『トンちゃん』は実に不思議な小説だ。
子どもの頃、「わたし」は自分のことも、お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、家族をみんな「トンちゃん」と呼んでいた。それはぬいぐるみにつけた名前だったのだが、いつしか自分のことも、家族のこともトンちゃんと呼ぶようになってしまう。子どもの「わたし」には、世界はエキストラとセットで出来ているように見えていた。「わたし」の世界は、母役、父役、町のお姉さん役、転び役など、それぞれに与えられた役をこなす「いい加減な従業員」がつくりだす世界。そのうえ、ときどき人が入れ替わるのだ。昨日まで店のおばさんだった人が、きょうは母になる、という具合に。「わたし」は、ぬいぐるみの「トンちゃん」を連れて夜の街を歩く。みんなどこへ行ってしまったのだろうと思いながら。
「わたし」は自分と同じように、世界の中心にいるはずの誰かを待っているのだろうか。エキストラでもなく、与えられた役でもなく、本当に生きているはずの誰かを。
小説の前半は子供時代、後半は大人になった「わたし」の生きる世界が描かれている。ぬいぐるみの「トンちゃん」を捨てて、大人になった「わたし」は、「篠」という不思議な女性の出現によって揺さぶられる。自分が捨てたはずの世界がふたたび立ち現れ、しきりに自分に迫ってくるのを感じるのだ。わたしは何をしたいんだろう? わたしはいったい、何者なんだろう? 問いが問いを呼び、世界は何かを待っていたかのように動き出す――。
開放感にみちたラストシーンを読むと、また最初からこの物語を読みたくなる。なぜだろう、この小説の自由さは、どこから生まれてくるのだろうか。
(聴き手・編集担当・野村浩介)

――『トンちゃん』は初めての小説ですね。この物語はどのように生まれたのですか?

中村 いましろたかしさんのマンガで『ぼくトンちゃん』という作品があります。その中に「やだなあ、150キロ」ってトンちゃんが言うセリフがあるんです。トンちゃんはクマなのですが、兄弟子と念力修行のようなことをしているんですね。大人になったトンちゃんが、兄弟子に体重を聞かれ「やだなあ、150キロ」って答える。それがなんだか、すごく怖かった。トンちゃんは目の玉が黒々としていて、表情がないので、そういう怖さもあるんでしょうけど、なぜこんなに怖いんだろう、そんなことをしばらく考えていました。

――なんで、怖かったんでしょう?

中村 うーん、…わかんない(笑)。とにかく気になっていて、それだけ(笑)。
それで一年くらい前に、姪っ子がうちに泊まりにきていたんです。騒いでいる声が聞こえたらしく、隣のおじさんがゲーセンでとったぬいぐるみを持ってきてくれたんです。「よろしければ、どうぞ」って、3つ。姪はふたりだったので、1つはわたしの分でしょうか? たぶんそういうことでしょう(笑)。せっかくなので、わたしは「たれぱんだ」のぬいぐるみをもらって、それに「トンちゃん」って名前をつけた。ちょうどその頃、「小説を書いてみませんか」というお話を頂いたんじゃないかなあ。なので、思いつき?(笑)そうかなあ、そんな感じです(笑)。


――『トンちゃん』の世界観は、中村さんの子どもの頃の実感と重なっていますか?

中村 自分の目の前に来て転ぶ子どもとか、遠くでずっこけたりする子どもとか、それを見たときに、不思議だった。わたしには自分のために転んでいるというふうに見えたので、なぜそんなことをするんだろうって。で、子どものわたしがどう思ったかというと、「わたしが中心だから」。子どものときは、ただそう思ったんです。自分がいつも中心にいる、そういう世界観ですね。その世界で、その子は転ぶためにいる。子どもの頃って、そういう感覚がありませんでしたか? お母さんもお父さんも町すらも、わたしが生まれたときに、いっしょに生まれたという感じ。わたしに見せるためにみんなの役割が決まっていて、転ぶ子は転ぶ役。そんなふうに思っている。だから、お母さんにも過去があるとか、若かりし頃があって、子どものときがあって――そういうことがまったく想像できなかった。それは自分のなかの記憶と経験がないからですね。『トンちゃん』の世界は、そういう子どもの頃に感じていたことが、ベースにあります。もちろん、大人になってその頃の自分を位置付けて書いているわけですから、大人の側から持ち込んでいるものもあるのですが。

――人がどんどん入れ替わるというユニークな設定ですね。家族すら入れ替わる。この設定はどうして出てきたんですか?

中村 なんでしょうね。子どものときのことを具体的に言えば、たとえば、母親です。同じことをして叱られるときと叱られないときがある。その頃、わたしはお手伝いをする子どもだったので(笑)、よく茶碗を割りました。茶碗を割ると、すごくどきどきした。「お母さんに怒られるのではないか」と、それは怒られた経験から思うんだけれども、その日はなぜか怒られない。そういうときがあるんですね。怒られないどころか、心配されたりする。たぶん「指切らなかった?」みたいなことを言われて、とてもびっくりしました。同じ人間が発した言葉だとは、とても思えない。それと似たようなことは日々ある。それは大人になってみれば機嫌がいいとか悪いとか、ただ、そういうことなんでしょうけど。怒っていたり、いらいらしていたり、すごく優しかったり。なぜそうなるのか、子どものわたしには、わからないんですね。なぜわからないかというと、子どものときは、わたしは自分という存在は一貫していると思いこんでいるから。自分は変らないと思い込んでいる。だから誰かの態度や言ってることがぜんぜん違ったりすると、人が入れ替わったように感じていたんだと思います。
覚えているのは、引越しをしたときのことです。引越しをしたあと、しばらくの間、とても母親の機嫌が悪かったんです。それはなぜかわからないんですけど。父親と喧嘩したとか、買ったばかりの新築の家が気に入らないとか、いろいろ理由はあったのでしょう。とにかく、とても怒りっぽくて、それは、前の家のときの母親と違う。それで、わたしは母に、「前の家のお母さんは…」というようなことを言った。それは覚えています。引越しをして家が変ったら、お母さんが変った、それがとても不思議。その感覚は、もちろん母親に限らず、他の人に対しても感じていたんですが。たとえば、お店屋さんのおばちゃん。わたしが「アイスクリームをくださいな」っていうと「はいどうぞ」っていうときのおばちゃんと、商品を卸しにきたお兄さんに「このアイスは売れないから」って文句を言ってるときのおばちゃん。まるで違う。それが同じ人間のなかに存在するっていうことがとても不思議だった。わたしはつねに「トンちゃん」みたいな感じで、人は一貫していると思い込んでいるから、人が入れ替わっているような気がして、それがとても怖かった。


――冒頭に引田天功がでてきますね。好きですか?

中村 好き! すごい好き!

――なぜそれほど?

中村 なんででしょう(笑)。…とにかく、びっくりした。不思議。引田天功が箱に入って、ぐるぐる手錠を巻かれていて、そこから違う箱にうつるみたいなことをナレーターが言うんですね。「えーどうやってやるんだろう?」ってテレビの前にくぎ付けになりました。「ほんとに違う箱にうつっちゃったよー」もう、引田天功の弟子になろうって真剣に思った。(笑)そしたら後で、プリンセス天功が二代目になったでしょう? 女の人がなったから、なんかちょっとね、あれは自分じゃないかとか思うわけです(笑)。ほんとうに、あの頃、手品師になりたかったんです。当時、わたしはエレクトーン教室に通っていたのですが、大雨の日に手品をやっていたんですね、とてもきれいな女の人がテーブルマジックみたいなことを。それはエレクトーンに通う駅のそばにある西友の前で、やっていました。その人の上には屋根がありましたが、わたしは傘を差しながらみていた。お客さんはあんまりいなかったんですけど、すごくよかった。もう、胸ときめかせるようなマジック、立ち居振る舞いが非常に美しく、子どもにしてみれば、まさに夢のような手品。(笑)それが、目の前で繰り広げられているんですね、大雨の日の、西友の前で。(笑)それで手品師になろうと思って。で、だいぶ大人になったときに、二代目引田天功、プリンセス天功をみたときに、「あ、この人はわたしが駅前でみたあの女のひとだ!」と思ったんですね。そっくりだと思った。そう思い込むほど、西友の前のきれいな女の人のことは覚えています。
手品といえば、『手品のふしぎ』っていう本が家にあって、それをみて、「たねもしかけもありません」って家族に手品を見せたりしたなあ。でも、ほんとうに不思議だと思いません? 手品って。ハンカチから鳩が出る。すっごい不思議! いまでも、すっごく不思議。古典的な手品なんだろうけど、どうしてなんだろうと思う。


―――ほんとに手品、好きなんですね。…話は変わりますが、『トンちゃん』のなかに、15センチの定規がでてきますよね。あれ、すごく面白くて…

中村 え? もうこの話終りですか。いま、あたまの中に鳩が飛んでいたのにーー。(笑)

――もっと話します? 手品の話。(笑)

中村 いえ。(笑)もう充分です。
でも、引田天功はよかったよねえ。(溜息)ああ。引田天功が生きてたら、ぜひ会いたい。会いたいなあ。


――そろそろ、次にいって、いいでしょうか?(笑)トンちゃんの中に15センチの定規の話が出てきますね。15センチのアジが食べたいって、トンちゃんは、徹底的にこだわります。親はどっちでもいいでしょうとイライラする。ああいうところ、すごくわかるなあ。それにしても、子どもはしつこいです。あれは何でしょうね?

中村 ねえ、ほんとにそう。なんでだろう。というか、なんで大人は、ああいうことにこだわらなくなるのか。
たとえば、さっき言った姪の姉妹が、たまにうちに遊びにきます。それで同じモノをあげるとします、たとえば、キティーちゃんのシールとか、人形とか、そういうもの。ところが、印刷の感じが微妙に違っていて片方のキティーちゃんの顔が、ほんのちょっとゆがんでたりする。すると、姪たちはつかみあいの喧嘩になるわけです。(笑)わたしがみると、どっちでもいいじゃんと思うんですけど、必ず、すごい喧嘩になる。でも、子どもがそんなふうに、「どうしてもこれじゃなきゃだめ」っていう感覚は、とてもわかります。わたしだって、ついこないだまで(笑)、そうでしたから。なのに、いつのまにか、そういうことに、こだわらなくなった。それを言い始めると、人間関係が壊れるから、大人はそういうところでこだわらない。たとえば、ケーキをだされて、自分のほうが相手より小さかったりしたら、気に入らないわけですが、わたしはほんとに気に入らない。(笑)わたしケーキ大好きなので――でも、そうは言わない。そういうことを言っていくと、円滑に進まないことが多いから。円滑にすすむっていうことは、長いスパンで人生を考えているから、そうなるんだと思います。


――どういうことですか?

中村 大人と子どもの決定的な感覚の違いって、時間の感覚だと思います。
子どもの頃、ゲームウォッチがとても欲しくて、お年玉で買おうとしたら、もらったお年玉が足りなかったんです。そのとき母が、「来年、またお年玉もらって、買えばいいじゃない」っていったんです。「えっー!?」って驚いた。とても不思議だった。来年のお年玉でそれを買えばいいじゃない…そういう発想がわからない。いまなら、来年っていえばそんなに先だとは思いませんが、そのときは、途方もなく先のことに思えて、「何を言ってるんだろう」って。子どものわたしは、来年なんて言われたら、もう、わからない。(笑)いまなら、「2000年後に買えばいいじゃない」って、言われてるのと同じくらい(笑)、わからない。もちろん、カレンダーでみればわかるんですけど。1月が来て、2月が来てっていう意味では、数字的にはわかるけれども、時間の感覚としてつかめないんですね。子どもは経験が浅いから。一年っていうのは、春が来て、夏が来てっていうことを繰り返さないと、ああ、これくらいの時間なんだという、その実感がわかない。それはあたりまえのことで、5、6歳の子どもなら、ものごころついてから、まだ2回、3回しか「1年っていうもの」を経験してないわけですから。(笑)さらに、その1年っていう感じを、何回も繰り返していくと、それが人生という時間で…となるんだろうけれども、でも、そういう感覚は、子どもにはないんですね。だから、長いスパンでものを考えるっていうことが、子どものときは決定的にない。大人は長いスパンのなかの「ここ」みたいな感じで、いまを捉えられる。子どもはいま、目の前の一瞬一瞬で生きているから、「どうしてもこれ」っていう感覚が強いんじゃないかなあ。これじゃなきゃだめだし、いまじゃなきゃだめってう、そういう感覚。あしただってかなりわかんない。遠いと思う。かなり遠い。
長いスパンでみたら、いまじゃなくてもいいか、とか、そのうちにとか、いろいろ考えられるんですが、そうすると、「どうしてもこれ!」っていうところから、離れていくんじゃないかな。経験があれば、ものを考えるスパンは伸びていく。想像できる時間の幅が長くなる。そうすると、そんなにこだわらずに、まあ、たいしたことないとか思えるわけです。じゃあ、たいしたことが世の中にどれくらいあるのか、子どもに聞かれたら、ちょっと困るんですけど。でも、「たいしたことじゃない」のがたくさんあるのが大人で、子どもにはない。いま、目の前の、ひとつのことがすごく、だいじ。だから、これじゃなきゃだめっていうものがたくさんある。そう思いませんか?
大人は長いスパンで考えるから。それは自由度があって、「ここ」とか、「いま」というものに縛られないですむ。でも、同時に、「いつか」とか、「どこか」というようなものが、直面しているリアルな「生」を奪ってしまうこともあるかもしれない。「いつか」のために、それはまあ、将来ということなのですが、そのために、いまのこの瞬間を、手段のようにして考えることができます。生きている時間を手段化するということ


――ええ。とてもわかります。わたしには6歳の子どもがいますが、いつも同じ本をもってきて、もう一度、もう一度と何度も読ませます。親は、「え? また読むの。あと何回、おなじものを読めばいいわけ?」って思う。でも、きっと子どもにとっては、繰り返しではないんですね。大人は「同じもの」を「繰り返している」と思っているけど、子どもにとってはその都度、「いま」であり、同じではないんだと思います。そのたんびに、すごくどきどきして、楽しそうにしている。すごいなあって思う。大人は一度読んだら、「さっき読んだ」ということが記憶にあって、それに拘束されてしまいます。幅のある時間を生きているから、そんなに「いま」に集中できなかったりする。そういう大人の感覚というのは、さっき中村さんがおっしゃっていた「時間の経験」というのもあるんですが、とくに現代人の時間の感覚について、考えていらっしゃることはありますか?

中村 時間と言ってしまえば、抽象的ですが、わたしがときどき考えるのは、時間とお金の関係でしょうか。

――と、言うと?

中村 働いてお金を稼ぐということが大人である、そういう前提に立つと、いろんなことがそういう発想のもとに動くわけです。わたしは時給でしか働いたことがないのですが、一時間いくら、一年でいくら、それが基準になる。
労働、それは仕事という意味ではなく、賃金労働、それは何かしたことに対して、お金をかわりにもらうでしょう。でも、そもそもお金とは何なのか。あたりまえですが、お金自体は食べられません、紙ですから。しかも、紙ですけど、折り紙としても質がわるい(笑)。だから、それ自体は抽象的なもので、どうしようもないもの。そのもの自体には価値がないのだけれども、約束事として価値を生み得るもの。にもかかわらず、お金は魔法のような力で、生きているもの、「いま」とか、そういうものに影響していきます。それから手元にお金がなくても、通帳に数字が積みあがっていくとか、お金をたくさんもっていて預けるとまたお金になるとか、人に貸してその利子が何パーセントとか、お金が実態のあるもののように、それ以上の意味をもってしまう。生きているということを、それ以外のものと交換することは本当はありえないはずなのに、労働ということになると、生きていることから「時間」という部分を取り出して、お金と交換できるというふうに思ってしまうのかもしれません。もし、そうだとしたら、時間は生きていることそのものだから、生きることそのものを、それ以外のもの――この場合はお金ですが――のために、手段にしてしまうということになる。「いま」を手段にするというのは、生きるということを手段にするということ。手段ということは、目的があるわけで、じゃあ、生きることを手段にしてしまえるような目的は存在するのか。生きることが生きること以外のもののための手段になる? 時間を手段にすれば、けっきょくその時間は生きたものにはならず、子どもが瞬間瞬間を生きているような、そういう生き生きとしたものからは遠ざかってしまうのではないかと思います。


――そうですね。わたしは『トンちゃん』の魅力は、まさに「いま」を生きている、瞬間瞬間を生きている時間のみごとさだと感じています。大人から見れば、「こんなことにこだわって」ということがたくさんあるけれども、でも、どっちが楽しいんだろうとも思う。もちろん、子どもと同じように生きられるわけではないけれども。
ところで、『トンちゃん』には印象的な「ちょい役」がたくさん出てきますね。たとえば、明石屋のおばちゃん。どんなふうに書かれているのかなって、読み返したのですが、このおばちゃんのセリフって、「トンちゃん学校は?」「よいしょ」の二言だけ(笑)。こんだけか、と思いました。それ以外にも、いしやさんなんかもそうだし。そういう人物に対する説明的な文章はほとんどありません。突然あらわれた人物の、ある一瞬を描いている。一見、断片的なようでいて、すごく人を感じるし、世界がわかります。ああ、こういう感じの人だとわかる。それからさっき話に出た、たとえばお母さんとかお父さんを、しょっちゅう入れ替わる人として、瞬間瞬間をばらばらにして描いているのに、わたしにはかえってそれがリアルに感じられました。

中村 わたしは人を想像したときに、あんまり一本の線を引かないというか、引けないんです。まず、自分自身に一本の線を引けない。これがわたしなんだ、これがわたしの中心の線ですというようなものを、引けません。自分をみると、日々気分がかわって、ある日は非常に差別的であったりとか、別の日には非常に、「人のために」みたいなことを考えてみたりとか(笑)、そうなります。すごい強気の日とか、ありません? でも次の日には、ぜったいだめだって落ち込んだりもするし。おばあさんがひとりで困っていたらたすけたいと思うでしょ? そういう想像してるだけで楽しいというか、気持ちがいいのに、次の日は目の前をほんとうにおばあさんが歩いていて、すごいゆっくりだから前に進めなくて、わたしはすごい急いでて、すごいイライラして(笑)。「おばあさん、家にいたほうがいいよ!」とか思うわけ。(笑)それって同じ人間から発しているわけです。たとえば、自分が何らかの差別をうければすごい怒りを感じるわけですよ。人が人を差別したときに、何が働いていて、それをどうしたらいいかと考えている自分はとてもまっとうであるにもかかわらず、平気で差別発言をしている自分もいる。同じ人間のなかに気分で変ったり、真逆のことをいってみたりします。

――そういう意味で言うと、たとえば子どもの頃に読んだ偉人伝のような伝記、ああいうものはかなり太い「一本の線」で、人間を描いていますよね。こういう経験をしたから、こうなって、そしてこうやって、こうなりました、というふうに。

中村 ええ、そうですね。それはまあ、それ以外のところは省いて書くからだろうけれども、それから願いのようなものがあって、それを達成した人だから伝記になっているのでしょうけど。願いのようなものが、ばらばらになりそうな人間のいろんなものを引っ張るということもあるとは思います。それでも、やっぱり人はいつも、常に動いている。どんどん変る。変りつづけている。
『トンちゃん』のなかでは、同じ人が本屋さんになったり、美容師になったりするのは、職業に対する子どもの頃のわたしのイメージがあって、人の気分のようなものが変るのを、職業っていうことにしているんでしょう。ほがらかな気分っていうのは美容師であったり、きょうはちょっと暗い気分って言うとまた違う職業の人だったり。書いているときは意識していませんけど、そういうふうにしてるんじゃないかな。


――『トンちゃん』のなかには、人の名前とか、お店の名前とか、あるいは商品名とか、たくさん出てきますね。そういう、名前がすごく面白かった。商店街は「驫木商店街」で、お茶屋は「宗治郎」、薬屋は「キク薬局」。これは中村さんが命名したお店の名前ですが、その他にも、人の名前でもなんでも、「この感じ、わかるなあ」という名前がたくさん出てくる。あるいは実在する商品の名前も出てきます。たとえば、ミルメークとか。

中村 ミルメークすきです! 特に、いちご味!(笑)
わたしは牛乳に二袋いれて飲みます。
たまらないおいしさ!


――そういえば、原稿書きながら、ミルメーク飲んでるって言ってましたもんね。
それはいいんですが(笑)、お店とか、人とかに、名前をつけるときって、どんな感じなんですか? かなり考える?

中村 うーん、どうだったかな。考えてない…と思います(笑)。書いてるときは、もう、どんどん出てくるから。無意識にでてくる。(笑)『トンちゃん』を書いているときは、すごく楽しかったんです。脳の何かが開く! 夢をみたんですよ。すごい夢。(笑)騒がしいというか、いままでの感覚と違う夢。見たことがない夢で、忘れちゃったな、でも、見終わって疲れてる。そういう夢。想像の世界に入ると、トンちゃんみたいな感じがでてきます。そこに一回入っちゃえば、いろいろ出てくる。

――無意識の命名でしたか(笑)。でも、全体にそんな感じがありますね。いま思い出したのですが、『ひらがな思考術』って言う本のなかで、著者の関沢英彦さんが面白いことを言っていました。創造性についての専門家たちは、まず意識の世界で一心に考えることが大切だという。考えて考えて、もうこれ以上考えられない、そのときに別のことをすると無意識が動く。そのために考えるんだという意味のことを書いていらっしゃいました。無意識も仕事をするんだということですね。

中村 ほーーーーう!

――トンちゃんは、無意識の世界が生き生きと解き放たれた小説のように感じますね。わたしはたぶん30回以上読んでいますが、読むたびに面白いです。中村さんご自身が、言ってましたね。ゲラで読んで、仮綴本で読んで、本になって読んで、いつも感想が違うって。それで、いまでもよく読んでいるわけでしょう(笑)、『トンちゃん』を。

中村 ええ(笑)。無意識…ああ、だから発見があるんですね。

――今回、『トンちゃん』をつくっている過程で、いろんな人と話をしました。編集部内でも読みまわしたし、販売の人間にも読んでもらった。それ以外にも、いろんな方々に読んでもらって感想を聞いた。それがとても面白かった。たとえば、販売部の担当には、「こういう本をだすんだけど」と説明しなくちゃいけないですよね、売ってもらうには。商談とかもあるし。でも、説明しにくい本なんです。それは売ることを考えるとかなりやばい。でも、なんとか説明しようとするんですが、最後は「とにかく、読んでみて」となる。それで読んでくれた人のうちに、販売のSさんという人がいました。でね、Sさんは読み終わって、わたしの所にきた。「読んだけど、なんか感じてるんだけど、わかんない。何だろう。ちょっと話をしてもいい?」って、感想を語り合う会みたいになった。そうやっていろいろ話しているときに、突然、「あ!」とか、言うわけです。「そうかあ、なんかね、わたし耳を閉ざしてたのかもしれない。もう一回読んでみる」と、急いで帰っていったりする。それでまた読んで、「ああ、そうかそうか」と思ったそうです。それで書店さんに熱をこめて話すわけ。ところが、しゃべるんだけど、今度は書店さんが話を聞いても、「わかんない」。(笑)で、けっきょくSさんは「お願いなので、ちょっと読んでみてください」と仮綴本を渡す。するとね、読んでくださった書店さんが、「読むと人に話したくなる本ですね。平台で積んでみます」みたいな話になる。そういうことをやってくれた。ワンフレーズセールスではなく、すごく丁寧にやってくれたというか、それしか方法がなかったというか、それがうれしかったし、面白かった。すごく深い話が、いろんな人とできたんです。なんでこの本は人と話すことを促すんだろう? そう考えていたら、ひとつ、「あ!」って思ったことがあります。作品のなかに、お父さんとお母さんが、トンちゃんが聞いていないとおもって、会話している場面がありますよね。「トンちゃんだれと話していると思う?」「ぬいぐるみだろ」「しっ!」っていう場面。

中村 薄気味悪い。(笑)

――そう。でも、あれ、自分としゃべるっていうことですよね。トンちゃんって、すごく自分としゃべってる。いつも自分が感じていることを知ろうとしている。作品のなかではぬいぐるみのトンちゃんに、「ねえ、どうしてだと思う、トンちゃん?」って話し掛けているわけですが。ああ、そうかって思いました。コミュニケーションって、実は自分のなかからはじまるわけですよね。自分に問い掛けるその深さでしか、人は他人に問うことはできないんだなって。自分を知りたいと思う気持ちと、人を知りたいと思う気持ちはつながっている。だからそこには対話が生まれる。そんなことをね、つらつら思いました。トンちゃんを読んで、わたしはもっともっと自分としゃべることがあるなって思ったんです。本当は感じていたのに、自覚してなかったなあと、揺さぶられた。だから、誰かと話したくなるんだと思った。そうやって、ずいぶんいろんな人と、いままでしたことのないような話をしました。『トンちゃん』を肴にすると(笑)、対話が弾むし、深い話ができるんですよね、なぜか。

中村 そうですか。そうだったら、いいな。うれしい。

――すみません。インタヴュアーがしゃべりすぎました。さて、最後の質問です。
これからどんな作品を書いていきたいですか?

中村 すごく若いときのことですけれども、小説を読んでいて、救われたなあと思ったことがありました。小説を読んでいる時間、その1日なり2日なりの間、その本を読んでいる途中、読んでいないときでも、自分がひとりではないような気分がしたことがあるんですね。あとで、夜になってその小説を読むのがすごく楽しみで…そういう感覚って、ないですか?

――わかる。すごくわかる。

中村 あるでしょう、本を読んでいるときって、ひとりじゃないんだよねえ。(しみじみ)
で、それはとても救われたんですね。内容が面白いっていうのと、そこに書かれた言葉に救われるとか、そういうこともあるし、でも、それだけではなくて。ひとりではないという感じが、したんです。それは本じゃなかったらちょっとなかったと思うような体験です。映画でもそういうことがある人もいるだろうし、音楽でもあるんだろうけど、わたしの場合は、言葉がいちばん入ってくるんですね、きっと。本を読んで、なにかしら、ほとんど命を救われたといえるくらい、すごくいい経験をしました。何度かそういうことがあった。もし、そういうものが書けたら、もう、死んでもいいです。(笑)



※引田天功(ひきたてんこう)   初代引田天功。大学在学中に松旭斎天洋に師事し、手品の腕を磨く。卒業後すぐにテレビ番組に出演するようになり、たちまち人気者となる。なかでも日本テレビで放送された『大脱出シリーズ』は大人気となり、その地位を不動のものとした。77年に心筋梗塞で倒れ、79年に45歳という若さで亡くなった。ちなみに世界的マジシャンであるプリンセス・テンコーは、初代引田天功の弟子である。

中村葉子(なかむらようこ)
詩人。1995年山田咲生と雑誌『ドッペルゲンガー』(七月堂)を創刊。同年、中野駅ガード下で自作詩の連載ビラを配りはじめる。生活のなかに無数の現実を探りあてて起爆させる詩の魅力は、一部の詩人、出版人の間で話題となった。2000年、ニューヨーク州・バッファローで『Poem in Buffalo』と題したビラ活動を展開。2004年、詩集『泣くと本当に涙がでる』(ポプラ社)、2005年9月、小説『トンちゃん』を刊行。私家版に『1993中村葉子』『竹林詩画報』『八日電球』『自由自在スパナ』等がある。


中村葉子
定価:1,260円(本体:1,200円)
判型: 四六判上製
ページ数:240頁
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