遊星ハグルマ装置

第二十八回「赤い月の夜」

 ただっ広い野原の草を、九月の強い風がなぶっていた。
 私は帽子を飛ばされまいと右手で押さえつつ、左手には大ぶりな古い革トランクをぶら下げて、一人、細く暗い道を歩いていた。両手が塞がっているために、バタバタとはためく外套の裾を押さえることもかなわない。
 どうにも、すごい向かい風だ――できれば大樹の陰に身を潜め、風が弱まるのを待ちたいとも思うけれど、あいにく、そんな暇などありはしない。こうして難儀する間にも、汽車の時間は刻々と迫ってきているのだ。
 (いっそ帽子を飛ぶに任せ、トランクも打ち捨ててしまおうか)
 そう思わないでもなかったが、やはり、できぬ相談であった。
 この帽子は、私を私たらしむる大切なもの、トランクの中に収められた詩稿は、私が人生かけて書き溜めた命同然のもの――捨てて行くくらいなら、いっそ汽車に乗り遅れる方を選ぶ。
 それにしたって鉄道屋というものは、どこの世界でも融通が利かぬものだ。時間通りにたどり着き、時間通りに発車させることを金科玉条にしている。おかげで私は愛しい息子とはぐれたまま、さんざん寂しい思いを強いられた。あの時は本当に、鉄道屋なんぞ此の世から、ただの一人もいなくなっちまえ……と思ったものだが、どうやら息子を迎えに行く算段がついたから、今はそれほど恨んでもいない。怨嗟だの愚痴だのからは何も生まれはしないことを、私なりに学んだつもりだ。
 私はできる限りの急ぎ足で、右手で帽子を押さえ、左手に革トランクを下げたまま、夜の野原を歩き続けた。すると途中で、前方に何やらボンヤリとした明かりが見えた。何かと思いつつ近付くと、何のことはない、着物姿の中年男が手にした提灯であった。
 「やっ、これはどうも」
 男は背後から近付く私に気がつくと、雪駄履きの足を止めて振り返った。人の良さそうな顔をしていたけれど、下からの提灯の明かりで、どことなく亡者めいて見える。
 「もしかすると、今夜の汽車に乗る方ですか」
 「そうです……あなたも?」
 男の言葉に答えつつ、私は問いかける。
 「えぇ、まったく急な話なんですけどね」
 「誰にとっても急ですよ。もっとも、私は何となく予感していましたが」
 道は一本――わざわざ別れる理由もないので、私は男と連れ立って歩く。
 「それしても、すごい風です。おかげで虫の声も、まったく聞こえませんな」
 男も向かい風に顔をしかめ、それでも余裕ありげな口調で呟く。確かにいつもなら、この時分には鳴き狂っている秋の虫たちの声も、まったく響いていなかった。風に飛ばされまいと、ギザのついた足で草にしがみつくのでいっぱいなのであろうか。
 「どのみち連中は、月の良い晩ばかりを選んで歌うものですよ。リィリィリィだのルルルだのと鳴くのは、恋の歌ですからね。こんな……赤インクで染めたような月では、女を恋うる気にもならんのでしょう」
 私が答えると、男は感心したように言った。
 「なるほど、あなたのおっしゃるとおりだ。なかなかの詩人ですな」
 「まぁ、詩はきらいではありません」
 私は自分の名を告げようかとも思ったが、それは控えた。物好きの間には少しばかり知られた名とは言え、この中年の男が知っているとは限らない。意気揚々と名乗って、ハテ残念ながら存知あげません……などと言われたら、やはり楽しくない気分になってしまうだろう。
 「不躾ですが、あなたは、おいくつですか」
 「三十歳ですよ」
 「なるほど、ちょうど私と一回り下ですか……いろいろ心残りも、おありでしょうに」
 「ないといえば、嘘になりますけどね。こうなっては仕方ありません」
 ちょうど私は大切な仕事をやりかけているところで、正直に言えば、ノンビリと汽車の旅に出ている場合ではなかった。けれど男に答えたとおり、こうなってしまってはやむを得まい。どこの世界でも、鉄道屋というのは融通が利かないのだから。
 「おや、何やら声がしませんか」
 しばらく赤い月を眺めながら野原を歩いていると、ふと男が立ち止まって言った。
 「何だか……子供の泣き声のような」
 耳を澄ませてみると、確かに凄まじい風の間に、オロオロと泣く声が聞こえる。まだ年端も行かぬ女の子のようだ。私と男があたりを見回すと、一本道を少し外れたところに、桃色の着物を着た子供が、石のように身を丸めていた。
 「お嬢ちゃん、こんなところでどうしたんだい」
 男は提灯をかざし、優しい口調で声をかけた。女の子は顔を上げると、まぶしそうに顔をしかめた。まだ六歳くらいだが、きれいに髪を編んでいた。
 「迷子になったのかい? お父さんとお母さんは?」
 男の言葉に、女の子はしゃくりあげながら答えた。
 「私、一人で来たの。汽車に乗らなくっちゃいけないんだけど、とこが駅なのか、ちっともわからなくって」
 「あぁ、それは無理ないことだ。あの汽車は空からフゥッと降りてきて、そのまま野原に止まるんだからね。駅が見えないのは当り前さ」
 その言葉に、私もまた納得した。ただ汽車に乗るという意識だけがあって、駅のことなど考えていなかったけれど――なるほど、私の乗る汽車は、そういうものなのか。
 「おじさんたちも、その汽車に乗るところだから、いっしょに連れて行ってあげよう」
 男が言ったので、女の子はようやく泣きやんだ。けれど、この子の父母は、それ以上に泣いているであろうと私は思った。私にも覚えがある。
 「さぁ、暗いから、おじさんと手を繋ごうね」
 けれど男が差し出した手を、女の子は握らなかった。そのかわりに、古い革トランクを提げている私の左手に、その冷たい掌をのせている。
 「やぁ、小さくっても、女の子だな。私より、こっちのお兄さんの方がいいのかい。やれやれ、仕方ないねぇ」
 ひとしきり笑うと、男は私に手を差し伸べた。自分が革トランクを持つから、かわりに女の子と手を繋いでやってくれ……と言うのだ。
 「何だか、申し訳ありませんね」
 その申し出を受けてトランクを男に預けると、私は幼い女の子の手を取った。祖の小さな手で、女の子は私の手をギュウッと握った。
 「いやいや、いいんですよ。この子の望む通りにしてあげましょう」
 私たちはそれから、赤い月の赤い光に照らされながら、風の吹く野原をどこまでも歩いた。いくら歩いても月は同じ場所にあって、昇りもせず沈みもしなかった。
 ときどき手を繋いでいる女の子の顔を見ると、そのたびに女の子はニッコリと笑った。それを何度となく繰り返しているうちに、ふっと気付いた――きっと、この子は、若い方がいいから私と手を繋いだのではなく、私の方が男より寂しそうに見えたから、手を繋いでくれたのだろう、と。
 「あぁ、来ました来ました。汽車ですよ」
 やがてススキが生い茂る野原の真ん中で、男が空を指差して言った。
 「あれが、銀河鉄道です」
 やがて汽車は、赤い月の左側を掠めるように高い空から降りてきて、野原の真ん中で止まった。
普通ならば奇怪な現象だと感じるのだろうが、私は何とも思わなかった。それに乗るためにやって来た私が、不思議がってどうすると言うのだ。
 開いた入り口から女の子を乗せ、さらにトランクを持ってくれている男を乗せ、最後に私が乗った。男は私の腕を引っ張り上げてくれながら、小さい声で言った。
 「大丈夫ですか、中原さん」
 「何だ……私の名をご存知だったんですか」
 私は少し意外に思った。
 「いやぁ、『山羊の歌』には感心しました。毎日のように読んでいましたよ」
 その言葉は、私に深い喜びを与えた。たった一冊――私が世にあるうちに世に問うた、たった一冊の私の詩集。
 「そうですか……そう言っていただけると、うれしいです。けれど、あの本の好意的な評判を聞くと、残念にもなりますね。ちょうど今、『在りし日の歌』という、新しいものをまとめていたところだったんで」
 「それは惜しい」
 人気のない客車に私と並んで入りながら、男は言った。
 「どうです、それぞれの駅に着くまで、その本の話をしてくださいませんか」
 「もちろん喜んで」
 私と男が向い合わせに座ると、さっきの女の子が、当り前のように私の隣に腰を降ろした。
 やがて汽車は動き出し――窓の外に見えていた赤い月は、いつしか私たちの眼下に消えて行った。


(おわり)

著者プロフィール

朱川湊人(しゅかわ・みなと)
1963年、大阪府出身。
出版社勤務を経て、2002年「フクロウ男」でオール讀物推理小説新人賞を受賞してデビュー。2003年 「白い部屋で月の歌を」で日本ホラー小説大賞短編賞を受賞。
2005年『花まんま』で第133回直木賞を受賞。
著書に『さよならの空』『わくらば日記』(以上角川書店)、『いっぺんさん』(実業之日本社)『スメラギの国』(文藝春秋)などがある。
笹公人(ささ・きみひと)
1975年、東京都出身。
17歳の頃に寺山修司の短歌を読んだことがきっかけで作歌をはじめる。
2003年、処女歌集『念力家族』(インフォバーン)を刊行。
04年、未来年間賞を受賞。主な著作に『念力姫』(KKベストセラーズ)、『念力図鑑』(幻冬舎)、『抒情の奇妙な冒険』(早川書房)、『笹公人の念力短歌トレーニング』(扶桑社)がある。
公式HP:http://www.uchu-young.net/sasa/

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