ただっ広い野原の草を、九月の強い風がなぶっていた。
私は帽子を飛ばされまいと右手で押さえつつ、左手には大ぶりな古い革トランクをぶら下げて、一人、細く暗い道を歩いていた。両手が塞がっているために、バタバタとはためく外套の裾を押さえることもかなわない。
どうにも、すごい向かい風だ――できれば大樹の陰に身を潜め、風が弱まるのを待ちたいとも思うけれど、あいにく、そんな暇などありはしない。こうして難儀する間にも、汽車の時間は刻々と迫ってきているのだ。
(いっそ帽子を飛ぶに任せ、トランクも打ち捨ててしまおうか)
そう思わないでもなかったが、やはり、できぬ相談であった。
この帽子は、私を私たらしむる大切なもの、トランクの中に収められた詩稿は、私が人生かけて書き溜めた命同然のもの――捨てて行くくらいなら、いっそ汽車に乗り遅れる方を選ぶ。
それにしたって鉄道屋というものは、どこの世界でも融通が利かぬものだ。時間通りにたどり着き、時間通りに発車させることを金科玉条にしている。おかげで私は愛しい息子とはぐれたまま、さんざん寂しい思いを強いられた。あの時は本当に、鉄道屋なんぞ此の世から、ただの一人もいなくなっちまえ……と思ったものだが、どうやら息子を迎えに行く算段がついたから、今はそれほど恨んでもいない。怨嗟だの愚痴だのからは何も生まれはしないことを、私なりに学んだつもりだ。
私はできる限りの急ぎ足で、右手で帽子を押さえ、左手に革トランクを下げたまま、夜の野原を歩き続けた。すると途中で、前方に何やらボンヤリとした明かりが見えた。何かと思いつつ近付くと、何のことはない、着物姿の中年男が手にした提灯であった。
「やっ、これはどうも」
男は背後から近付く私に気がつくと、雪駄履きの足を止めて振り返った。人の良さそうな顔をしていたけれど、下からの提灯の明かりで、どことなく亡者めいて見える。
「もしかすると、今夜の汽車に乗る方ですか」
「そうです……あなたも?」
男の言葉に答えつつ、私は問いかける。
「えぇ、まったく急な話なんですけどね」
「誰にとっても急ですよ。もっとも、私は何となく予感していましたが」
道は一本――わざわざ別れる理由もないので、私は男と連れ立って歩く。
「それしても、すごい風です。おかげで虫の声も、まったく聞こえませんな」
男も向かい風に顔をしかめ、それでも余裕ありげな口調で呟く。確かにいつもなら、この時分には鳴き狂っている秋の虫たちの声も、まったく響いていなかった。風に飛ばされまいと、ギザのついた足で草にしがみつくのでいっぱいなのであろうか。
「どのみち連中は、月の良い晩ばかりを選んで歌うものですよ。リィリィリィだのルルルだのと鳴くのは、恋の歌ですからね。こんな……赤インクで染めたような月では、女を恋うる気にもならんのでしょう」
私が答えると、男は感心したように言った。
「なるほど、あなたのおっしゃるとおりだ。なかなかの詩人ですな」
「まぁ、詩はきらいではありません」
私は自分の名を告げようかとも思ったが、それは控えた。物好きの間には少しばかり知られた名とは言え、この中年の男が知っているとは限らない。意気揚々と名乗って、ハテ残念ながら存知あげません……などと言われたら、やはり楽しくない気分になってしまうだろう。
「不躾ですが、あなたは、おいくつですか」
「三十歳ですよ」
「なるほど、ちょうど私と一回り下ですか……いろいろ心残りも、おありでしょうに」
「ないといえば、嘘になりますけどね。こうなっては仕方ありません」
ちょうど私は大切な仕事をやりかけているところで、正直に言えば、ノンビリと汽車の旅に出ている場合ではなかった。けれど男に答えたとおり、こうなってしまってはやむを得まい。どこの世界でも、鉄道屋というのは融通が利かないのだから。
「おや、何やら声がしませんか」
しばらく赤い月を眺めながら野原を歩いていると、ふと男が立ち止まって言った。
「何だか……子供の泣き声のような」
耳を澄ませてみると、確かに凄まじい風の間に、オロオロと泣く声が聞こえる。まだ年端も行かぬ女の子のようだ。私と男があたりを見回すと、一本道を少し外れたところに、桃色の着物を着た子供が、石のように身を丸めていた。
「お嬢ちゃん、こんなところでどうしたんだい」
男は提灯をかざし、優しい口調で声をかけた。女の子は顔を上げると、まぶしそうに顔をしかめた。まだ六歳くらいだが、きれいに髪を編んでいた。
「迷子になったのかい? お父さんとお母さんは?」
男の言葉に、女の子はしゃくりあげながら答えた。
「私、一人で来たの。汽車に乗らなくっちゃいけないんだけど、とこが駅なのか、ちっともわからなくって」
「あぁ、それは無理ないことだ。あの汽車は空からフゥッと降りてきて、そのまま野原に止まるんだからね。駅が見えないのは当り前さ」
その言葉に、私もまた納得した。ただ汽車に乗るという意識だけがあって、駅のことなど考えていなかったけれど――なるほど、私の乗る汽車は、そういうものなのか。
「おじさんたちも、その汽車に乗るところだから、いっしょに連れて行ってあげよう」
男が言ったので、女の子はようやく泣きやんだ。けれど、この子の父母は、それ以上に泣いているであろうと私は思った。私にも覚えがある。
「さぁ、暗いから、おじさんと手を繋ごうね」
けれど男が差し出した手を、女の子は握らなかった。そのかわりに、古い革トランクを提げている私の左手に、その冷たい掌をのせている。
「やぁ、小さくっても、女の子だな。私より、こっちのお兄さんの方がいいのかい。やれやれ、仕方ないねぇ」
ひとしきり笑うと、男は私に手を差し伸べた。自分が革トランクを持つから、かわりに女の子と手を繋いでやってくれ……と言うのだ。
「何だか、申し訳ありませんね」
その申し出を受けてトランクを男に預けると、私は幼い女の子の手を取った。祖の小さな手で、女の子は私の手をギュウッと握った。
「いやいや、いいんですよ。この子の望む通りにしてあげましょう」
私たちはそれから、赤い月の赤い光に照らされながら、風の吹く野原をどこまでも歩いた。いくら歩いても月は同じ場所にあって、昇りもせず沈みもしなかった。
ときどき手を繋いでいる女の子の顔を見ると、そのたびに女の子はニッコリと笑った。それを何度となく繰り返しているうちに、ふっと気付いた――きっと、この子は、若い方がいいから私と手を繋いだのではなく、私の方が男より寂しそうに見えたから、手を繋いでくれたのだろう、と。
「あぁ、来ました来ました。汽車ですよ」
やがてススキが生い茂る野原の真ん中で、男が空を指差して言った。
「あれが、銀河鉄道です」
やがて汽車は、赤い月の左側を掠めるように高い空から降りてきて、野原の真ん中で止まった。
普通ならば奇怪な現象だと感じるのだろうが、私は何とも思わなかった。それに乗るためにやって来た私が、不思議がってどうすると言うのだ。
開いた入り口から女の子を乗せ、さらにトランクを持ってくれている男を乗せ、最後に私が乗った。男は私の腕を引っ張り上げてくれながら、小さい声で言った。
「大丈夫ですか、中原さん」
「何だ……私の名をご存知だったんですか」
私は少し意外に思った。
「いやぁ、『山羊の歌』には感心しました。毎日のように読んでいましたよ」
その言葉は、私に深い喜びを与えた。たった一冊――私が世にあるうちに世に問うた、たった一冊の私の詩集。
「そうですか……そう言っていただけると、うれしいです。けれど、あの本の好意的な評判を聞くと、残念にもなりますね。ちょうど今、『在りし日の歌』という、新しいものをまとめていたところだったんで」
「それは惜しい」
人気のない客車に私と並んで入りながら、男は言った。
「どうです、それぞれの駅に着くまで、その本の話をしてくださいませんか」
「もちろん喜んで」
私と男が向い合わせに座ると、さっきの女の子が、当り前のように私の隣に腰を降ろした。
やがて汽車は動き出し――窓の外に見えていた赤い月は、いつしか私たちの眼下に消えて行った。
(おわり) |


