僕が中学校二年の頃、同じクラスに村下香苗という女の子がいた。
彼女はクラスで一番小さく、十三、四歳だというのに小学五年生くらいにしか見えなかった。やたらと分厚いメガネをかけていたけれど、別に勉強ができるというわけでもなく、どちらと言うと、できない子のグループに入れられてしまうような成績だった。ついでに言うと家もあまり豊かではないらしく、制服のブラウスは清潔ではあったけれど、いつもくたびれたものを着ていた。
そのせい……というわけではないろうが、クラス全体には彼女をどこか軽く見る風潮があった。イジメというレベルではないけれど、彼女が進んで何かやろうとすると、妙に冷ややかな態度で見たりするのだ。
たとえばクラス委員に彼女が立候補した時(実際、立候補する人も珍しいのだが)、「村下なんかダメに決まってるじゃん」と聞こえよがしに言い、自分が代わりに立候補するわけでもないくせに、他の勉強のできる女の子を推薦したりしてしまうのだ。要は、「実力も人望もないくせに、しゃしゃり出る目立ちたがり屋」という目で、みんなは彼女を見ていたのだろう。
実際、彼女には友だちが少なかった。何かのグループ分けをする時、「好きなもの同士」というと、必ず彼女は一人だけ残ってしまうのだ。クラスから浮いている人間と仲良くするのは、なかなか勇気がいるものだから、やむを得ないのかもしれない。
だから二学期に彼女が隣の席になった時、僕も初めは彼女を遠ざけようとしていた部分もある。親しく言葉を交わすようになったのは、彼女の班ノートに描いてあったイラストがきっかけだ。
ある時、彼女の班ノートに可愛らしいウサギの絵が描いてあった。上手というわけでもないが、何とも愛嬌のある顔つきをしていて、僕はそのイラストがなぜか気に入ってしまったのだ。
「村下さんの班ノートに描いてあるウサギ、何か可愛いね」
あくまでも何気なく、僕は彼女のイラストを褒めた。すると彼女は顔を少し赤らめて、自分の持っている『ラビラビ』という名前のウサギのヌイグルミがモデルなのだと教えてくれた。
それ以来、彼女は毎回、班ノートにラビラビの絵を描いた。同じ班の中には「班ノートは落書き帳じゃないんだから」と苦言を呈するのもいたけれど、他の班にもイラストを描いていた子がいたので(連載マンガをやっているヤツだっていたくらいだ)、先生もうるさいことを言わなかった。
それをきっかけに、僕は香苗とよく話すようになった。と言っても、好きな歌手やアニメの話をちょっとするぐらいのものだったけれど、何となく彼女は僕と話すのがうれしそうだった。
「こんなコト言いたくないんだけど、あんまり村下と仲良くしない方がいいよ」
ある時、廊下でクラスの女の子のグループに呼び止められて、そんなことを言われた。
「あの子……ちょっと仲良くなったら、平気でウソつくから」
「ウソって?」
「何か知らないけど、ヌイグルミと話ができるとか……イタいこと言い出すよ」
(うひゃっ、それは確かにイタい)
反射的に僕は思ったが、幸い彼女が僕にそんなことを言い出すことはなかった。実際、そんなことを真顔で言われたら、いくら僕でもリアクションに困るところだ。
ところが十月ごろ、学校で生徒会選挙があって――彼女がいきなり副会長に立候補したのには驚かされた。こう言っては何だが、学校での選挙なんてものは人気投票みたいなところがあって、クラブで活躍しているような人間が先輩・後輩票を集めて当選してしまうものだからだ。程度の悪い学校に限って、本当に学校のことを考えているような人間が落選してしまう。
「村下さん、ずいぶん思い切ったことするんだね」
僕が尋ねると、彼女は照れくさそうに答えた。
「みんなの話を聞いていたら、けっこう学校に不満があるみたいだから……そういうところを直していけたらいいなって思って」
当時の僕が気恥ずかしくなるようなことを、彼女はサラリと言った。かわいそうに、彼女は思い違いしている――確かに学校は完全に自由と言うわけじゃなかったけれど、中学生なんて、まず最初に文句を言いたい気分があって、その対象を後付けで探しているような部分がある。早い話、文句や不平も娯楽の一つなのだ。
けれど彼女はそれを真に受けて、生徒会の役員に立候補してしまった――たぶん、当選できないのに。
「それに……ラビラビも賛成してくれたから」
どうやって立候補を取り下げさせるか(いわゆる公示にまでは、まだ時間が残っていた)考えている僕に、彼女は思い切ったように言った。
「ラビラビって……ヌイグルミのウサギだよね?」
「そう。信じないかもしれないけど、私、ラビラビと話ができるのよ」
その言葉を聞いた時の、僕の絶望的な気持ちを想像してほしい。やっぱり女子が言うように、彼女はイタい人だったのだ。
「小さい頃から一緒に寝ていたからかしらね……何でも話せるお友だちなの」
「そりゃあ、すごいね」
僕はそんな風にうなずくしかなかった。
覚えのある人も多いかもしれないが、子供の頃――それも十代になりたての前後には、少々自意識が肥大化してしまって、ちょっとばかりイタいことを平気でやってしまうことがある。早い話、みんな自分が当たり前の人間であることが何となくイヤで、「ちょっと普通ではない自分」というのを演出してしまうわけだ。
たとえば中学一年の頃には、いつも左手だけに包帯を巻いている鈴原というヤツが同じクラスにいた。何でも彼の中には魔界の王子がいて、左手の甲にそれを示す紋章があるのだという。本人曰く包帯は紋章の封印で、それを解くと大変なことになるらしいのだが、面白がってみんなでヒン剥いてやったら、ニセモノのバットマンマークのようなものがサインペンで描かれているだけだった。悪友連中で彼を強引に押さえつけ、レモン石鹸で洗ってやったらきれいに落ちて、無事に彼の悪魔祓いは完了したのだが――そういうイタいことを平気でやってしまうのが、中学生と言う年代でもある。
「ラビラビがね、みんなのためになることだったら、ドンドンやるべきだって」
「あぁ……そう」
僕はその一言で完全にドン引いてしまい、以来、彼女とはあまり話さなくなった。やっぱり、ちょっと――どういう顔をして、その話を聞けばいいのか、まるでわからなかったからだ。
その後、予想通りに彼女は選挙で惨敗したが、僕は慰めの言葉さえかけなかった。それから一ヶ月ほど過ぎた頃だろうか――僕は当の『ラビラビ』に会ったのだ。
塾を終えて帰ってきた時だから、すでに夜の九時を回っていたと思う。その日は朝から大雨だったけれど、それでも一つ覚えの自転車で行ったものだから、僕はびしょびしょになっていた。前髪からポタポタと雫を垂らしながらマンションのエレベーターに乗り、自宅のある九階で降りた時だ。
薄暗いエレベーターホールの隅に、茶色いウサギのヌイグルミが一つ転がっていた。完全に人間っぽい体型にデフォルメしたものではなく、中途半端に動物らしさの残る体形をしていて、両手両足(ウサギはみんな足だけど、そういうキビシイことはさておき)で何かにしがみついているようなポーズのものだった。耳の先からお尻まで、だいたい三十センチくらいの中型サイズだ。
薄暗い中でそれを見た時、とっさに何かの動物の死体かと思って、僕は口から心臓が飛び出そうになるほど驚いた。まるで大雨の中を歩いてきたみたいに、それはびっしょりと濡れていたからだ。
(……なんだ、ヌイグルミか)
そう思った時、さらに驚くことが起こった――まるで頭に糸でも付いているように、そいつがピョコンと起き上がったのだ。
「よう」
当時の僕よりも少し大人の声が聞こえた。僕は絶対に誰かが近くにいて、そのヌイグルミを操り、腹話術のように声を当てているのだと思ったが、近くに人が身を隠せるような場所はなかったし、ウサギの体のどこにも糸らしきものは付いていなかった。
「そんなにビビるなよ。お前、俺のコト知ってるだろ?香苗ちゃんの相棒のラビラビだよ」
「そんな……バカな。ヌイグルミがしゃべったりするわけない」
「お前が香苗ちゃんの言うことを信じないから、こうして目の前まで来てやってんだろ。ちょっとルール違反だけど、しょうがねぇや」
可愛らしい外見の割に、ラビラビは生意気そうな話し方だった。
「ヌ……ヌイグルミが、いったい何の用だよ」
僕は隙あらば重いテキストの入ったバッグをぶつけてやろうと考えながら、得体の知れないヌイグルミに言った。
「こんなこと、お前なんかに頼むのはシャクなんたけどよ……悪いけど、お前、明日学校行ったら、香苗ちゃんのこと、慰めてやってくんねぇか?ナントカ選挙に落っこっちまったのが、かなりショックだったみたいでなぁ。あの子、本当にみんなのためにがんばろうと思ってたんだぜ」
彼女の代わりに当選したのは、イヤイヤ立候補させられた女子バスケット部の子だった。当選した時、バスケに集中できなくなるから、ホントはイヤなんだよね……と言ってヒンシュクを買った。
「ま、落っこっちまうのはしょうがねぇかも知れねぇけど、あの子、あれからずっと、お前のこと呼んでんだ。どうやら、もう俺じゃダメみたいでなぁ」
びしょぬれのウサギのヌイグルミは、口元をもモゴモゴさせながら言った。
「小ちゃいさい頃から一緒だったんだけど、もう言葉が通じなくなってきたみてぇだ。だから、俺はもう引退すっから……あとはお前に任せるよ」
「そんなコト言われたって困るよ」
相手がヌイグルミであるのも忘れて、僕は思わず言い返した。
「別に将来まで面倒見ろって言ってるんじゃねぇんだからさ、ガタガタ言うなよ」
ラビラビは寂しそうな、けれど強い口調で言った。
「ただ、あの子のことが少しでも気に入ってるんなら、明日、ちょっとだけでも声かけてやってくれよ。俺はあの子の涙を吹いてやることはできても、もう止めることはできなくなっちまった……昔はできたんだけどなぁ。今、それができるのは、お前になっちまったんだから、しょうがねぇや……なぁ、頼むよ」
ウサギは濡れた自分の両耳を、まるで雑巾を絞るみたいに捻りながら言った。思いがけず大量の水が滲み出てくる。
「あの子、自分からは絶対言わねぇだろうけど、小ちゃい頃に、実のお母さんから散々苛められてなぁ。ご飯をろくに食べさせてもらえなかったから体が成長しなかったし、頭を殴られたせいで視力が弱くなっちまったんだ……それでもな、今、みんなのために自分がやれることをやろうって考えてる……けなげだろう?そんな子を泣かしたら、男じゃねぇぞ」
そういいながら、ラビラビは僕の方に近づいてきた。思わず飛びのくと、不機嫌な口調で言った。
「エレベーターのボタン、押してくれよ。手ェ届かねぇんだ」
言われたとおりに下りボタンを押してやると、やがてエレベーターが来て、ラビラビはチョコチョコと跳ねるように、それに乗り込んだ。
「一階、押してくれよ。気がきかないヤツだな。まったく香苗ちゃんも、こんなヤツのどこがいいのかね」
そいつは最後まで横柄な態度だったが――エレベーターの扉が閉まって降り始める音が聞こえると、僕は大慌てで自分の家に駆け込んだのだった。
(確かにヌイグルミが、自分で動いて自分でしゃべった)
さすがに親には言わなかったが、その夜、布団に入ってからも、僕はあのヌイグルミの声を頭から追い出すことができなかった。
あくる日、僕は学校の帰り道、一人で歩いている彼女を見つけて声をかけた。
「村下さん、例のラビラビ、どうしてる?」
「それが昨日から、姿が見えないの。家中探したんだけど」
そう答える彼女の瞼は少し腫れていて、本当に夜遅くまで探していたのだろうと思えた。
「君の言うこと……本当だったんだね。僕もラビラビと話したよ」
前日のエレベーターホールでの会話を一部始終教えると、彼女はポロポロと涙をこぼした。
「あんまり泣いちゃダメだよ。僕、アイツに君のこと、頼まれちゃったんだからさ」
それ以来、香苗と僕は今日まで一緒にいる。
別にアイツとの約束を律儀に守ったわけではないけれど、何かと言葉を交わすうちに、まぁ、僕も彼女が気に入った……と言うだけのシンプルな理由だ。きっと誰も知らないことだろうけど、彼女の笑った顔は、実はとっても可愛いのだ。
かれこれ十三年の付き合いで、そろそろ一緒になってもいい頃合いかとも思っている。その時には、ぜひアイツを式に呼んでやりたいとも思うのだけれど――あの雨の夜、ラビラビがどこに去って行ったのか、それだけはわからない。
(おわり) |


