3週間滞在したラングホブデの雪鳥沢小屋。おそらく今日が、最後の夜になる。
明日には荷物をすべて撤収して、昭和基地のそばに接岸中のしらせへいったん戻り、一泊する。採取した試料をしらせに置き、新たに食糧補給をしたのちに、別の露岩域に入るためだ。
午後8時。いつも通り、昭和基地と無線での定時交信が始まった。
昭和基地からの気象情報によると、今日の午後から天気が荒れ始める予報だった。
なんだか信じられない。驚くほど平和で、とにかく穏やかな空気が流れている。天候も、今のところ崩れる気配がまったくない。
明日、天候がよければ、これをすべてヘリコプターまで運び、積みこまなければならないのか……3週間前に持ってきた大量の荷物を見ると、3週間前に感じた気持ちと同じように、少し途方に暮れてしまう。
明け方4時頃、徐々に強風が吹き始めてきた。風速25m/sもの風が、砂と海水を巻き上げながら止まることなく轟々と吹き続け、小屋をガタガタと揺らし、砂粒が壁を打ちつける音が朝まで鳴り響いた。小屋ごと吹き飛ばされてしまうのではないかと、不安を感じながら浅い眠りが続いた。
朝になるとそのまま強風が吹き荒れてはいたが、間欠的な吹き方に変わってきた。しかし、止んだかと思うとまた突風が吹くのであまり油断はできない。
決死の思いで重い玄関を開けて外へ出ると、真正面にいつも見える5km先の長頭山がまったく見えない。荒い岩肌の間を低い雲が生き物のように動いてゆく。
この天候ならば、ヘリコプターが飛び立ってここまでくることはないだろう。まだ数日、ラングホブデに滞在することになるに違いない、そう思い、外の天候と物資を気にしながら小屋の中でゆっくり過ごした。
夕方になると、あれほど吹き荒れていた風がピタッと止み、急激に天候が回復していった。
夜10時30分、急遽、昭和基地から無線連絡が入った。
「明日、しらせの大型ヘリコプターCH101でラングホブデへ迎えに行く。ただし、積載できる物資は500kg程度のみ。さらに、明日を逃すと、CH101はしらせから昭和基地への物資輸送に専念するため、当分の間、そちらへ迎えに行くことはできない」
さて、どうしようか……。
今ここにある物資は、全部で約3500kg。なんとかして、荷物を厳選し持っていくしか他に方法が見つからなかった。
現在、時刻は夜11時を回っている。ピックアップは明日の朝8時。今すぐに、ピックアップに向けた準備を開始しなければ間に合わない。仲間たちと3名で作業を急いだ。
幸い、今は白夜の季節。太陽は斜めから差し込み、いつになっても沈むことはない。
作業を開始して5時間、午前4時になると、やっとのことで作業が終わった。もはやみな、クタクタに疲れた表情をしている。なんとか物資を500kgほどにまとめ、ヘリコプター着陸地点のすぐそばにかためた。
少しホッとしたのか、全員に張りつめていた空気がほどけたように感じた。
物資を全部持っていけないのは本当に困る。計画していた調査の半分近くができなくなるかもしれないのだ。しかし、今は他にどうすることもできない。いつ移動できるかわからない状態で、数日間ないし数週間待つのはきわめて危険だ。食糧もあと1週間分程度しか残っていないのだ。
それに、南極の夏は極端に短い。まだまだたくさんやらなければならないことがある。あと1か月で、南極大陸を離れなければならない私たちは、今ここに残っている場合ではなかったのである。
それよりも、この状況でできるだけのことをやるのが一番よい選択だと、黙々と荷物の準備をしている間に、自分の中で妙に納得し、すっきりしていた。
幸い、1か月後に南極大陸を離れる直前にはCH101を使用できるため、またここに戻ってきて、これから残置していく荷物を取りにくることはできる。
さて、今日は久しぶりの風呂だ。そう思うとなんだか口元が緩んでしまう。
楽しみでしかたないのだ。風呂など、昨日まではどうでもよかったのだが、いざ、もうすぐ入れるとわかると、かなり待ち遠しい。きっと、他の二人もそう思っているに違いない。
しかし、それよりももっと楽しみなことが私にはあった。それは、明後日から1か月間滞在する、スカルブスネス露岩域へ行けることだ。
スカルブスネスは、ラングホブデよりもさらに南、昭和基地から約60kmの位置にあって、この昭和基地周辺にいくつかある露岩域のなかで最も広い。スケールの大きさ、観測小屋から見える景色、いくつも点在する湖。どれをとっても素晴らしく、ワクワクする。私が一番好きなエリアである。
迎えが来るまでのあいだ、朝食をとり、ゆったりとした空気が流れる中でそれぞれの時間を過ごしながら待った。
いつの間にか、雲はほとんど消え、白夜の晴れ上がった青い空が広がっていた。向こうには長頭山がくっきりと見える。その横には、波のような羊のような、帯状の雲が白く光り輝いている。恐ろしいほどに穏やかな空気だ。気温はなんと8℃、風もなく、本当に気持ちいい。
ずっとこんな天候が続けばいいのに。
なんだか急に寂しくなってきた。さっきまでは荷物の準備でそんなことを考える間もなかったが、ラングホブデと今日でお別れなのだ。
たったの3週間。短かったが、クリスマスも年末も正月もここで過ごした。初日の出がない元旦を小屋の外に出て迎え、隊の旗を持ってみんなで笑いながら記念撮影をした。
まさかこんな正月が来ることなど、こどもの頃は想像もできなかった。
雪鳥沢、ヤツデ沢、平頭氷河、その途中途中で暮らしている生き物たち。この小屋をベースにして、毎日のようにいろいろな場所へ足を運び、歩き回った。それでも、時間がなくて、行けなかった場所もある。できることなら、ヤツデ沢のもっと南側、ハムナ氷瀑(ひょうばく)という氷河の近くまで足を運んでみたかった。
しかし、それはまた今度。いつかまた、この雪鳥沢小屋に来たら絶対に行こう。
長頭山がよく見える岩の上に腰掛けていると、ふと、一羽のナンキョクオオトウゾクカモメがすぐ横に飛んできた。
特にいたずらする様子もなく、こちらをじっと見ている。少しゆったりとした雰囲気とその顔。
間違いない、いつもの水汲み場で水浴びをしているあのトウカモだった。
「じゃあ、またね」
小さな声で彼に別れを告げた。すると、水かきの付いた足でトコトコと歩き、翼を羽ばたかせて去っていった。
あのトウカモはなぜ、私の目の前に飛んできたのか。トウカモが何を伝えようとしていたのか、私には知る由もない。彼はただ、黙ってポカポカ陽気を浴びたかっただけなのかもしれないし、なんとなく地面を踏みしめたかっただけなのかもしれない。
けれど、一瞬だが、あの時、私とトウカモが共有した時間があった。ただそれだけのことなのに、その時間は私の中である輝きをもっていた。
またここに戻ってくるまでの1か月間、いや、もしその時遭えなければきっと数年間、彼はこの先毎年ここに来て夏を迎え、秋になるとどこかへ旅立っていく。私が日々の暮らしに追われているのと同じ時、彼もそんないつも通りの時間を生きているのだろう。
決して交差することのないはずの二つの時間が、あの時、確実に交差していた。
ゴゴゴゴゴゴゴ…………
来た!
午前10時15分、予定より約2時間遅れで、迎えのヘリコプターの爆音が聞こえてきた。発煙筒を焚き、オレンジ色の煙でこちらに誘導する。久しぶりに見るCH101。
そばに並べておいた500kgの荷物の上で体を伏せ、フードをかぶり防御態勢をとった。轟音と爆風とともにバチバチと砂粒が全身を打ちつける。何度経験しても嫌な時間だ。
やっと砂が飛んでこなくなり、エンジン音だけがけたたましく鳴り響いていた。立ち上がって、体から砂をはらっていると、機内からしらせ乗組員が数名降りてきた。みな、驚くほど嬉しそうな表情を浮かべ、はしゃいでいる。
そうなるのもしかたがない。なぜなら彼らはずっと船の中で仕事をしているので、せっかく南極に来ているのに、大陸上に降り立つ機会がほとんどと言っていいほどないのだから。
500kgの荷物の積み込みはすぐに終わったが、飛び立つのはまだ10分後ということだった。
記念撮影をする人、地面に手を触れてみる人、歩き回る人、岩の上にすわって景色を眺める人、雪鳥沢小屋の中を覗く人、みな思い思いの南極大陸を心の中に焼きつけていた。
初めて降り立った南極大陸、しかもそこには信じられないような風景が広がっている。少しでも長くとどまっていたいという気持ちはとてもよくわかる。
予定の10分間はすぐに過ぎ、みな名残惜しそうに機内に乗り込んでいく。
ついに、ヘリコプターが離陸した。窓に顔を押しつけ、外をのぞき込む。雪鳥沢小屋がみるみる小さくなっていく。どんどん高度が上がり北上を始めると、すぐにラングホブデの全景が見渡せた。小屋はもはや、小さすぎて認識できない。
ヤツデ沢、氷河池、平頭氷河、雪鳥沢、雪鳥池、東雪鳥池……、3週間歩き回った場所を猛スピードで通り過ぎてゆく。ついに長頭山を越え、赤茶けた岩肌が広がるラングホブデから離れてしまった。
眼下にはもう、白と青だけでできあがった世界がどこまでも広がる風景しかない。海氷上にところどころできた水たまりが、絵の具を落としたような水色をしている。
今私たちが見ているのは、数万年、いや百万年前と何も変わらない世界なのだろう。
大きなテーブル氷山の脇に、いくつもの小さな黒い点が見える。私はいつまでも、窓の外に広がるすさまじい景色から目が離せなかった。人間の手が届かない氷原を、そして、小さな黒い点でしかないウェッデルアザラシがのんびり寝そべる世界を、私はただただ呆然と見下ろしていた。
10分ほど飛ぶと、果てしなく広がる氷原の中に、オレンジ色の点がポツンと見えてきた。
しらせだ。どんどん大きくなる。
ヘリコプターはゆっくりと飛行甲板に着陸して、ブレードの回転が止まるまで機内で待った。次第に音が小さくなり、ブレードが止まった。機内が静かになり、ドアが開くと、真っ白な海氷の照り返しが眩しかった。サングラスをつけて、慎重にはしごを3段下りたところで、私たちは久しぶりのしらせに降り立った。
船に残る仲間たちと再会し、握手を交わした。
なんだか不思議な気分だった。
野外から久しぶりに戻ってきた私は、いろんなことに驚き、違和感だらけだった。
楽しみにしていた風呂よりも、まずはトイレに驚いた。トイレというものがあって、ドアには鍵がかかり、用を足したあとは水で流す。それよりも驚いたのは、水道があって、ひねるとそこから水が出てきて、それで手を洗えるということだった。久しぶりに手がきれいになった。
時間になると、温かいご飯も出てくる。野外では自分たちだけでご飯を作る。だから、何もせず、黙っているだけでご飯が食べられることに、またもや驚いた。
ついに念願の風呂。久しぶりに鏡でちゃんと自分の顔を見る。フェイスマスクと日焼け止めのおかげだろう、意外と日焼けしていない。温かいシャワーがとても心地よく、すぐに最高の気分になった。しかし、頭と体を1回洗っただけでは泡立つ気配さえない。3回目にしてやっと泡立ったのだった。温かい湯船に浸かると、体の芯からあたたまり、私は幸福感に満ちあふれた。
入浴後、意気揚々と、着の身着のままだった服、帽子、手袋などを洗濯すると、砂や泥で水が真っ黒になった。
これらのことには、驚いた、というよりも、感動した、という表現のほうがより近いかもしれない。私たちの日々の生活の中で、これらは何の変哲もない、ごくごく当たり前のことだ。けれど、この日、私はそんな些細なことが本当に新鮮で心から感動したのだった。
さて、ついに明日はスカルブスネスだ。
深夜、甲板に出ると、太陽が低く傾いていた。白い氷原が、オレンジがかったあたたかい色に染まっていた。
もうすぐ白夜が終わり、太陽が沈む季節が来る。