コインランドリー

16

 「やっぱり、来てもらわないとならないんだよね。その、母ちゃんがうちに戻るなら」
 エレベーターの中には、達郎の小さな声と兄の体臭が、あてどなく漂う。
 「ううん」
 はっきりしないただの唸り声だ。
 「今日、仕事休んだんでしょ」
 機嫌を取るつもりはないのだが、黙っていられると気詰まりだった。
 「ああ、」
 兄が不意に言葉を思い出したように口を開く。
 「休んだ」
 「大変だよね」
 うまく話を紡げない自分が、金を受け取るときばかり調子よくしているようで、情けない。
 「大変、てことも、ない」
 何が可笑しいのか、兄は達郎を見てにたにたと笑っている。
 俺がお袋の世話をするからと達郎が切り出すのを待たれているようで、臍のあたりがむずむずと落ち着かなかった。
 ほんの少し前まで、寛いだざわめきが流れていた病棟は、すっかり眠たげな静けさに覆われている。
 「寝てるかな」
 病室には、達郎が先に立って入った。
 椅子の脚が床をこする耳障りな音が響く。
 兄は、達郎の後ろに立ったまま、「それじゃあ」と声をかけた。
 「そんなに急がなくても」
 達郎が振り返ると、兄は「ああ、ああ」と頷いて、ベッドの端に遠慮がちに尻を載せる。
 隙間なくカーテンに囲われた奥のベッドからは、時折「ふう」とため息のような声が聞こえた。
 母は、すうすうと規則正しく寝息を立てている。
 寝顔を眺める限り、介護が必要な状態にはとても見えない。
 どこかの病室から、大きな笑い声が漏れてきた。
 続いて、テレビ番組の観客があげる、やけくそのような笑い声。
 達郎が顔を上げると、兄が尻を浮かせた。
 「行くか」
 「いいのかな、このままで」
 やはり、もっと早く来てゆっくりいてやるべきだった。
 「ん? ああ、寝てんだろ」
 立ち上がった兄は所在なげに病室を見渡し、何か言いたげな目を達郎に戻す。
 「うん。じゃあ」
 音を立てないようゆっくりと椅子を畳み、壁際に立てかけて、もう一度母を見た。
 本当に、このまま引き揚げていいものかと、戸惑う気持ちがある。
 だが、自分が心底から母の容態を心配しているのか、わからない。
 やはり、母の事情で自分の生活に変化を強いられることを危ぶむ気持ちの方が大きいような気がして、どこか後ろ暗かった。
 開け放されたドアのフレームに切り取られたコートの端に、背中を丸めてうつむく兄の立ち姿が透けた。
 若い頃はもっと物怖じせずにはっきりしたことを言う人だった。
 年寄りとは残酷だが、やはりもう、子供の頃に慣れ親しんだ兄と同じようには思えない。
 兄を感じさせる面影は端々に見えても、改めて覗き込めば、見知らぬ年配の男だ。
 つい、と胸の奥に痛みが走った。
 どうでもいいような付き合いをしていた女を棄てて何日も過ぎた頃に突然感じる、それに似ていた。

 病院の前からタクシーに乗り込み、むっつりと黙り合ったまま、白井駅に戻った。
 車中では何度となくため息を零していた兄が、駅の明かりを横目で見て、「飯は」と言った。
 言ったはいいが、顔は達郎を見ていない。
 達郎も、「うん」とだけ答えて、俯いた。
 兄にも何か後ろ暗さがあるのだと気づいた。
 黙って歩き出した兄について、駅から離れる。
 「なんもないよなあ、このへん」
 兄が不意に明るい声を出したのは、何もない町の侘しさを懐かしんでいるのだ。
 「どっかまで、出る」
 「ううん」
 きっと、会社でも曖昧な返事だけを呟いて仕事をこなすのだろう。
 兄が家にいた頃は、「お兄ちゃんは、ああ見えてちゃんと考えてる。一番いいタイミングを逃さない」と母が自慢していた、のらりくらりの性質だ。
 だが、達郎は兄のそうしたところが苦手だった。
 何を考えているのかわからない。
 何かを話しかけたとき「ううん」と曖昧に唸られると、探られているようでも、興味を持たれていないようでもあり、どうにも落ち着かない気持ちになる。
汚れた看板の前で一度だけ達郎を振り返った兄は、達郎が追いつくのを待たずにさっさとのれんをあげた。
 湯気で湿った戸を慌てて閉め、両手を擦り合わせながら、カウンターの椅子を引いた兄の横に入る。
 「お酒ちょうだい」
 「はい、お燗でいいね。お猪口、二つ?」
 疲れた顔の女将が、無理に張り上げたような声で答える。
 「俺、ビール」
 「ビールも」
 「ビールは瓶しかない」
 「あ、瓶でいいっす」
 「コップは」
 「一つ」
 「いや、二つ」
 カウンターの中の大将が、テレビに顔を向けながら、小鉢を突き出す。
 「コップ、二つ?」
 「ああ、二つ」
 ビールの大瓶が先に出て、コップを待った。
 乾き切った鰹節の下に、茹で過ぎてくったりしたほうれん草が見える。
 こんな店なら、やらない方がいい。
 兄は箸も割らなかった。
 「俺、ほんと、仕事、探さなきゃな」
 ようやくありついたアルコールを呷った息に混ぜ、自然と呟いていた。
 「ま、そりゃそうだよな」
 熱燗を舐める兄は、手元に目を落としたままだ。
 「もう、どこでもいいよ」
 言われる前に、言っておく。
 「あれだろ」
 兄が、達郎を見た。
 「結局、調理師とか、そっちの仕事しか考えてないんだろ」
 「うん、まあ」
 手持ち無沙汰なので箸を取るが、肴は頼んでいなかった。
 「それしか、できないから」
 「そんなことないだろう」
 力のない笑いを返すばかりの達郎を見ながら、ビール瓶に手を伸ばす。
 「いや、それがやりたいんなら、それでいいと思うよ。しかしまあ、お前の料理なんて食ったことないからなあ」
 笑われても仕方がない。
 自分自身、なんのために料理人になることに拘っているのか、わからなかった。
 「けど、ほんと、もう今さら他にできることないし」
 「今さらって、まだハタチかそこらでさあ」
 「俺、もう二十六だよ」
 「いや、だから、それくらいの年で、今さらってことはないだろ」
 料理人の世界はスタートラインが早く、中学を卒業してすぐに働き始める者も未だ多い。
 そうして修業を重ねた連中に囲まれれば、のんびり高校を出たことにすらハンデを感じる。
 その上、一つところで落ち着いて修業する根気もなく、ふらふらと入り易そうなあちこちの店を渡るうち、八年も経ってしまった。
 自分より年下の奴から偉そうな口を利かれながら半人前扱いされるのも当然だ。
 それを避けようと思えば、ちゃんとした技術が学べる店での働き口などなかなか見つけられない。
 達郎は、すでに料理人の道から外れていた。
 「お前、本当に、料理好きなのか」
 冷やかしのつもりの言葉に、返せない。
 兄は、品書きを見ずに女将を振り向き、「厚揚げ」と声を張った。
 「はあい、厚揚げ一丁」
 大将が、テレビに気を取られた渋々の動きで冷蔵庫を開ける。
 「好きなら、もうちょっと頑張れよ」
 これからどんなに頑張っても、店を持つことなどないだろう。
 仮に何かの運を掴んで自分の店を出せたとしても、近所のスーパーで仕入れた食材で手抜き料理を並べる居酒屋か、どこにでもある献立をいい加減なセンスで自己流にした中途半端な創作料理を出す居酒屋か、ともかく、やらない方がましな店になるに違いない。
 「そりゃ、嫌いじゃないけど」
 「だってお前、嫌いじゃないってくらいで、ものになるようなあれじゃないだろ」
 頭のどこかでそうとわかっているから、働く気にならずにぐずぐずしている。
 「拘りがないんなら、他に、なんかやってみてもいいんじゃないか、まだ」
 無関係な他人と必要以上に関わり合おうとしていたのは、そうやって他人と関わり合えば、他人に映る自分を見ていられるからだ。
 そこに映る自分は、少なくとも、自分が知っている自分よりはずっとましだ。
 「何を」
 「何をって」
 とっくに負けているのに、自分の負けを受け入れられない。
 「そういえば、お前、趣味はなんなんだ。料理だって、うちで作ること、なかったろ」
 「ないよ。別に、趣味なんて」
 そもそも勝負などしていないのだと薄ら笑いで取り繕う。
 決着を曖昧にして勝負から逃げ出す口実を期待して、わざわざ面倒が起こりそうな方へ首を突っ込む。
 「友だちは、いるんだろ」
 幸いにも、世の中には小石のように事件が転がっていた。
 自分の日常を薄れさす出来事なら、なんでもよかった。
 それが続けば、自分でも気づかぬうちに、日常から遠く離れた別の世界に辿り着くのではないかと、虚しい期待をした。
 ちん、と電子レンジの音がした。
 「あちちち」と大将がおどけている。
 女将が、テレビの観客と一緒に小さな笑い声を上げた。
 兄は、達郎の返事を期待していなかった。
 達郎にも、答えられるものがない。 
 いつかどこかで諦めなければならないとはわかっている。
 日常が突きつける自分の価値を受け入れ、何者にもならない自分を認め、どうにもならない退屈な人生か、腐った水を吸ったボロ雑巾のような人生かを選び、それを全うするしかない。
 「俺、さ」
 箸を割った兄が、口調を変えた。
 達郎は、黙って醤油挿しを取ってやる。
 「別れることになってな」
 箸の先でおろし生姜を摘んだ兄が言う。
 「離婚」
 「ああ」
 「いつ」
 「いつって、これからだけど」
 厚揚げを頬張る顔が、赤い。
 曖昧な説教をするうち酒が回ったのだろう。
 「そう」
 「で、な」
 「何、勿体つけて。俺に言いたいこと、あるんでしょ」
 「いや」
 兄は、箸を宙に置いたまま、驚いた目を向けた。
 「わかってるよ。兄貴んとこ大変だろうしさ、俺だってそれなりに考えようとしてるんだよ」

 「俺さ、こっち、戻るわ」
 兄の言葉に、今度は達郎が顔を上げる。
 「こっちって」
 「うん。だからさ、お袋のことは、心配ないから」
 「でも」
 「どうせあの家は追い出されるからなあ」
 兄が笑った。
 「なに。離婚、兄貴のせいなの」
 「ううん? まあ、そういうこと」
 「女じゃないでしょ」
 「いや、女」
 「まじで」
 「ああ」
 気づけば、テーブルには燗のお銚子が三本並べられている。
 「でも、こっち戻って、どうすんの、仕事とか、その、そっちの女とか」
 「いやあ、まあ、仕事も辞めようと思ってさあ」
 「なんで」
 「どうせ大した仕事じゃないよ」
 「辞めて、あてがあるんだ」
 「いや、ない」
 「どうすんの」
 兄が、赤い顔の中で目を剥くようにして、にたりと笑う。
 「お前さ、知らないだろ」
 「なに」
 「お袋さ」
 斜めに向いた体を前に倒して、わずかに小声だ。
 「金、あるんだよ」
 「えっ」
 言うことがわからない。
 「株やってんだ、お袋」
 兄が肩を揺すって笑い出した。
 「株って」
 「株だよ。知らなかったろ。もう何年も前かららしい」
 「知らないよ、まさか母ちゃんが、株」
 「ところがさ、株の前は宗教にはまってたって言うんだ」
 「宗教」
 「こつこつ貯めた金をかなりそこで使ったんだと。お布施だろ。それを取り戻したくて始めたのが、株」
 「母ちゃん、運が強ええよ。普通、そこですっからかんになるんだよ」
 兄弟の笑いはひとしきり続いた。
 女将が「お銚子、空いてるね」と様子を見にくるほどだ。
 兄は機嫌よく酒の追加を頼み、とうとう達郎も「肉豆腐ひとつ」と声をかける。
 笑いが収まると、兄は、目を瞬かせた。
 「実は俺、サラ金で追い込みかけられててな。藁にも縋るってあれで相談したら、ぽんって出てきた。隠しててすまないって。金があるって言えば、俺が世話してくれなくなると思ったからって」
 嫁に奪われて恨む気持ちもあったに違いない。
 親子でも、金の切れ目が縁の切れ目と考える母が哀れだと思った。
 「けっこうな金額だよ。俺はその金で、命が助かった」
 口を噤んでいる達郎の前で、口をへの字にして首筋を掻く。
 「大げさじゃないんだ。ほんとに、やばかった。ま、会社辞めるのは、それもある」
 淡々と話す兄にかける言葉が見つからない。事情を訊ねるのも躊躇われた。
 「お陰で、もう全部片付いた。お前は何も心配ない」
 手酌の酒がお猪口から溢れる。
 「心配してるわけじゃないけど」
 話が唐突すぎて、自分の身にどんな関わり合いがあるのかすら想像できずにいる。
 「驚いたか」
 「驚いたよ」
 「ま、俺だって、順風満帆ってわけじゃないしな。お前に説教できるほど、立派なことはしてないよ。けどな、お前、まだ何もしてないだろ。俺は確かにしくじったかもしれないけど、お前はまだ何もしてない」
 達郎の鼻の奥に、突つくような何かが込み上げた。
 「兄貴だって」
 「そうだよ」と、兄が首を振る。
 「俺だってまだ三十一だからな。人生棄てるわけじゃないよ」
 「うん」
 年を聞けば、励ましたくもなる。
 「だからさ、ま、お袋あんなんなっちゃったし、俺もこんなんだしで、こっち戻るのが一番いいだろ。落ち着いたら女と籍入れるつもりなんだよ。女もバツがついてんだけど、小学生の子供がいるからさ、そしたら俺、一気にお父ちゃんだよ」
 笑う顔は、満更でもなさそうなのだ。
 「子供いるんなら、それがいいよ」
 素直な気持ちでそう言えた。
 「お前だって、いきなり伯父さんだよ」
 達郎を箸の先で指し、からかうように言葉尻を跳ね上げた。
 「実は、俺も、介護してる」
 達郎の中に湧き上がった衝動は、自身にも説明のできないものだった。
 「なんだよ、介護って」
 兄が顎を引く。
 「赤の他人だけど」
 「ボランティアか」
 「いや、まあ、ちょっと縁があって」
 「お前が、オムツ替えたり風呂入れたりすんのか」
 「そういうんじゃなくてさ。ただ、近所の公園にいたお婆さんが」
 「公園って、あれか、ホームレスってことか」
 「いや、ちゃんと家があったんだけど、事情があって」
 「そりゃホームレスになるくらいの事情はあるだろ、どのホームレスにも」
 ホームレスと繰り返されると、悲しくなった。
 老婆のビニールシートの家を燃やしたのは、達郎なのだ。
 黙り込んだ様子に、兄が咳払いをする。
 「で」
 「で、その人、倒れちゃって、病院に運ばれたんだけど、身元がわからないから入院はさせられないって追い出されてさ」
 「ううん、まあ、しょうがないっちゃしょうがないんだろう」
 「それで、俺んとこ、ちょっと泊めたりして」
 頷いて聞いてくれている兄に、殺人犯も一緒に、とは言えない。
 「しょうがないから、獣医に連れてったら」
 「獣医」
 眉がおかしなふうに歪んでいる。
 「その獣医、すごくいい人で、そのお婆さんの面倒見てくれてるんだよ。で、俺も、そこに連れてった手前、お願いしますってわけにもいかなくて、飯くらい、作りに行きたいと思ってて」
 「はああ」
 兄は、ぽかんと口を開けて、大きな声だ。
 「ま、そんな感じの、介護だけどさ」
 「そういう仕事したらどうだ」
 「そういう仕事って」
 「だから、ほら、病院で世話してくれる訪問介護とかさ、結構いい金取るんだよ」
 「無理だよ、俺じゃ」
 「なんでだ。ホームレスにそれだけできるんだから、同じだろ」
 「違うんだよ。そのお婆さん、顔見知りで、よく話してたし、俺だって、その人がホームレスだなんて思わなかったんだから」
 「ふうん」
 腕組みしながらため息になった兄の目は、それでも真っすぐに達郎を向いている。
 「実は、俺も、なんでこんなことになったのか、よくわかんないんだけどさ」
 人の世話をしている場合じゃないだろうと、呆れられると思っていた達郎には、兄の視線がこそばゆい。
 「面白いもんだな」
 兄の口調は、古くから馴染んだ友だちのようだ。
 「お袋は株、俺は不倫に借金、お前はホームレスの介護。蓋を開けりゃ、みんななんかあるもんだ」
 可笑しそうに言い、厚揚げの、冷めた一切れを口に放り込む。
 蓋を開ければ何かある。
 しみじみそうなのだと思う。
 どの洗濯機にも、入ってるのは汚れ物だ。
 汚れ物があるからコインランドリーに足を運ぶ、それだけのことだった。
 ああ、俺はまだ、溜まった洗濯物を抱えて、ぐずぐずしているだけだなあ。
 ガタガタいう洗濯機を怖がって、近寄ることもできなかった。
 「走り出しそうね」
 あのとき、老婆がそう笑った。
 鼻の奥がずんと突かれる。
 「よし、帰ろう」
 兄が、女将に向いて手を上げた。
 「あのさ、うちによく遊びに来てた、田沢って同級生、覚えてる?」
 財布を出した兄の手がポケットに潜り込む前に溢れ出した達郎の言葉は、むっとするほど暖房の効いた電車に乗り込んでも止まらなかった。
 吐き出して、溜め込んでの繰り返しは、食べて、眠っての繰り返しと同じだ。
 冷たい風の中を歩くうち、豚汁のことしか考えられなくなっていた。
 割高だが、深夜営業のスーパーに行けば、食材は揃う。
 買い物をして、獣医の家へ行って、豚汁を作ろう。

 「そんで、その同級生、結局逃げたのか。すごいなあ」
 心底感心したような兄の口ぶりが、不思議と嬉しかった。「奴が逃げてるうちは、俺、もうちょっとあそこにいようかと思ってさ」
 そのために、働くのだっていい。
 働いて、老婆の飯を作って、田沢の連絡を待つ。
 「そいつが捕まったからって、急にこっち戻られても困るけどなあ」
 「なんで」
 不服そうに尖った兄の口が、笑い出しそうに歪む。
 「だって、嫁いるしさあ」
 照れているのか、シートからずるりと腰を滑らせた。
 「じゃあ俺も、婆ちゃん連れて帰るから」
 「ばか、動けない婆さん二人になったら大変だよ」
 笑い飛ばせばいいことだと、何故、今まで気づかなかったのか。 
 小さな箱の中で、ぐるぐる回っているだけだとしても。
 たった一枚のTシャツが汚れたからって、棄てることはない。
 特別に気に入っているそれじゃなくても、最新流行じゃなくても、たった一枚きりの、自分のTシャツなんだから、洗ってまた着ればいいんだ。
 「今度、兄貴にも豚汁作ってやるよ」
 兄がカバのように口を開けて、欠伸をした。
 達郎と兄を乗せた電車が、人気のない真っ暗な停車駅のホームに口を開ける。
 だらしなく顎を上げて眠りこける兄の、セーターの首に並んだ小さな毛玉が、吹き込む風に一瞬の身じろぎをする。
 達郎は、ダウンジャケットの襟首を掻き合わせて、窓に映し出される自分の顔を、真っすぐに見つめた。

プロフィール

前川麻子(まえかわ・あさこ)
1967年東京都生まれ。舞台・映画女優を経て『鞄屋の娘』で、第6回小説新潮長篇新人賞を受賞し、作家デビュー。著書に『ネイバーズ・ホーム・サービス』(集英社)、『劇情コモンセンス』(文藝春秋)、『ファミリーレストラン』(集英社)、『すきもの』(講談社)、『これを読んだら連絡をください』『パレット』(ともに光文社)、『すべての愛の1%』(徳間書店)、『いつか愛になるなら』(角川書店)、『夏のしっぽ』(講談社)、『ブルーハーツ』(ジャイブ)など。

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