コインランドリー

13

 アパートの階段を上がって行く田沢のよろよろした足取りを見上げて、静かなため息を漏らす。
 ついさっきは人に関わる生き方を選択したのに、すでに逃げ出したい気持ちで一杯だ。
 相手が田沢だからなのか、結局のところは何の覚悟もできていなかったからなのか、わからない。
 だが、決して相反してはいないような気がした。
 偶然に見かけた田沢に声をかけるまでは、確かに達郎自身が自然に求めた関わり合いだ。
 それ以上の迷惑を被ることは、関わり合いではなく、一方的な被害になってしまう。
 かつて、いたぶられている同級生との関わり合いを恐れて無視し続けたことに比べれば、それでも充分な進歩なのだ。
 「鍵、空いてんじゃん」
 田沢が達郎を振り返って囁くように言い、ドアを開ける。
 「俺、ちょっと用事あるんだけど」
 関わろうとしたくせに面倒を避けたがっている後ろ暗さだろう、達郎の物言いは思いがけず言い訳めいた響きになった。
 田沢は黙っている。
 「そうなんだ、ごめんね、すぐに帰るから、ちょっとだけいさせてよ」と、田沢の口調を想定していた達郎は、田沢の静けさが不気味だ。
 とろんとした目つき、引きずるような足取り、反応の鈍さ。
 やはり、何か薬物をやっているに違いないと思っても、問い質す気にはなれなかった。
 田沢の仕草を横目にすると、自然、眉間に皺が寄った。
 敷きっ放しの布団の上にべたりとだらしなく足を放り出して、リズムをとるようにつま先を左右に揺らしている。
 風呂に入ったとは言っていたが、何日、家に帰っていないのか。
 それも、訊けなかった。
 うっかりした話題を振って、なんだかんだと同情を買わされてこのままアパートに居着かれては溜まらない。
 身元知れずの老婆から、ようやく解放されたばかりだ。
 「どうしようっかなあ」
 田沢が間抜けな声を出した。
 「何がだよ」
 苛立ちを抑えることができない。
 「俺、迷ってんだよね」
 「だから、何が」
 「ううん、ちょっとまあ、色々あってさ」
 はぐらかされた途端、達郎の中で、何かがぷつっと音を立てた。
 「知らねえよ、うぜえなあ、陰気な顔しやがって」
 顔を横に向けたまま、勝手に口から流れ出た言葉だった。
 それでも田沢は黙っている。
 ちらりと伺う表情には、いつものにやにや笑いも浮かんでいない。
 苦い気持ちになって、また舌打ちが出た。
 田沢といると、いくらでも舌打ちができるのだ。
 ちゅっと鳴ったそれに、田沢が顔を上げた。
 「うん。そうだね」
 無理矢理に笑おうとして、顔を無様に歪めている。
 小学校の授業で雑談のように聞かされた、ギリシャ神話を思い出す。
 災いを閉じ込めた箱の話だ。
 好奇心に負けて箱を開けると、封じ込めていた数々の災いがあっという間に外の世界に飛び立っていってしまう。
 中年の男性教師は、「どんな災いだと思いますか」と生徒たちに質問した。
 「病気」「伝染病」「狂牛病」、「貧乏」「破産」「倒産」…子供たちが連想ゲームのように次々と挙げる。
 教師は、小さく頷きながら教室を見渡すと、
 「パンドラの箱に入っていたのは、悲嘆、絶望、猜疑心、妬み、嫌悪といった、人の心を蝕むものです。誰か、そういうもの、思いつくかな」
 子供たちの声を遮るように言った。
 子供たちは静かになった。
 達郎は、そんな質問、子供には難し過ぎると思った。
 田沢と接するたびに味わう羽目になる嫌悪感は、複雑なものだ。
 田沢が醜いから、弱いから、身勝手だから、無様だから、情けないから、悲しいから、卑屈だから、痛々しいから、鬱陶しいからと、彼の欠点ばかりが目についてしまうようでいて、その実、そんなことははなから承知で彼とこうしている。
 田沢が嫌いなら、そんなことをいちいちあげつらう必要もないだろう。ただ軽蔑して、適当にあしらえばいいだけだ。
 だが、達郎にはそれができない。
 こんな奴どうでもいいと思っていながら、いちいち気に触る。
 嫌悪のもとは、田沢のそうした欠点を見せつけられるたび、自分が傷ついていることにある。
 何故、傷つくのか。
 達郎にも、ようやくわかった。
 自分自身が透ける。
 日頃必死に誤摩化してきた、自分の嫌悪する部分が、田沢を通して曝 されるような気がして、傷ついてしまう。
 隠し通して、そんなものなどないかのように振る舞っていたものが目の前に突きつけられ、自分の醜さを知ってしまう。
 田沢はパンドラの箱だった。
 人と向き合うことは、鏡に自分を映すことなのだろう。
 老婆と過ごした穏やかなときには、自分が強くなれたような気がした。
 老婆の強さを映しただけだ。
 一人になれば、たちまちに何もなくなる。
 自分は、誰かに何かを映すことがあるのだろうか。
 田沢が嫌な奴なのは、俺が嫌な奴だからなのかもしれない。
 箱から飛び出した災いが、たちまちに達郎の周囲を満たす。
 気がつくと、黙ったままの田沢をしげしげと見つめていた。
 「あれから帰ってないのかよ」
 魚のすり身のような滑らかな声が、達郎の喉を通る。
 「ずっと、あの女と一緒だったんだ」
 田沢が、俯いたまま、ようやく答えた。
 「ずっとか」
 呆れるより先に、驚愕していた。
 セックスのできない田沢が一人の女とずっと一緒に過ごすことなど、想像しなかった。
 「なんだっけ、なんて名前だっけ、あの子」
 もしや、それが田沢の恋なのかと思うと、親身になれそうだった。
 「知らねえよ、名前なんて」
 照れているわけではないようだ。
 「なんでだよ、ずっと一緒にいたんだろ」
 達郎は笑った。
 「行くとこねえって言うから、ラブホ行ってさ」
 黙って聞いていれば、するすると顛末を喋るだろう。
 「風呂入ってさ」
 「一緒にか」
 田沢は、洟を啜り上げた。
 「風呂入って、酒飲んで、カラオケかゲームやって、眠って、また風呂」
 笑おうとしているようだった。
 「今朝も、風呂入ってさ」
 「そりゃふやけるよな」
 田沢が突き出してみせた白い指先が、今は、膝小僧に当てられ、安物の薄い生地をぎゅっと握っている。
 「風呂入んないのって声かけたんだ」
 「ん? ああ」
 惚気話を聞かされるのは、愉快なようで面倒だ。
 だが、田沢のような男がどんなふうに女を抱くのか、興味がないとは言えない。
 「気がつかなくてよう」
 田沢は、顔を上げなかった。
 胡座を崩して両手を膝にあて子供のように体ごとゆっくり揺すっている。
 「何がだよ」
 「ほんとに気がつかなかったんだよ」
 田沢が質問に答える様子はない。
 ただ、体の内側から迫り上がってくる言葉を吐き出すことで精一杯に見えた。
 「気がつかなかった」
 泡立てた卵白のようにやわやわした吐息と共に、呟く。
 その様子に、達郎はぞっとした。
 また、何かが起きているに違いないと、確信したからだ。
 知りたくない何かを、今にも田沢が零しそうになっている。
 達郎は、逃げるように腰を上げた。
 「腹、減ってない?」
 獣医のところに戻って老婆の為に拵えようと買い込んだ材料の袋に手を伸ばす。
 貝柱は使わずにおこう、刺身の乍を切る雰囲気じゃない、粥でもない、もっと腹に力が入りそうなもの、そう、卵焼きだ。
 買い物の袋を元に戻し、ぱすっと軽い音を立てて冷蔵庫の扉を開ける。
 卵を取り出して、ガスが止められていることを思い出し、ここでも、舌打ちが出た。
 買い物の帰りに支払いをしてくるつもりだったのを、田沢と遭遇したせいで忘れていたのだ。
 「ガス、出ないんだった。ごめんな」
 からかうような口調で、ばつの悪さを誤摩化す。
 「あ、卵、食いたいな」
 田沢が、達郎の手元をじっと見ている。
 「いや、だから、ガス止まってんだよ。支払い行くの忘れてて」
 「卵、くれよ」
 にこにこと嬉しそうな目で言われて、戸惑った。
 「まさか、生で食うの」
 「そうだよ。だって卵じゃん」
 「飯炊くよ。卵かけご飯にできるからさ」
 「いい、いい。卵だけでいいから」
 「卵だけって」
 田沢が腰を浮かせて手を伸ばしてきたので、卵を渡してやった。
 受け取ったそれを、両方の掌で大切そうに包み、「つめてえ」と田沢が笑う。
 ふと田沢が可愛らしく見えた。
 「まじで生で食うのかよ」
 「俺、子供の頃さ、事故でちんこダメになったじゃん。オヤジが毎日卵食わせるんだよね。俺、アレルギーなんだけどさ。生卵、ここんとこスプーンでがつって割って、口つけてちゅるって吸えって、泣きながら食ったんだよ、毎日」
 「アレルギーなんだろ」
 笑いが込み上げた。
 「うん。だから、すぐに全身がばあっと赤くなって、ブツブツが出てくんのね。でも、オヤジ、毎日卵持って来て、食え、食えって。俺、こっそり棄てようとしてさ、まだ冷たいから後で食べるって言うんだけど、そうするとオヤジが、そうかまだ冷たいからなって、こうやって手であっためてさ、どうしても目の前で食わせたいんだよね。なんか、それ見ないと気が済まないって感じ」
 考えてみれば、可哀想な話だった。
 「で、ズルできないわけよ。ほんとは、つめたい方が味がわかんなくてまだマシなんだけど、オヤジがあっためちゃうから、余計気持ち悪くなっちゃうんだよ。で、俺、ブツブツでカユカユになって、すぐゲロとかしちゃって、そうするとオヤジ、すげえ怒ってさ」
 「しょうがないよな、アレルギーなんだから」
 「そうなんだよ」
 田沢が笑った。
 「バカやろう、男は辛抱しなくちゃダメだ、ゲロぐらい我慢しろ、男は丈夫でなきゃダメだ、卵くらい食えなくてどうするって、もう鬼だよ、鬼」
 達郎は、嬉しかった。
 田沢の笑いは弱々しく、顔を歪めてはいるが、きゅっと細くなった目が心底の可笑しさを感じさせる。
 「そんなさあ、生卵毎日食ったってちんこ元に戻んねえよってな」
 「すげえな、おまえのオヤジ、まじ鬼」
 二人は声を立てて笑った。
 「なんか、オヤジ、必死になっちゃってさ、可哀想だろ」
 卵を包んでいる田沢の掌が、勢いよく額に打ち付けられる。
 「ばか、何してんの、おまえ」
 達郎の笑いは止まらなかった。
 額で割われた卵の白身が、畳の上にずるっと滑り落ちる。
 潰れた黄身が鼻筋に流れて、サッカーのサポーターが顔面を国旗にペインティングしたようだ。
 田沢の口もとが、ぬらぬらと光る。
 笑いながら指さして、それが卵ではないと気づいた。
 田沢は泣いていた。
 達郎の笑いが、退いていく。
 田沢は、顔中を濡らして、泣いているのだ。
 ずうずうと鳴る苦しげな鼻呼吸の音だけが、薄汚れた砂壁に挟まれて、膨張した。
 「俺、バカでしょ」
 しばらくして振り絞られた声に、ぎゅっと胃袋を掴まれるようだった。
 「体も頭もまともじゃないなんて、人の出来損ないだよね」
 それでも込み上げる嗚咽を堪えている。
 「そんなのずっと前からわかってるって」
 笑い飛ばしてやりたいのだが、うまく笑えない。
 「出来損ないってもさ、完璧な人なんていねえと思うしさ」
 相手が女であれば黙って抱きしめることもできるのに、どうしてつまらない慰めのような言葉しか出てこないのか。
 「みんな同じだよ」
 「同じなはずないだろ」
 田沢の言葉は悲鳴に聞こえた。
 「同じなんだよ、バカ。俺だって、どうしようもないこといっぱいあんだよ。自分だけが出来損ないみたいに思って、結局は逃げてんだ」
 達郎は、田沢の苦しみを受け止めてやれなかった。
 「バカなのは判ってるんだから、バカって言うなよ。今更バカって言われたって、もうおせえよ」
 向き合わないままの言い争いは、すぐに収束した。
 やりきれない気持ちだけが、乾き始めた卵のように、互いの顔にへばりついていた。
 今、ここで「頼むから何があったのか全部話してくれ」と達郎が嘆願すれば、田沢は事情を打ち明けるだろう。
 なんの力になれなくとも、話を聞くくらいのことはできるのだ。
 あの女の事情をうっすら察したときも、そうだった。
 自分は何故、「話してくれ」と言えないのか。
 何故、「何があったのか」と訊けないのか。
 関心がないわけではないのに、人の事情に踏み込む勇気がない。
 他人が抱え持つどうしようもない現実を知って傷つくことが恐ろしいだけだ。
 流しで濡らしたタオルを差し出すと、田沢は黙って受け取った。
 作りかけのジャムの鍋に水を流し込み、固まりになって浮かんでくる原形を失った苺を、ぼんやりと見つめた。
 こうした局面に立つと、結局はこれまでと同じように、誰とも関わり合いたくないと願ってしまう。
 ささやかな覚悟も、すぐに貝の身となって胸の底へ潜り込む。
 「俺、行くわ」
 田沢の声には、振り返らなかった。
 「オヤジ、鬼だからさ。逃げろって言われたけど、無理だわ、俺。バカだし」
 田沢は何から逃げるのだろう。
 自分には到底背負い切れない他人の惨め人生ばかりが、吹きだまりのようにこの部屋に積もる。
 義父を殺した女と出逢い、身よりのない老婆を抱え込み、しでかした何かから逃げることをやめた田沢を拾い、世の中のそこかしこにある惨めな人生に呑まれて、今にも溺れそうだ。
 「逃げるってなんだよ」 
 達郎に何も言わせまいとするように、田沢は、汚れたタオルを突き返した。
 「出来損ないだし、多分俺が捕まっても、みんな、ああ、あいつならそういうことやるだろって思うだけだろうし」
 「何やったんだよ、おまえ」
 達郎が咄嗟に掴んだ腕を予想以上の力で振りほどいて、顔を背ける。
 「でも、最後に逢えたのが古橋くんでよかったな」
 いつもの卑屈な上目遣いをわずかに残して、田沢は、部屋を出て行った。


 テレビをつければ、田沢がしでかした何かが判るかもしれない。
 だが、達郎はそうしなかった。
 代わりに、買い込んだ食材の袋を手に、さっさと出かければいい。
 知ったからといって、どうもできない。
 女の事情や、老婆の過去や、田沢の現実など、達郎が彼らと関わり合う形の中では、なんの意味も持たないのだ。
 買い物の袋を抱えたまま、がっくりと脱力して台所にしゃがみ込んだ。
 自分が人と関わり合う覚悟をして、忠実にそれを実行したところで、関わる誰かにとって何かの意味があるのだろうか。
 勝手な事情を適当に誤摩化すばかりで、自分に打ち明けるわけでもない。
 そんな関わり合いの中で、自分だけが振り回され、相手の咎に自分を映し、苦しむ。
 関わる相手が自分に何を映しているかなど、判らない。
 もしや、自分の存在は、そこに映っているだけの実体のない陽炎のようなものなのではないか。
 誰の心を映し出すこともない、ただの脆弱な曇りガラスなのではないか。
 他人の事情を知った先にあるのは、自分はどうすべきなのか、何ができるのか、何をすればよかったのかと、覚悟と迷いと後悔を何巡にも繰り返す無益な苦しみだけだ。
 これまで通り、人を深く知ることなく毎日を暮らしていけばいいだけのことだった。
 見ず知らずの女の罪や、嫌っている田沢の事情など、関係のないことだ。
 あの老婆にもひとまずは落ち着く場所があるのだから、何もわざわざ食事の心配をする必要などない。
 それほどの余裕が自分にはないのだから。
 生傷に爪を立てるように、繰り返し念じる。
 関係のないことだ。どうでもいいことだ。自分のことを考えろ。
 そう唱えるたび、ぎすぎすと胸の奥に軋む音を立てる何かがある。


 気がつくと、アパートの階段を転がるように駆け下りていた。
 あの足取りなら、まだ駅には着いていないだろう。
 猫を探すより簡単に見つかる。
 駅前の交番か。
 田沢が駅前のベンチにいたのは、そういう理由だったのだ。
 すれ違う人に何度もぶつかりながら、走った。
大きな通りにぶつかって、どちら側の歩道に渡ろうかと躊躇したが、人通りの少ない側に渡るまでの赤信号を待てず、そのまま進む。
 だが、田沢のような状態であれば、うかうか赤信号を待っていそうな気がする。
 次の信号が運良く青に変わった。
 今度は、通り過ぎた距離を振り返りながら、急ぎ足で行く。
 駅前に抜ける道との角にある立ち食いソバ屋の前で、田沢を見つけた。
 自動ドアの前にぼんやりと立っている。
 「田沢」
 達郎の声にも気づかない。
 「おい」
 もつれる足を支えるように田沢の肩に手を置くと、硬い反応が伝わった。
 だが、達郎を振り向いた表情は、やはりどこか脱力している。
 「なんだ」
 安心したように言うが、とろんとした目と、うっすら開いた口は、気持ちが緩んでのものではないようだ。
 追いかけて見つけたはいいが、さてどうしようと、また迷う。
 そのまま行かせてはいけないような気がして駆け出したが、田沢の顔を見た瞬間に結局は行かせるしかないのだと気づいていた。
 「どうした、ソバ食うのか」
 達郎が訊くと、田沢は「あはははは」と声を上げて笑い出した。
 「いいね、ソバ、ソバ、食おうよ。俺が奢る」
 その場しのぎの無意味な笑いに追従して、田沢の肩を叩いた。
 「うん」
 大人しく頷いた田沢が、達郎を見上げる。
 「俺も腹減ってたんだよ。ガス止まってるしさ」
 「そうだね」
 ひきつったように上唇を持ち上げているのは、微笑んでいるつもりなのだ。
 田沢の背中を押すようにして店に入り、食券販売機の前で振り返る。
 「俺、天ぷらソバ」
 間髪入れずに言うあたりはいつもの厚かましさだが、どこか達郎に気を使っているようにも感じられた。
 カウンターに天ぷらソバの券を二枚置いて、二人が並ぶ。
 店内にいるのは、競馬新聞を開いている小柄な中年男一人で、店のテレビに映されている競馬中継から目を離そうとしない。
 「どうして追いかけて来てくれたんだよ」
 やたらとべたついた声で、田沢が脇腹を突つく。
 女の子の仕草なら可愛いと思ったかもしれないが、相手は田沢だ。
 「うぜえよ」と振り払いたい気持ちを飲み込んで、大きく息を吸った。
 「俺のこと、心配?」
 唾が混じるような粘つく言い方をして、俯いている。
 「別に、おまえが何やったとしても、関係ねえけど」
 言いながら、違う、と思った。
 「ただ、腹減ったし、暇だったし」
 田沢は俯いたまま、小さく頭を振って、頷いてみせた。
 「お待ちどう」と置かれた丼が、ぷんと醤油だしの湯気を昇らせる。
 二つの丼を順に下ろして、これでもかというほどに詰め込まれている箸立てから、割り箸を引き抜いた。
 田沢はもう丼の上に顔を被せている。
 「どうすんだ、これから」
 箸を割る勢いで、ついでのように口にした。
 天ぷらから汁を滴らせる田沢が、こちらを見る。
 「うん」
 達郎も、丼を抱え込んだ。
 実際、たまらなく空腹だったのだ。
 「やっぱ、怖いんだよね、なんか。俺、ほんとビビリだからさ」
 田沢が、ずずとソバを啜る。
 「何がだよ」
 顔を上げずに訊いた。
 「全部だよ」
 「全部って」
 「逃げんのもさ。だって、逃げるってことは、追いかけられるってことじゃん、怖いじゃん」
 「ま、そうだろうけど」
 天ぷらは野菜のかき揚げだが、濃いめの汁に浸かって柔らかくなって、煮物のような味がする。
 「けどさ、逃げないで出てくのも怖いんだよ」
 「出てくって」
 「だって、俺どうなるんだろうってさ」
 「おいおいおい」
 カウンターの奥で目一杯に首を伸ばしてテレビを観ていた男が、大きな声を上げた。
 画面には、着順を表示する競馬場の電光掲示板が映されている。
 「ま、どうなってもいいやとも思うんだけどね」
 丼に口をつけて汁を飲む田沢の表情は伺えないが、声には、さっきよりずっと力がある。
 「まだ、決めらんねえよ」
 丼を持ち上げていた手が置かれると、鼻の頭がほんのりと赤くなった子供のような顔が見えた。
 「そうか」
 ソバはすでにのび始めていて、啜るほど増えるようだった。
 「大丈夫、古橋くんに会ったこと、誰にも言わないから」
 「別に、いいけどさ」
 いっそ巻き込まれた方が、自分のすべきことがあるように思う。
 「ようっしゃ」
 奥の男が、カウンターに叩き付けるよう競馬新聞を鳴らし、勢いよく振り返る。
 「ごっそさん」
 いそいそと店を出て行った男を見送るように首を回した田沢に、にやにや笑いが戻っていた。
 「当てたんだね」
 達郎を見て、嬉しそうに言う。
 「だろうな」
 「あのオッサン、きっと、今までいいことなんか全然なかったんじゃないかな。けど、今日はいいことがあったんだ。人生って、そういうもんだよね」
 にやにや笑いで達郎を見たまま、そんなことを言う。
 「きっと俺もさ、ほんと今まで全然いいことなんてなかったけど、もしかしたら、今日とか明日とか、いいことあるかもしんない」
 カウンターに置いた田沢の肘が、達郎を押し出すように迫ってくる。
 「そうだな」
 「それとも、もしかしたら俺が贅沢なのかもしんないよね。今までのこともほんとはいいことだったのに、自分でそうって思えなくて、もっといいことないかなって、ただ欲張ってるのかも」
 「ああ」
 「だとしたら、この先、きっといいことなんかないよね」
 「そりゃわかんないよ。欲張っていい思いばっかりする奴だっているだろ」
 「うん。だとしても、なんかもうどっちでもいいかな。どっちにしたって、人生ってそういうもんだと思うよ」
 田沢は、可笑しそうに声を立てて笑った。

 立ち食いソバを出て、駅まで並んで歩いた。
 「どうすんだよ」と、もう一度訊く。
 「古橋くんには、またいつか会いたいな」
 わざわざ足を止めて達郎を見上げ、そう言うと、田沢はまた俯いた。
 不意に、「逃げろよ」と、小さな呟きが湧いた。
 それが自分のものと気づくのに、少し時間がかかった。
 「え?」
 田沢が笑いを浮かべたまま、聞き返す。
 「逃げろよ」
 今度は達郎が足を止めて、田沢の腕を掴む。
 「とりあえずでいいから、できるだけでいいし、逃げろよ」
 田沢は、達郎から視線を反らして、にやにや顔を更に歪めた。
 「おまえが何したのか知んないけどさ、いいじゃん、逃げられるだけ、逃げればさ」
 「へえ」
 顔を反らしたまま、力ない声が返された。
 「古橋くんがそんなこと言うなんて、意外だよ」
 皮肉のつもりではないらしかった。
 「なんでだよ。俺、逃げて欲しいんだよ」
 道の真ん中で、男二人が腕を取り合って立ち止まっている様子が人目を惹くのか、通る人が皆こちらをちらちらと見るのがわかる。
 「ま、考えとくよ。俺、ほんと、まだ何も決めらんないからさ」
 言いながら体をねじって、達郎から逃れると、田沢は小さく手を振った。
 「じゃ、そういうことで、また」
 そのまま、振り返りもせず、駅の改札に吸い込まれて行く。
 もう、その背中を追いかけようとは、思わなかった。

プロフィール

前川麻子(まえかわ・あさこ)
1967年東京都生まれ。舞台・映画女優を経て『鞄屋の娘』で、第6回小説新潮長篇新人賞を受賞し、作家デビュー。著書に『ネイバーズ・ホーム・サービス』(集英社)、『劇情コモンセンス』(文藝春秋)、『ファミリーレストラン』(集英社)、『すきもの』(講談社)、『これを読んだら連絡をください』『パレット』(ともに光文社)、『すべての愛の1%』(徳間書店)、『いつか愛になるなら』(角川書店)、『夏のしっぽ』(講談社)、『ブルーハーツ』(ジャイブ)など。

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