詳しい地名や具体的な位置を示すことは何も言えないのだけれど――十七年前の春、父さんと二人で某県のH山に登りに行った時のことだ。
H山はいくつかの連山の一つで、たいした高さではないが起伏に富んでいて、苦労の多い山だった。しかも頂上まで緑に覆われていて、歩く分には気持ちがいいが、達成感に乏しいので面白みが薄かった。そう離れていないところに風光明媚な眺望で知られるY岳があったので、たいていの登山客はそちらの方に行ってしまう。わざわざH山に登ろうというのは、よほどの渋好みか、その界隈の山をコンプリートしたい……という人間くらいのものだったろう。
若い頃からトレッキングが好きだった父さんは、一人息子にも同じ趣味を持たせたかったらしく、僕は小さい頃から、東京近郊の山を次々と登らされたものだ。だから中学生といっても、それなりに山歩きのコツを知っているつもりだった。
けれど、そんな慢心がいけなかったのだろう――山の中腹近くの細い道を歩いている時、僕はうっかり足を踏み外してしまい、斜面を三十メートルほど滑落してしまったのだ。
「大丈夫か、しっかりしろ」
父さんはすぐに斜面を降りてきて助けてくれた。幸い岩がむき出しになったような場所ではなかったので、僕は何箇所かに擦り傷を負っただけで済んだけれど、困ったのは登山ルートを大きく外れてしまったことだ(滑落したところを昇れば戻れるだろうに……と思うのは素人考えで、装備もなしにそんな無謀はするべきではない)。
「とにかく、どこかの道に出なければ」
父さんは地図とコンパスを駆使して、本来のルートに戻る方角を探した。
周囲は密林のようで、木々の間から太陽がかろうじて見えるような状態だ。地面も草に覆われていて、人が踏み均したような形跡もなかった。うかつに進むと遭難に繋がるので、僕たちは数メートルごとに地図を確認しながら、慎重に深い森の中を進んでいった。
ところが、どういうわけか――途中からコンパスが利かなくなった。どこかにぶつけて壊れたのかもしれないが、ふらふらと揺れるばかりで、いつまでも針が止まらないのだ。それでも父さんは、木々の間からかろうじて見える太陽の方角を頼りに前進した。
ようやく森を抜けたと思ったのは、緑の迷路の中を二時間ほど彷徨ってからだった。突然に風景が開けたかと思うと、目の前に灰色の高いフェンスが出現したのだ。
「父さん、ここは何なの」
「何かの工場かな」
フェンスは三メートルほどの高さのコンクリート製で、上には金属の棘が均一の間隔で埋め込まれていた。町の中なら特に疑問を感じないけれど、深い山の中で唐突に出会ったなら、どこかいわく有りげに見える。僕らは額を突き合わせて地図を眺めたが、大きな施設らしいものは何も書かれていなかった。
「もしかすると森の中を歩くうちに、町まで降りちゃったのかな」
「それはないだろう……俺たちは横には歩いたが、少なくとも下った覚えはない」
僕たちは首を捻りながら、そのフェンスを見上げた。
「お前、ちょっと中を覗いてみろ」
やがて父さんは、そう言ってフェンスに手をついてかがんだ。普通の肩車ではフェンスの向こうまで見ることはできなかったので、僕は靴を脱いで父さんの肩の上に立った。
フェンスの向こうにあったものは――何となく飛行機の滑走路を思い出させるような、平たいコンクリートの地面だった。当時の僕が通っていた中学校が二つ、校舎と校庭ごと入ってしまうくらいの広さ……と言えば、何となく伝わるだろうか。
左側の奥には小さな建物が三つ、ある程度の距離をおいて建っていた。真ん中にあるのは二階建ての四角い建物で、なぜか一つも窓がなかった。その代わりというわけではないだろうが、衛星放送を受信するアンテナを何倍にも大きくしたようなものが屋上に乗っかっていた。
その建物を挟むように、白い二等辺三角形の建物があった。正面にはドアのようなものがついているけれど、何人も入れるような広さはなさそうだ。むしろ形から考えて、ドアの向こうはすぐに階段になっているのではないかと思える。つまり、この施設には地下があって、その入り口なのかもしれない。
さらに奇妙だったのは、地面の上に白い塗料で複雑な図形のようなものが描いてあったことだ。一瞬、陸上競技のトラックかと思ったけれど、よく見るとそうではなく、多くの直線とちょっぴりの曲線で、何かの模様が描いてあるらしい。その模様に、僕はぼんやりとした記憶があった――あれは確か、ナスカの地上絵の『ハチドリ』じゃないか。
「あなたタチ、なにしてマスか」
その瞬間、不意に背後で人の声がした。僕は反射的に父さんの肩から飛び降りたけれど、その時にはすでに五人の奇妙な人間が僕らを取り囲んでいた。人が近づいてくる気配なんか、まったくしなかったのに。
五人の人間は揃いの薄いグレーのツナギ服を着ていて、一人の男を除いて奇妙なデザインのフルフェイスのヘルメットを被っていた。シールドがスモークだったので、どんな顔をしているのかもわからなかったが、それぞれが手に警棒のようなものを持って身構えていた。
「あなたタチ、どうしてココにいますか」」
ただ一人だけ顔を出している男が、奇妙なアクセントの日本語で言った。オールバックにした髪をムースで固め、話している間に口以外はまったく動かさなかった。年齢は、だいたい三十代半ばくらいだろうか。
「息子が滑落してしまって、道に迷ってしまったんです」
「そうデスか。でも、ココは普通のヒトが来てはいけないトコロです」
「何の施設なんですか、いったい」
「あなたタチ、知る必要アリマセン」
男がそう言って軽くうなずいた瞬間、警棒を構えた人間の一人が、すばやくポケットからスプレーのようなものを取り出して、僕の顔面に吹きかけた。
「息子に何をするんだっ」
父さんは叫んだけれど、その声はたちまち遠くなった。僕の意識が、すごい速さで遠ざかっていったからだ。
僕は立っていられなくなり、そのまま地面に倒れた。その時、必死に父さんの方に顔を向けようと首を捻じって、確かに見たのだ――僕らの頭上に、銀色に光る大きな物体が音もなく浮かんでいるのを。
次に意識を取り戻したのは、町の病院の小さな病室だった。目を開けて最初に見たのは、ホッとしたように笑っている父さんの顔だった。
「父さん……僕ら、どうなったの」
「お前は山で滑落したんだよ。覚えてないのかい」
「もちろん覚えてるけど……その後、変な飛行場みたいなところを見つけたでしょう」
僕の言葉に父さんは眉をひそめて答えた。
いや、絶対に行ったよ……と言おうとしたけれど、不思議と記憶はぼやけていた。確かに夢だったような気もする。常識的に考えれば、山の中にあんな施設があるはずない。もしかすると滑落した時、僕は頭のどこかをぶつけでもしたのだろうか。
そう考えた時、意識を失う直前に見たものの姿を、僕は唐突に思い出した。銀色に輝く円形の大きな物体――あれは、まさしく。
「確かUFOが」
なおも言おうとした僕の口を、父さんは大きな手でふさいだ。そして、それまで見たこともないような怖い顔で言ったのだ。
「夢だよ。全部夢なんだ。だから絶対に二度と、そのことを口に出しちゃいけない」
僕は言葉を呑み込むしかなかった。父さんが聞こえるか聞こえないかくらい小さい声で、こう付け足したからだ――さもなきゃ殺されるぞ。
十七年の歳月が流れた今でも、その父さんの言葉を思い出すたびに、僕は果てしない森の中を歩き続けているような気がする。
(おわり) |


