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 わたしはヤクザに埋められた土のなかにいた。息がつけず、台所の隅で潰れている固形ブイヨンみたいに、このまま誰にも知られず腐っていくんだ。顔の上には土砂が重い水枕のように載っている。でも、まだ頭は妙にはっきりしていて<ああ、人ってこんな風に死んでいくんだ……そうか、そうだったんだ……>なんて、ぼんやり思ったりしていた。本当はもっとはっきりとを考えても良かったんだけど、そうすると折角、襖一枚、隔てて避けてあった<物凄く怖い絶望>が境を破って、こっちに雪崩れ込んできそうなので、あまり考えすぎないようにしていた……って、こんな風に気持ちをコントロールできるのも今、初めて知った。
 きっと、わたしは失敗したんだ。
 頭はスコップで割られてしまったんだろうな……と、そこまで考えたとき、自分はもしかしたら一旦死んでから、こうしていろいろ考えているんじゃないだろうかっていう最悪の考えを掘り当ててしまった。死んで終わり、そうしたら苦しくなくなるはずなのに。もし既に死んでいるのに、こんな風にまた色々気づいてしまっているのだとしたら、このままずっと埋まって腐っていくのを、まるごと味わってなくちゃならないジャン。そしてそして、腐ってずるずるになっていくのに、それでも意識があり続けたらどうする。転生とか、生まれ変わりとか、それすらできないまま、何年もミミズとか鼠の団地になったりしているのは耐えられない。
 思わず助けを呼ぼうとしたけれど、口が開かない。そうこうしているうちに、足に鈍い痛みが走った。何かが囓っているんだ。足も動かない。痛みだけ、痛みの感覚だけが生き残っているから、こうしてただ囓られていくんだ。
 ……こんなのがわたしの最期の瞬間なの。

 ほーっ、と長い吐息が唇を抜けていくのがわかった。
 目を開けると照明が眩しかった。腕で明かりを避け、顔を持ち上げると、倒れたわたしの足下に男が蹲(うずくま)っていた。またピリッとした痛みが走った。
 <えっ>と声にならない声を上げると葉巻を横ぐわえにした男が振り向いた。
 その顔には、興味のない時代劇を散々見せられたような退屈がへばりついていた。
 男の名は――ボンベロ――だと、思い出した。
 「ああ、わたし、どうしちゃったんだろう……」
 「なんだ生きてたのか」
 ボンベロは葉巻を摘み、立ち上がるとズボンの腰の辺りで手を払った。
 「はい。生きてますね」
 「棒っ切れのように倒れたから、てっきり卒中か何かで死んだと思った。若くても、死ぬときはあのように死ぬ。生きてるなら働け」
 「わかりました」
 「そこの道具をバックヤードの棚に戻しておけ。終わったらシャワーを浴びろ。小便が乾いて、腐ったメロンのような臭いがするぞ。死んでれば良かったのにと思いたくなる」
 「ごめんなさい」
 ボンベロはカウンターの向こうへと入っていった。
 刃でも当てられたのか、膝小僧の下に一本、横線が走っていて、そこから薄く出血していた。傍に黒いビニール袋とペンチ、糸鋸、ステーキ用の包丁があった。
 「小さくしようと思ったんだが、呻いたんで様子を見ていた」
 カウンターに載せられた角瓶のなかのピクルスをチェックしながらボンベロが言った。
 「小さく……」
 「おまえだと、三分割以上にしないと手提げバッグに入らない。丸ごと運び出すには金がかかるからな。女の首と胸とあそこは欲しい奴がいるかもしれないから残しておくにしてもな……」
 わたしは詳しく話を聞くのは止め、立ち上がると道具を抱えて奥へ向かった。
 店とバックヤードは厚い木製のドアに仕切られていて、ドアの真ん中には舷窓のように縁を金属で飾られた丸硝子が填め込んであった。入ると、中はセメントが剥き出しの壁に囲まれ、左手に棚が並んでいた。一番下に工具類が載っていた。私はそこに、自分に使われるはずだったらしい糸鋸とペンチを置き、傍らの箱からはみ出していた黒ビニールの上にビニールを置き、残った包丁の場所を探したが、包丁が並んでいる場所は見つからなかった。
 振り返ると、舷窓はこちらからだけ覗くことのできるマジックミラーになっていた。
 わたしはホールに戻るとボンベロに声を掛けた。
 「包丁の置き場がわかりません」
 「投げろ」
 ボンベロは手元でハンバーガーのバンズと黄色いものの詰まった瓶を並べていた。
 「え」
 「投げろ。思い切り」
 わたしが動けずにいると、ボンベロは顔を上げた。その顔には何の表情も浮かんでいなかった。ボンベロはカウンターの向こう、わたしはカウンターの手前。距離は三メートルと離れていない。
 わたしは混乱した。
 何か絶対安全なトリックがあるはずだ。でも、それが何なのか全く想像できなかった。
 「怖いのか。オオバカナコ」
 ボンベロは、わたしを見るとニヤリと嗤(わら)った。
 「そんなことをすれば、あなたはわたしに仕返しするわ」
 「しない。なぜなら、おまえは単に俺の命令に従っただけだからだ」
 ボンベロは、瓶を開けると中のマスタードをバンズに塗り始めた。
 わたしは包丁を見た。刃先が銀色に光っていた。柄までステンレスでできたそれは、見た目よりもずっと持ち重りがしていた。こんな距離で投げつければ、死なずとも大怪我くらいするはずだ。
 「命令に従わないのか。此の俺の命令に。此の店の中で……」
 ボンベロは失望と苛立ちがないまぜになった口調に変わった。
 わたしは足を肩幅に開いた。
 投げろというのだから投げるしかない……。腹を決めた。
 「やるよ」
 「Bitte(ビッテ)……どうぞ」
 ボンベロはこちらを見ることもなく答えた。まるで興味がないといった感じだった。
 わたしは包丁の柄を握って振り上げた。
 「本当にいくよ」
 わたしは此方を向こうとしないボンベロを振り向かせようと声を張った。
 しかし、ボンベロは相変わらず、バンズに集中していた。
 その不敵な横顔を見つめていると、一瞬、と重なった。
 気がつくと、ボールを投げるように腕が弧を描いていた。
 ぶんっとボンベロが揺れた。
 ――最後まで彼はわたしを見なかった。それだけはハッキリ言える。ボンベロはわたしが投げ始めたときも、投げ終わったときも、目は手元へ向けていた。でも、上半身、特に肩と右腕だけは、別の生き物みたいに動いたんだ。
 信じられなかった。
 包丁は、ボンベロの右手に握られていた。柄をきちんと掴んでいた。
 象のあそこからミサイルが出て、それに直撃されたような気分。見たことを信じられない時の感じ――そう、脳が俄雨(にわかあめ)になってた。
 「シャワーを浴びろ」
 わたしの動揺などお構いなく、ボンベロは台の上に包丁をカチリと置き、バンズにレタスとスパムを挟んだものを口に運び始めた。
 わたしは返事も忘れ、ぎくしゃくと躯を動かした。
 「おい」
 「はい」
 角を曲がったとき、声がした。
 「死にたくなったら俺に言うんだ。自分でやるより楽に逝かせてやる。従業員向けサービスだから金は要らない」
 その声にジョークが混入している気配は、一ミリもなかった。
 また軽い眩暈(めまい)が始まった。

- f -


 シャワーブースは、出入口を除く三方がブリキ色の鉄板で囲まれている殺風景なものだった。壁には石鹸と男物のシャンプー、リンスが擦り布とともに入った箱が取り付けてある。排水口だけが大きく、いやに目立っていた。シャンプーを使っていると、髪にこびり付いていた砂利に触れた。わたしは、自分の足下で吸い込まれていく湯を、ぼんやり見つめた。自分が今、此処でこうしていることが信じられなかった。
 いつも通り、自分の部屋のベッドに潜り込んだ時には想像もしなかった不幸な渦の真っ直中にいるのだと思った。躯のあちこちが痛み、疼(うず)いていた。肩がうまく上がらず、背中を洗うのに苦労した。
 ドアの向こうで、不意に声がした。
 わたしは反射的に声のほうに背中を向け、黙っていた。
 『服を置いておく。着替えるんだ』
 それだけ言うと、影は立ち去った。
 ボンベロはドアを開けようとはしなかった。出入のアコーデオン式ドアには鍵がなく、開けようと思えば簡単に開けられた。つまり、ボンベロは見ようと思えばわたしの裸を眺めることができたんだ。でも、奴はそれをしなかった。
 外には籠があり、ケーキのようにふかふかの白いバスタオルと青い作業着があった。脱いだはずのわたしの服は靴ごと消えていた。かまわない。どうせ、おしっこまみれ、泥まみれだったんだ。用意されていたスニーカーは少し大きかったけれど、履けないことはなかった。

 「こっちに来い」
 カウンターの後ろにある調理場にいたボンベロが手招きし、わたしを流し台の前に呼んだ。
 シンクのなかに皿とカップが沈んでいるのが見えた。
 「まず、おまえがするのは掃除だ。流しから始めろ。道具は下の物入れにある。スポンジだけは使い捨てにして良い」
 わたしは頷いた。
 「いいか、全て舐められるぐらい、きれいにするんだ。忘れるな。それがおまえの掃除の基本だ」
 物入れから洗剤とスポンジを取りだし、流しに手を入れると、皿が三枚、カップが五つ、グラタンなどに使う深皿がひとつでてきた。
 「あれも忘れるな」
 ボンベロはコンロの上の寸胴鍋を指差した。
 掃除は苦手だったが、人が少しずつ解体されるのを見て悲鳴を堪えたり、土の中に埋められて死んでいくのを待つより、ずっと楽なような気がしていた……まさか、それが延々と続く掃除オリンピックの始まりだとは予想もしなかった。

 ボンベロは<命令のプロ>だった。
 彼は常にわたしを監視し、全力を出させるよう、要所要所で調整し、注意し、脅した。
 調理場はコンパクトだが、実に機能的な配置になっていた。ホールを正面にして右手の壁に業務用の冷蔵冷凍庫があり、その横に焼き物を扱うコンロ、グリル、グリドル(畳一畳ほどの広さの鉄板で、ボンベロは此処を新品同様に磨き上げていた。わたしが「グリルですね」と言うと、一瞬、目に冷たい殺意を浮かべ、それが低周波のIH式鉄板であり、業者は鉄の宝石と呼んでいたと告げ、さらには上から火を当てるものを「グリル」、下から当てるものを「グリドル」というのだと呆れたように説明して見せた。わたしはそれを聞きながら、此処だけは念入りに磨こうと決意した)、フライヤーが並び、反対側には作業台、食器棚、調味料入れなどがあった。素人が見ても、ボンベロがグリドルの前に陣取る時、躯を前後左右に回転させるだけで料理の大半は準備できてしまう配置になっているのがわかった。
 機能美は味に繋がると――テレビでミシュランの三つ星を貰った店のシェフが悟ったように答えていたのを思い出した。ボンベロもあのシェフと同族なんだ。
 ボンベロはわたしを、皿から調理器具、そして厨房機器、床、壁の順番で使った。それは全く大したもので、手が汚れるに従って客の口から遠くなるように誘導していたのだった。
 わたしの筋肉は限界を迎えていた。
 皿を洗い、鍋の奥に手を突っ込み、禅の修行僧が糠袋で堂の縁を磨くようにグリドルを擦り続けている間、ボンベロは姿を消す。しかし、何かトラブル――皿を落としそうになる、鍋の底と壁の際が巧く洗えない、グリドルに磨き粉を落としすぎた――があると背後から手を伸ばし、指図した。驚いたのは、この掃除オリンピックの間中、わたしは一度もボンベロの近づく気配を察知できなかったことだった。勿論、こっちだって寝ずにやっているし、体力と気力の限界はとっくに過ぎているような状態だったので、脳味噌がいつの間にか停電していたのかもしれないけれど、それでも凄いと思った。なんかの本で読んだけど、生き物にはその種独自の縄張りみたいなものがあって、そこに他者が入り込むのを良しとしない。要は、その距離から攻撃されたら防ぎきれないが故の最低ラインの確保なんだけど。その限られたエリアに対する警戒能力というのは相当なものがあるそうだ。人間というのは社会生活を営むうちに、その縄張りは自分を中心にしてたかだか四、五十センチと信じられないぐらい狭くなってしまったそうなのだけれど、それでも、そこに他人の気配がすると本能的に察知できるって聞いた。
 でも、ボンベロはいとも簡単にそんなものを無効にして迫ってきた。

 「その皿は一枚、二十万する」
 流しから一枚取りあげ、宙で左手から右手に持ち替えようとした瞬間、皿はわたしの親指の付け根、掌の膨らみの辺りでスクイズを狙う三塁ランナーのように指の圧を離れ、胸元へ滑り込んできた。咄嗟に掴もうとしたが遅かった。わたしは、皿が床の排水口の柵に激突し、派手な音を立てるのを覚悟した。が、そうはならなかった。横にいたボンベロが捕まえてくれていたのだ。その時にボンベロが呟いたのが、先の台詞だった。
 「ここに在る物は全て、おまえが今まで買ってきた同等品のおよそ数十倍の値段はすると思ってくれて良い。勿論、そんな風には見えないだろう。俺はそのようには見えない物、しかし、その実、きちんと対価分は機能する物を厳選したのだ。これは他の物同様に銀食器で(と、ボンベロは人差し指ほどのフルーツフォークを取りだした)おまえが今までに買ったどんなバッグよりも値段がする……。だが、問題はそこではない。ここにあるものは程度の差こそあれ、全てが相応の歴史を持っているということだ。俺は、おまえが手にしているディナー皿がいつ、どんな時に使われていたのか思い出すことが出来るのだ。底に小さな欠けがあるはずだ」
 あった。
 ボンベロは<よろしい>というようにゆっくり頷いた。
 「それは”二丁目”と呼ばれていた男が銃の上に載せた為に付いた傷だ。彼は引き金を押すのにその皿を勝手に使ったのだ。そういう無粋な客が混じる時代もあった。その皿の上には、奴の薄汚い、ジャムをかけた白子のような頭蓋の中身がこんもり積もっていたのだ。それはおまえ専用の皿にすると良い」
 ボンベロがいなくなると、わたしは皿の表面をもう一度念入りに洗うことにした。

- g -


 時計を見る余裕がなかったから、自分が何時間、ぶっ続けで働いたのか見当もつかなかった。確か厨房の床をデッキブラシで擦り上げていた頃、腕の筋肉がうまく動かなくなったので、限界を感じるたびに凝った場所を叩いて騙し騙し使うことにした。その後、ホールと奥のトイレ掃除を始める頃には、背中から腰に掛けての部分が鉄板を入れたようになってしまい、小腰を屈めることさえできなくなっていた。関節を曲げ伸ばしするたびに段ボールを捻るような音が躯の中から聞こえた。
 相変わらず、ボンベロは亡霊のように出たり、消えたりしていて、わたしは全く気を抜くことが出来ずにいた。
 <スワレ>
 カウンター越しにホールにいるボンベロが声を掛けてきた時も、一瞬、何を言われたのかわからなかった。もう、頭の中にブドウ糖が一滴も残っていなかったんだろう。
 「座れ」
 ボンベロがホールのテーブルについているのを見て、ようやく自分が何を命じられているのか理解した。
 テーブルには皿がふたつ。ボンベロは、干し肉とオリーブのオードブルのようなものを摘んでいた。傍らには琥珀色(こはくいろ)の液体が入ったタンブラーが置かれていた。前の席に座ると、彼は葉巻を取りだした。今度は新品のようで、シガーカッターで先端を切ると軸の長いマッチで炙り始めた。
 わたしは、ボンベロが良いと言うまで皿には手を付けなかった。はっきりした証拠はなかったけれど、これがさっき自分用にされた皿かと思うと、あまり食欲が湧いてこなかった。皿の上にはパンの耳が四切れ載っていた。脇にはプラスチックのピッチャーに入ったオレンジジュースと、水滴の着いた氷入りのグラス。
 「食べろ」
 葉巻に火の回ったボンベロが綿菓子のような煙を喋りながら吐いた。
 わたしは黙って皿を見つめていた。
 その時、初めてチッチッ……という音に気がついた。カウンターの上、天井の梁に近い部分に頑丈そうな木製の時計が掛かっていた。針は二時半を差そうとしていた。しかし、それが昼なのか夜なのか、此処では見当もつかない。
 「時計は気にするな。今のおまえには意味がない」
 「はい」
 「喰え」
 「はい」
 わたしはパンの耳を千切ると口に入れた。かさかさに乾いていて、味のないクッキーのようにつまらなかったし、オレンジジュースがなければ飲み込めない代物だった。仄かに黴の臭いもしていた。
 ボンベロの目がわたしに向けられた。
 「うまいか」
 「はい(うまいわけがない)」
 「それがおまえの報酬だ。今の仕事では、それ以上の料理には値しない」
 わたしは頷きながら、パンの耳を噛んだ。うまいとも思わなかったし、お腹が減っているわけでもなかったけれど、なんだかそんなことでもしていなければ〈休憩〉を取りあげられてしまいそうだった。
 ボンベロは無言のまま、わたしに目を遣り、自分の指先に目を遣り、ホールの隅にある年代物のジュークボックスに目を遣ったりしていた。
 わたしは小一時間かけてパンの耳を三つ、胃袋にしまった。オレンジジュースは四杯。最後の一杯は、足がパンパンで立ち上がる自信がなかったから、時間稼ぎに無理して飲んだ。
 おかげで喉が妙に甘ったるく、乾いて困った。

 ホールのテーブルを拭いていると奥から呼ばれた。
 ボンベロが客用トイレの前に立っていた。この店には男女の別がなく、ひとつの小便器と大便器が備えられていた。わたしが掃除するまでもなく、そこは隅々まで清められていた。だからといって手を抜いたつもりはなかった。
 「此処は済ませたのか」
 「ええ」
 ボンベロは黒いタイルの床を進むと大便器を指差した。
 「此処もか」
 「はい」
 ボンベロは何も言わなかった。
 わたしは立ったまま背中の毛が焦げつくように、ちりつくのを感じていた。
 自分なりに掃除はした。けれど、徹底的にしたかと言われれば自信がなかった。いま、ボンベロが問うているのは後者のような気が猛烈にしていた。
 「舐めろ」
 「はい?」
 「最初に言ったはずだ。舐められるほど磨けと。済ませたのであれば、舐めろ」
 途端に自分が便器の縁の裏を磨き忘れていたことに気づいた。それに、便座のクッションになっているゴムパッドを拭くのも忘れていた。それに直結されている金属バルブにもブラシを掛けていない。それに……それに……。あまりに完璧に綺麗に見えたのでそのままの方が良いような気がするところは触れずにいたのを思い出した。すると、今まで手がけた部分、床、壁、厨房の食器、ホールの床、テーブルなども、ことごとくボンベロにとっては気に染まない中途半端な仕事を重ねていたように思えてきて、足が震えた。
<舐めろ>と言ったきり、ボンベロは黙っていた。
 本気でそう言っていることは、目を見ただけでわかった。そうなってみて初めて、やはり自分は考え違いをしていたんだなと思った。疲れ切っていたのと、普通のレストランでやるようなことをしていたために、此処がどんな場所であるのか忘れていたんだ。
 此処は外見はダイナーでも、中は交通事故の現場や処刑場となんにも変わらない異常な場所だし、そこを仕切っているこのボンベロという男も同じように異常者なんだ。
 何やら自分の間抜けな油断を指摘されたようで、わたしは自分の馬鹿さ加減がおかしくなった。オオバカナコ、やっぱり、あんたは大馬鹿な子だ。おめでたすぎる。
 わたしはボンベロの顔をもう一度見つめると、大便器の前に膝を突いた。
 目の前のそれはコンクリートでできたペリカンのようだった――こんなに近くで見たことはないけど。
 緩い楕円(だえん)を描いている陶器に手を着くと冷たかった。しゃがんだせいだろうか、消毒剤の臭いがした。白一色の滑らかなものと思っていた表面は意外に凸凹としていた。
 わたしは、どこを舐めれば良いのだろうかと眺めていて、ふと自分の右手の親指に目がいった。
 爪先がそそけたようにヒビ割れ、埃と脂が染みこんで見たこともないほど真っ黒になっていた。
 「舐めないわ」
 わたしは自分がそう言うのを耳にして、内心、動転していた。
 ボンベロは僅かに目を細めただけで露ほども反応を見せなかった。
 「いやよ」
 わたしはなるべく無様にならないように、ゆっくり立ち上がったけれど、足がふらついていたし、顔色だって真っ白だったろうし、唇だって震えていたから、きっと殺されに市場に運ばれていく羊のようだったろうな。

1961年、神奈川県生まれ。いまもっとも注目されるホラー&ミステリー作家。
週刊誌のライター、映画・ビデオの企画・製作、自動販売機の営業、コンビニ店長と、
様々な職歴をもつ。
「独白するユニバーサル横メルカトル」で、2006年推理小説作家協会短編部門賞を受賞。
同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」一位に選ばれた。
近著に『ミサイルマン』(光文社)、『他人事』(集英社)がある。