月周回衛星打ち上げの時間は、刻々と迫っていた。打ち上げ準備用チェックシートの二ページまでクリアし、いよいよ最終荷物積み込みのシークェンスに入る。
「ニシジマ、そろそろ彼を……衛星の中に」
騒々しい管制室の中で、上司が僕の耳に顔を近づけて渋い顔で言った。あぁ、いよいよ、この時が来てしまった……と、僕は絶望的な気持ちになる。
「部長、やっぱり乗せるんですか」
「仕方ないだろう――彼自身の望みでもあるんだから」
部長の顔には、もう、その話はやめてくれ……と書いてある。すでに何十回と繰り返した議論を、ここに来て、再び蒸し返そうとは僕も思わない。
僕は部長に一礼すると管制室から出て、同じフロアの端にある控え室に向かった。ふだんは見学者(それも、偉いさんの)用の応接室に使っている部屋だ。
控えめにノックすると、中から横柄な感じの返事があった。
「おう、入んなよ」
言われたとおりに扉を開けると、ブルーのカーペットの上に応接セットがあり、そのソファの一つに茶色いウサギのヌイグルミが転がっていた。他には誰もいない。
「そろそろ時間です」
「おっ、そうかい」
そう返事をしたのは、当のウサギのヌイグルミだ。同時に頭に糸がついているみたいに、ピョコンと起き上がる。
「いよいよ宇宙かぁ。ワクワクしてくるねぇ」
まるで内蔵されたモーターで動いているように、ウサギのヌイグルミは身を震わせた。けれども彼の中には機械の類は入っておらず、スポンジ百パーセントであることは、すでにレントゲン検査で明らかになっている。それにもかかわらず彼は自分の足で歩き、意思を持ち、あまつさえ話しているのだ。
「ロケットの調子はバッチリだろうね」
彼は――いや、ラビラビは、壁にかけられているロケットの写真パネルを見上げながら言った。その写真こそ、まもなく打ち上げられるVB-Ⅱ型ロケットだ。
「もちろん完璧に仕上げてありますよ。衛星の方にも、問題はありません」
「いやぁ、すごいもんだね、科学技術の進歩ってのは」
僕から言わせれば、彼の方が何倍もすごいと思う。ただのヌイグルミに過ぎない彼が、どうして人間のように歩いたり、話したりしているのだろう。
「そりゃあ、おまえ、才能ってヤツだよ」
以前に同じ質問をした時、彼はそう答えた。
「お前が知らないだけで、俺みたいに歩いたり話せるようになったヌイグルミは、けっこう多いんだぜ。もちろん数は少ないけどな」
彼は自分の長い耳を両方に引っ張りながら、僕をからかうように言っていたものだ。
今となっては確かめる方法はないのだが、何でも、かつて大国が打ち上げた無人衛星の多くには、彼のような“心のあるヌイグルミ”が搭載されていたらしい。何せ彼らはものを食べないし、真空にも耐えられる。個人差はあるものの知力も備えているので、衛星のちょっとした故障ならば直すことができる。つまり無人衛星の管理人としては、申し分ないのだ。
(それって、どうなんだろう)
彼が秘密裏に衛星に乗り込むと聞いてから、ずっと僕は考えていた。いくらヌイグルミと言っても、生きているとしか思えないものを、二度と帰ってこられない宇宙の旅に出すのは、いかがなものなのだろうか。
非人道的だと声を上げたい気持ちもあったが、それが彼自身の意思によるものだと聞いて、僕は何も言えなくなった。むしろ、そうすることが彼にとっては満足の行くことらしいのだ。
「じゃあ、行こうかい」
ソファからぴょんと飛び降りて、ラビラビは小走りで扉に向かった。
「あっ、ちょっと待ってください。あなたが歩いているところを、人に見られるのはマズイです」
「おっと、そうだった、そうだった」
彼は急に立ち止まり、勢い余って床に転がる。
「じゃあ、衛星まで連れてってくれよ。耳はつかむんじゃねぇぞ」
「そのへんは、心得てます」
僕は彼の軽い体を抱き上げて、部屋を出た。長い廊下には人気がなかったが、管制室から漏れてくるいくつもの声が、空気を緊張させている。
「でも、ラビラビさん。本当にいいんですか?ロケットで宇宙に飛び出してしまったら、二度と地球には帰って来られないんですよ」
廊下の突き当りにある扉を出て、非常用の外階段を降りながら話した。
「あぁ、それはもう納得してる。だから、俺に悪いとか感じなくてもいいんだからな」
「でも……」
非常階段を降り切ると、そこは研究棟の裏に出る。そこには自転車置き場があって、僕は自分の自転車の前カゴに彼を乗せた。
「なんか、ETみたいですね」
「あいつもヌイグルミみたいなもんだからな」
それから僕は、この島の端っこに作られたロケットの発射台まで自転車を走らせた。だいたい十キロ近くある。
「まぁ、どのみち古ぼけたヌイグルミなんて、もう用済みだからな。いっそ宇宙にでも行った方が、サッパリするってもんだ」
カゴの中で地面の凸凹どおりに跳ねながら、彼は言った。
「そんなことないですよ。ラビラビさんは、普通のヌイグルミとは違うじゃありませんか」
彼の言葉を信じれば、歩いたり話したりできるヌイグルミは、僕らが考えている以上に多いそうだが――少なくとも、そういうヌイグルミには普通以上に価値があるのではないだろうか。
「普通とは違うから、普通に生きるなってか?はん、俺はそういうのはゴメンだ」
彼は自転車の前カゴに両手でつかまって言った。
「俺は生涯、一ヌイグルミよ。香苗ちゃんが幸せになったんなら、もう用済みなんだ」
香苗というのは、もともとの彼の持ち主らしい。
「そんなことはないですよ。その……香苗さんって人も、きっとラビラビさんのことを探してるんじゃないですか」
「あぁ、きっと探してくれてるだろうな」
どこかシンミリとした口調で、彼は答えた。
「でも、それならそれで、離れた方がいいんだ。人間、いつまでもヌイグルミを抱いてばかりもいられないだろ」
「そりゃ、そうかもしれませんけど」
「だいたいな、俺たちヌイグルミには、あげる愛情はあっても、もらう愛情はねぇんだ。大事にされるのは嬉しいが、だからって押入れの中に押し込められちゃ、死んだも同じだからな」
「そういうもん……ですかね」
何だか僕は何も言えなくなって、その後は黙ってペダルを踏み続けた。
やがて発射台近くの退避エリアが見えてくる。そこで別の係の人間に彼の身柄を手渡せば、僕の仕事は終わりだ。なるべく急いで管制室に戻らなくてはならない。
「じゃあ、ニシジマ、お前も元気でやれよ」
最後にそれだけ言うと、彼はダラリと体の力を抜いた。彼が歩いたり話したりすることは、トップシークレットなので、ごく一部の人間しか知らない。
「じゃあ、これをお願いします」
僕は退避エリアの隅で、普通のヌイグルミのふりをしている彼を、係の人間に手渡した。
「了解しました……それにしても無人衛星にヌイグルミを積むなんて、しゃれていますね」
「彼は守り神だからね」
係の人間は、大切そうに彼の体を抱えた。その後、人工衛星のモジュール内に作られた棚の中に、ラビラビは置かれることになる。
「じゃあ、お気をつけて」
最後に僕が小声で言うと、ラビラビは少しだけ耳を動かして見せた。
やがてロケットは、定刻どおりに打ち上げられた。数日後、衛星は月周回軌道に無事に乗ったが、当初は通信回線が繋がらずに、スタッフをヤキモキさせた。数時間後、どうにか無事に繋がったが、ほんの数秒だけ写った衛星内の映像に、ウサギの耳のような影が映りこんでいた。
今も彼は、月のまわりをクルクルと回り続けている。そして特別に作った小さな窓から、この地球を見ているはずだ。
案外、呑気にやっているのかもしれない。


