こよなく本を愛し、「読みたくなる」書評の書き手としても知られる人気作家ふたりが、本をどう読み、どう伝えるか、書評の難しさと喜びを語り合う。三浦しをんさんの最新エッセイ『三四郎はそれから門を出た』(ポプラ社)刊行記念として、7月26日に青山ブックセンター本店で開催されたトークイベントを、あますところなくご紹介します。
構成/板倉克子
撮影/根津千尋
※このトークイベントのショートバージョンは、10月に創刊したPR誌『アスタ』(ポプラ社)でもお楽しみいただけます。


左から角田さん、三浦さん、司会



三浦 今日は角田さんに、書評や本に関するあれこれをうかがいたいと思うんですが。

角田 私もたくさん質問があります。

三浦 お互いに質問を投げかけあう会ということで、おつき合いいただければ幸いです。『三四郎はそれから門を出た』は、書評も含め、本に関するエッセイを集めたものなんですが、こうしてまとめてみると、結構似たような本を読んでいて、自分の好みがわかっちゃうなぁと思ったんですけど、角田さんは書評の依頼を受けたとき、どのように本を選びますか?

角田 書評の仕事は、好きな本を選べる場合と、本を指定される場合と半々ですよね。私はわりと自分で選ばないことが多いかな。選ぶ場合は、好きな作家の新刊を選びます。しをんさんはご自分の読書傾向が偏っているとおっしゃるけれど、私は『三四郎……』を読んで、こんなに支離滅裂な本の選び方をする人は見たことがないと思いました。これでも偏っているんですか(笑)?

三浦 自分の中では、かなり系統立っているつもりなんですけど(笑)。

角田 系統立っているんだ(笑)! でも、ジャンルがすごく幅広いですよね。選ぶ基準って何かありますか?

三浦 私もやっぱり、どうしても好きな作家の本になってしまいますね。

角田 私は二十代の頃はポリシーがあって、書評を頼まれたら絶対に断わらないと決めていました。たとえどんな本でも、読んだことのない作家や、どうしてこの本を私に? という場合でも断わらないようにしていました。小説を書きはじめたころ、人に比べて自分の知識や読書の量があまりにも少ないというコンプレックスがあって、何でも引き受けるようにしていたんですけど、今もその癖が残っているかも。書評の依頼を断わることはありますか?

三浦 作品として、これは嫌だということはあり得ないですね。

角田 あの、今、個人的な興味がすごくわいてしまったんですけど、では作家ではどうですか? この作家はノー、ということはあるんでしょうか(笑)?

三浦 えーと、ちょっと待ってくださいよ……(笑)。特定の作家が嫌だとしたら、過去にその人の作品を読んだことがある訳ですよね。そう考えると、読んだことがあるのに、この作家は好きじゃないので、とお断りしたことは一度もないです。逆に、読んだことのない作家の本の書評を頼まれて、イメージで嫌だからお断りします、などということもやっぱりないから、作家の名前で断わることはないですね。ありますか?

角田 いや、ないですね(笑)。

三浦 私、どんな仕事でも結構お断りすることがあるんですが、それは純粋に、締め切りまでの時間がどうしても取れそうにないときですね。あまり読み込まずに書く訳にはいかないので。

角田 そうですよね。あの、質問していいですか? 私から見ると、ほんとに幅広いジャンルの本をお読みで、なおかつ、「自分の好みに偏るから」と電車の中で知らない人が読んでる本まで盗み見し、そういう本を一時間も検索して手に入れたりされる。そうやってグワーッと読んだ中で、あらゆる意味でつまらない本、読んでしまって時間を無駄にしたと思う本って、今までありますか?

三浦 なぜそういうちょっと答えにくい質問をなさるんでしょうか(笑)。

角田 私は実は、面白くないと思う本――もちろん個人的な好みで、ですけど、そういう本がすごく好きなんですね。面白い本よりも、面白くない本の話をする方が――。

三浦 すごくよくわかります。面白い作品や良い作品は、それ以上、何を語ればいいのだろう? と言葉が出にくい。でも、「クソだよ、これ!」っていう本は、どこがどうクソであるか(笑)、それでもしかしこの部分は良かった、面白かった、などなど語りやすいですよね。

角田 そうですね、そのときの自分の興奮具合を伝えたくなるんですよね。例えば、ここまでは良いんだけど――。

   

三浦 ――どーしてこうなるっ?!みたいな。

角田 そうなんですよ、どうしてこの登場人物が必要なのかとか……。そうやって、いかにつまらないか、自分に合わなかったかを微に入り細に入り語っていると、結局、自分を語っていることになっちゃうんですけど、意外とそれが自分の小説のヒントになったりもしますよね。

三浦 ありますね。私もそうなんですけど、角田さんも、この本のここが嫌だというようなことを公に表明なさいませんよねぇ。

角田 しないですね。

三浦 私も、それは絶対に意味がないし、すべきではないと思っているんですけど、でもあえてこの場で言うと、最近読んだ中で「クソだー!」と思ったのは、『ダ・ヴィンチ・コード』なんです(笑)。

角田 え、そうなんですか、へぇー!

三浦 自分でももう抑えられないほど、「うおーっ!」って思った(笑)ので、ネットで連載しているエッセイに書いてしまい、書いた直後に、「あー、やってしまったー」って思いました。でも、その愛すべきダメさ加減――っていうか、これは別にダメな本ではないんですけど、「どーなんだ、この小説は?!」っていう思いは抑え難かったです。角田さんは読みましたか?

角田 読んでないんですよ。しをんさん、ひょっとして、いかに読むに値しない本かということを書いたのはそれが初めてですか?

三浦 いえ、ちょっと筆がすべって、「こないだ読んだ『○○』は、もうほんとにわからない」みたいに書いてしまうことはあるんです。でも、それでもやっぱりその本は気になるし、「面白いと思っているけれど、しかしその面白さは自分にはわからない部分がある」と言いたくて書くことが多いですね、どう受けとめられるかわかりませんけど。ただ、『ダ・ヴィンチ・コード』については、ネタとしておかしいというか……面白いんですよ(笑)。文庫で三冊あるのですが、すごい勢いで読んでしまったんです。「つまらねーっ!」ってぼやきながら。だから、ここを強調したいんですが、面白い本であることは確かなのです!




角田 ご自分のエッセイではなく、依頼された書評の場合、悪く書かないというか、嫌いなもの、自分に合わなかったものは書かないというポリシーがおありなんですか?

三浦 そうですね。というより、書評を頼まれたもので嫌だった本はなかったので。きれい事を言っているように取られるかもしれないけど、嫌な本ってないんですよ。『ダ・ヴィンチ・コード』も、クソだとは思ったけど嫌ではないんですよ。

角田 盛り上がってる訳ですもんね。

三浦 なので、嫌な本ってないですね。

角田 私もそう思ってるんです。ひょっとしてこの世には、嫌な本とか、読まなければよかった本は実はないかもしれないと思って。「こんな本、読むんじゃなかった!」っていうのが、すでにもう喜びじゃないですか、なんというか(笑)。

三浦 貴重な人生のこの時間を無駄にしたオレ! みたいな(笑)。

角田 そうなんですよ。あと、私ね、自分で読んで、これはどうもなーっていう本に限って、人に勧めるんですよ。

三浦 それは嫌がらせですか(笑)?

角田 そうじゃなくて(笑)、意見を聞きたいんですね、どう思う? って。好きな本を友だちに勧めて、「これ、ちょっとねー」なんて言われたら、かえって嫌ですから。

三浦 確かにそうですね。ちょっとどうかなと思った本を人に勧めて、「そんなことない。ここは面白いよ」って言われたら、「あ、そうか」と嬉しいし、「これ、ほんとにダメだね」って言われたら、「やっぱりね」って思えばいいし、どっちに転んでもいい(笑)。しかし、書評するとなったら、批判的なことを書くのってむずかしくないですか?

角田 たぶんそういう書評は書いたことがないし、それは作者に恨まれたくないからというよりもむしろ、書き方がむずかしいからだと思います。批判すると、じゃあ、自分でそういう作品を書けばいいじゃん、みたいになるし。

三浦 読み手が、ここはどうかなと感じた部分って、その何十倍もその作品を読んでいる作者や編集者にしてみれば、すでに気づいている部分だったり、もしくは、そういう意見があるのもわかっていて、あえてそう書いている場合もあるはずですよね。

角田 私は単純に、「わからない」ということがあるんです。本当にわからない、どうしよう! というときがあって、例えば『海辺のカフカ』がそうなんですけど。書評をお引き受けしたものの、ほんっとに私にはわからなかったんですよ。面白いことは面白いし、読了したものの、わからなくて、何を書こうか迷った挙げ句、中途半端な書評を書いてしまい、いろいろな人に悪かったなと思いました。だから、『三四郎……』に載っていた『海辺のカフカ』の書評を読んで、びっくりしたんですよ。しをんさんの読み方って独特ですよね。なんというか、全部を照らそうとするでもなく、みんなに普遍的に伝えようという書き方でもなく、"しをんセンサー"をピーッと鋭く当てて、その部分をガチッと書いている。この本が出て四年経った今、こんなふうに読めるんだ!と知って、反省しました。

三浦 私は自分でこの本を選んだので、角田さんとは事情が違いますが……。依頼されて、もしこんな書評を――「カフカはいつも勃起しっ放しだ」なんて書いたら、ちょっとヤバいと思うんですよ(笑)。取り上げた理由は、実は私もよくわからなかったから。放っておいてもみんなが読む小説だけど、でも、どうなんだろう。みんなの意見を聞きたいぞ、皆さんはいったいこの物語をどんなふうに受けとめてるんだろう? っていう思いが、ピンポイントセンサーに表われているんです。

角田 大いなる問いかけがあるわけですね。

三浦 そうです。だから、「この物語は、ここが素晴らしい!」というような正面切った書評ができなかった本なんです。

角田 そういう本ってときどきありますよね。

三浦 作品の出来がどうこうという問題では全然なくて、こちらの好みというか、そのときの体調とかもありますよね。

角田 五十歳になってから『海辺のカフカ』を読んだら、すごくよくわかると思えたりするかもしれませんね。

三浦 逆に、十五歳で読んだらすごく良かったということもあるかもしれないですね、カフカと同い年だったら。

角田 あ、そうですね。





三浦 書評を書くとき、ほかに気をつけていらっしゃることはありますか?

角田 書評って、短ければ短いほど、すごく大きな言葉を使ってしまいそうになるんですね、「人類に対する贈り物である」「この本を読まずにいることは不幸である」とか(笑)。大きな言葉を使うと、短い書評でも書いた気になっちゃうことがあるので、できるだけ使わないように、最近、心がけています。

三浦 私は、「すぐれた恋愛小説である」「すぐれた青春小説である」などと締めくくるのはやめようと思っています。こういう書き方は、どういう話かストレートに伝わりやすくなって良いけれど、でも、それって帯に書いてあるしなーみたいな(笑)。とはいえ、決めの言葉はあった方がいいし、難しいですね。

角田 ほかの書き手の書評は読みますか? 新聞の書評欄とか。

三浦 いまはほとんど読まないです。新聞を購読してたときは熟読してましたけど。

角田 私は読売新聞を読んでるんですけど、川上弘美さんと町田康さんの書評がものすごく好きなんです。お二人の書評は、「これってスゲエ」というような書き方で終わっていたりして、書評というものの枠組みを自由にとっぱらっていて、なおかつその書評自体が面白くて、その本を読みたくなるというのがすごいなぁと思って。

三浦 結局、良かったと思う本はストレートに、「これはいい!」としか言いようがないから、「これはいい!」でいいと思うんですけど、なかなかそれはできませんね。何がいいか、どういいかを連ねなくてはと考えるのは、まだまださもしい根性なんでしょうかね(笑)。

角田 さもしくはないと思いますよ(笑)。じゃ、あれはどうですか?――私は、それこそ二十代の前半のころ、頻繁にやっていたんですけど、長い書評を書くとき、まるでエッセイのようにまず自分の思い出から書き始め、後半で本の内容につなげるということをよくやっていたんですけど……。

三浦 私もよくやるんです、長い書評の場合は。あれ、いけないですよね?

角田 いけないですかね?

三浦 いけないですね。いけないとわかってるんですけど、やってしまうんですよ。

角田 ……。

三浦 あれはほんとに、『ダ・ヴィンチ・コード』並みのクソぶりだと思うんですよ(笑)。自分もしょっちゅうやるんですけど、どうしたらあの「クソさ」から脱却できるんだろうっていつも思うんですよね。

角田 でも原稿用紙五、六枚になると、本のあらすじを書いてもしょうがないし……。

三浦 あらすじを書くのも、また腹が立つんですよね、自分に対して。

角田 そうなんですよ!

三浦 この作品をなぜ私は要約しているんだろう、アホじゃなかろうか!って思います。

角田 あんたの職業は何? って思いますよね(笑)。でも、その小説がものすごく好きだったり、ものすごく面白いと思えば思うほど、書くことってほんとに――。

三浦 少なくなってくるんですよね。

角田 好きな小説って自分の中にグーッと入ってくるから、自分の話をしないことには……。

三浦 心のどこにふれたかを述べるためには、どうしても自分語りに入らないといけないですよね? どうしたらいいんでしょうかね。解決法みたいなものはあるんでしょうか。



角田 でもね、私はそういうスタイルの書評を読むのは好きなんですよ。その人のエッセイかな、と思って読んでいたら書評である、というのは。

三浦 あ、そうですね。そういう書評、読むのは好きですね。

角田 でも自分で書いてると、なんか嫌なんですよね。

三浦 あと、私は、本の著者を書評の文中でどう呼べばいいか、いつも気になるんですよ。「著者」または「作者」と呼べばいいのか。「筆者」と書くと、しかし、今書いている自分と思えなくもないし。

角田 あ、そうか。

三浦 いろいろ考えてしまうんです。「角田さんは」と書くべきなのか、でも「角田さんは」ってどうなのか、または「角田氏は」ではどうか?――そうやってどんどんわからなくなって……。『三四郎……』の文中でもそのあたりは統一されていなくて、なぜか宮藤官九郎は宮藤官九郎(笑)。全然知り合いでも何でもないのに、なんで呼び捨てなんだよ! みたいな。そのへんは何か基準がおありですか?

角田 私は「著者」で統一していて、でも面識があったりすると、「三浦しをんさんは……」と書くこともありますね。

三浦 書く内容にもよりますよね。「著者と一緒にへべれけになるまで飲んだ夜のことは……」とするのは、それはやはり――。

角田 文章として美しくはないですよね、確かに(笑)。





三浦
本を選ぶ基準は、ジャケ買いもおありですか?

角田 はいはい、ほとんどそうですかね。本を買うときは、書評を見るのと、表紙を見るのと、あとは好きな作家の本、ということが多いですね。

三浦 読みたいと思わされるのは褒めている書評ですか? それとも、ものすごくけなしている書評を見て、「そんなに言うなら読んでみよう」と思うのと、どっちですか?

角田 褒めている書評ですね。けなされている本は、立ち読みはするかもしれない。黒い気持ちで、「どれどれ……」みたいな(笑)。けなしている書評を目にすると、やっぱりその本を読みたいとは思わないですね。

三浦 私もそうなんです。書評で褒めてあると、そんなにいい本なら読んでみようと思うんですけど。とすると、けなす書評には書評としての意味がなくないですか?

角田 あ、はい。

三浦 書評って、いちおうその本をみんなにお勧めするという目的で依頼がくる訳ですよね? それとも――。

角田 いや、でも自分は評論家ではないし、って思ってしまいますよね。評論家なら、好きに評論すればよいけれども。ものを書く人間に対して何かできることがあるとするなら、それを紹介して、「面白いよ」と勧めることかな、などと考えちゃいますけどね。

三浦 そうですね。だから私は、けなす書評の存在意義を常に問うているんですよ、けなす書評って何のために掲載されているのかな、と。自分がけなされて「キーッ!」って思うことがあるから疑問にするのかもしれないですけど(笑)。ご自分の作品の書評はチェックしますか?

角田 編集者がまとめてくれたコピーを、目を皿のようにして読みますね(笑)。

三浦 例えば、そんなにおありではないでしょうけど、万一けなされた場合はどう対処しますか?

角田 昔は本当に傷ついて、書き手の名前を覚えたり(笑)――。

三浦 呪詛をしたり(笑)。

角田 なんとなく覚えちゃうんですね、覚えようと思わなくても(笑)。でも、たいがい致命的なことは言われないというか、自分の弱点はよくわかっているから、「ここを突かれたら、もう私は……」という類の批判はじつはあまりないですね。こういう読み方をするんだー、と気づかされることが多い。十年以上前は単なる罵倒が多かったですね。重箱の隅をつつくような内容で、しかも「馬鹿アホ馬鹿アホ死ね」って、まるで子どもの喧嘩みたいな……。

三浦 それは全然書評じゃないですね。

角田 今は、「この人は自分とは読み方が違うんだろうな」とか、「私の書くものはたぶん全部嫌いなんだろうな」と思ったりすることはありますけど。しをんさんは、ご自分の本の書評は読みます?

三浦 なるべく読まないようにしてるんです。気にしちゃうというか、傷つくんですよ。編集者が送ってくださるものを読んで、けなされている――というか、ここがこう、と指摘されていると、その書き手の名前は全部覚えますね(笑)。

角田 でも、ほめてくれた人の名前も覚えますよね。どっちがいいですか、すごくけなしてるんだけど、馬鹿でかい欄に大きく載るのと、一切取り上げられないのと?

三浦 まったく取り上げられない方(笑)。

角田 私も(笑)。これまでに、ものすごく堪えた書評――いい意味でも悪い意味でも、「うわ、困っちゃったな」っていうくらい胸に刺さった書評ってありますか?

三浦 悪い方では、ないですね。「そういうふうに読む人はいるだろうな」と思える書評が多いし、「確かにそうなんです。次、頑張ります」と応えたくなる指摘もありますから。ほめていただいて、あぁ、こんなふうに読んでくださったんだ! と、とても嬉しくなることはあります。

角田 私はね、久世光彦さんが「BRIO」という雑誌に書いた『空中庭園』の書評が、ものすっごい堪えたんです。こきおろされた訳じゃないんですよ。すごく面白くて読まされたという主旨の文章が続いて、でもいちばん最後に、「だから何なの? って思っちゃった」と添えてあった。つまりあの小説は、ある家族がいて、でもこんなに嘘がありますよ、って暴露して暴露して、暴露したまま終わる小説なので、久世さんのおっしゃっることもわかるんですね。こんなに醜いものですよ、で終わってしまっていいの? ということを、とても丁寧に書いて下さった。それを読んだとき、全然悪い意味じゃなくて、自分が書くことについて抱えてきたもの――自分の欠点や癖をドカーンと突きつけられたような気がして、この次は絶対この人に、「だから何なの?」とは言わせない、と決意したんです。これからは、暴露したらそれを縫いつなごう、もうちょっと後味の良い話を書こうというふうに、それがきっかけで考え方が実は百八十度変わったんですね。だから、書評ってすごく力を持ってるなーと思う。久世さんには感謝しています。

三浦 でも、私はその久世さんの意見には賛成しかねますねー。正直言って、まったく賛成しかねますね。もうひとつ、これはその久世さんの書評がどうこうということではないんですが、書評を書くうえで私が禁じ手にしているのは、最後にひっくり返すやり方なんです。「こういうところが良かった」と褒めておきながら、最後で、「だが、ここはいただけない」とやったり、逆にすごくけなした後に、「しかし、まあ見るべきところもある」とする手法は、どっちにしても、私はしたくないと思っているんですよ。そういう書評の書き方はアンフェアだと思うんですよね。

角田 アンフェア。そっか、考えたこともなかったです……。結構ありますかね、そういう書評って?

三浦 たまに目にしますね。文末に、「でも、それはどうなんだろう」と――。

角田 あ、わかるわかる。そういうの、ありますね。わざわざこれを言い添えなくてもいいんじゃないか、みたいなことが最後に書いてあったりしますね。

三浦 そうなんです。だって、その一行で済むほどのことなら、それを省いて、それまで褒めていたこと、批判していたことを、もっと広げたり、深めたりすればいいじゃないですか。この書評の仕方は、ほんと、嫌いなスタイルなんですよね。何だったんだよ、ここまで読んだのは!(笑)って、すごく思うんですよ。

角田 考えたこともなかったです。今度、注意して読んでみます。

三浦 そういうパターンの書き手、いるんですよ、でも――。

角田 それが技というか個性になっているんですね?

三浦 はい。個性というか――たぶん、良い面も悪い面もどっちもあるよ、ということを言うがために、そういうふうにしてるんでしょうけど、でも書評の構成として良くないと思うんですよ。

司会 こっちの面も知っているぞ、気づいているぞ、とやると、頭良さそうに見えるじゃないですか。しかも簡単にそう見せることができる。だから、そうするのでは……(笑)?

三浦 そういうこともあるかもしれませんね、こうも読めることをオレは知っている! ということなんですかねぇ。



後編は10月26日(木)掲載予定です。
お楽しみに!

三浦しをん
(みうらしをん)
1976年東京生まれ。2000年、書き下ろし長編小説『格闘する者に○』でデビュー。小説に『月魚』、『秘密の花園』、『私が語りはじめた彼は』、『むかしのはなし』、『まほろ駅前多田便利軒』(第135回直木賞)、近刊に『風が強く吹いている』エッセイに『妄想炸裂』『しをんのしおり』『人生激場』『桃色トワイライト』などがある。
  角田光代
(かくたみつよ)
1967年神奈川県生まれ。90年『幸福な遊戯』でデビュー以来、『まどろむUFO』(野間文芸新人賞)、『ぼくはきみのおにいさん』(坪田譲治文学賞)、『空中庭園』(婦人公論文芸賞)、『対岸の彼女』(第132回直木賞)、『ロック母』(川端康成文学賞)など作品多数。紀行文やエッセイも人気。

『三四郎はそれから門を出た』
著:三浦しをん
定価:1,680円(本体:1,600円)
ページ数:306頁

『まほろ駅前多田便利軒』で第135回直木賞を受賞した著者による、初のブックガイド&カルチャーエッセイ集です。好評のため連載が2年半まで延びた、朝日新聞の連載「三四郎はそれから門を出た」をはじめ、『anan』の連載エッセイや新聞雑誌の原稿も収録。「活字中毒」を自認する、人気作家の秘密の日常をお楽しみください。エッセイにたびたび登場する、著者の仕事場をイラストに起こした「火宅拝見」(書下ろし)も収録した、豪華な一冊です。