあり、その道を囲むように、いくつもの建物が立っていた。マンションのようなビルは少なく、枝分かれした細い道沿いに、小さな家が無数に並んでいる。どことなく、あまり裕福でなさそうな街だ。
「この看板に、見覚えがないかい」
笑いを含んだ声で男が指差したのは、大きな道の近くに立っている、小さなカレーの看板だった。長髪の男性アイドルがスプーンを片手に、ニッコリと笑っている。実物は大きいのだろうが、その模型の街の中では、小指の先ほどしかない。
(これって、確か……)
そのアイドルは長い間、同じブランドのカレーの宣伝に出演していたが、その看板は、ごく初期のものであるはずだ。その笑顔と構図が、なぜか心に引っかかっている。
そう、その看板は、私がずっと幼い頃、母と一緒に買い物に行く時に、いつも見上げていたものだ。そのたびに幼い私がコマーシャルの口真似をして、母は美しく笑っていたのを思い出す。
(もしかして、この街は……)
その時、男が私の顔にパイプの煙を吹きかけた。その煙さに目を閉じ、少し咳き込んでから目を開けると――私はいつの間にか、広い道路のほとりに立っていた。すぐ横には、あのカレーの看板が、ずっと大きくなって設置されていた。
(いったい、どうしたんだ?)
突然自分の身に起こった不思議に、私は動揺した。さっきまで黄昏の公園にいたはずなのに、いつのまにか見知らぬ街角に立っているなんて。
いや、見知らぬ街ではない。そこは間違いなく、私が幼い日に、両親と共に住んでいた街だ。この街で私は、四歳まで過ごしたのだ。
こんなバカなことが起こるなんてー―私が驚いていると、不意に近くで聞き覚えのある女性の声がした。振り向くと、そこには小さな子供を抱いた男の人と、三十歳くらいのメガネをかけた女性が立っていて、楽しそうに看板を見上げている。
「ほら、タカアキ、いつものやつ、パパにも聞かせてあげて」
「ヒデキ、カンゲキ―ッ」
小さな男の子が元気よく叫ぶと、その子を抱いていた男性が、高らかに笑った。
「タカアキは元気がいいなぁ。男の子は、元気がいいのが一番だ」
その二人が、自分の両親であるという自信はなかった。けれど私の名前がタカアキであるのも本当だ。
その光景を見たのは、ほんの数秒のことだったと思う。
再びパイプの煙の匂いがして――気づけば、私は一人で公園のベンチに座っていた。あの模型の街の入ったトランクも、その持ち主である男の姿もなくなっていた。
(今のは……夢?)
私はそう思ったが、独特のパイプ煙草の香りが、あたりには満ちていたから、きっと、あの不思議な男は本当にいたのだろう。
あれから何十年と時が過ぎ、私の中では夢も過去も、同じような景色になってしまっている。だから、この記憶が本当だったかどうかも、今となっては、どちらでも構わないのだ。
だから、あの男の顔が思い出せないことが、少し悲しくもある。


