「ありがとうございました」
 三十万の封筒をひったくるように手にした孝昭は、礼を述べることも忘れ十件目の東海クレジットを飛び出した。
 腕時計の針は、午後八時を回っていた。
 松沢との約束の時間は午後七時。ヤバい……ヤバ過ぎる。
 エレベータに飛び乗り、携帯電話の電源を入れた。
 ほどなくして、ディスプレイに受信メールを告げるマークが浮かんだ。
 二件、三件、四件……次々と浮かぶメールマークに、背筋が凍てついた。
 最終的に、受信メールは十三件に及んだ。
 メールだけでなく、不在着信も十件入っていた。
 メールも電話も、すべて松沢からのものだった。
 五件で五十万を借りて二百五十万を揃えるという計算は、すぐに崩れ去った。
 もう既に二件で百万を借りているということで、三件目では三十万が限度額だった。
 四件目以降からはあたりまえのように三十万が上限となり、最終的には二百五十万に達するまでに十件ものサラ金を回るはめになってしまった。
 メールを開く勇気はなかった。
 なにはともあれ、松沢に電話を入れなければ……。
 電車が飛び込み自殺でストップした。タクシーが大渋滞に巻き込まれた。娘が高熱を出したので病院に連れて行った。急に眩暈に襲われ……。
 コール音を聞いている間に目まぐるしく浮かんだ「遅れた理由」を、孝昭は打ち消した。
 どんな言い訳も、松沢の怒りの火に油を注ぐように思えたのだ。
 『てめえなにやってんだっ、こらぁ!』
 コール音が途切れるなり、松沢の怒声が携帯電話のボディを震わせた。
 「す、すみません……サラ金でお金を借りていたら遅くなりまして……」
 『言い訳すんじゃねえ! とにかく、さっさとこいや!』
 一方的に、電話を切られた。
 孝昭は、青褪める余裕もなく手を挙げタクシーを止めた。
         ☆          ☆
 池袋西口でタクシーを降りた孝昭は、指定されたバー『アミーゴ』にダッシュした。
 地下にあるそのバーに足を一歩踏み入れた孝昭は、すぐに異変に気づいた。
 フロアの中央の席に大股を広げて座る松沢と美華以外に、客の姿が見当たらなかった。
 「遅れて申し訳ございません」
 孝昭は頭を下げながら、松沢のもとに駆け寄った。
 「どんだけ待たせりゃ気が済むんだ!? おら、これみろよっ。俺を肺癌にする気か!?」
 松沢が、吸い殻が溢れる灰皿を指差し孝昭を睨みつけた。
 「本当に、申し訳ございませんでした」
 孝昭は席に着き、あたりに首を巡らせた。
 ほかの客がいないのも不自然だが、店員が注文を取りにくる気配もなく……というより、ウルフカットを金に染めたホストのような若い男が、カウンターの中で漫画を読んでいた。
 「この店はよ、ウチの若い衆にやらせてる俺の店だ。今夜は、貸し切りにしてあってな」
 若い衆という響きが、自分がとんでもない相手と関係を持っているのだと再認識させた。
 「松沢さんのお店ですか。凄いですね。でも、どうして貸し切りに?」
 孝昭は、恐る恐る訊ねた。
 「その前に、金を出せや、金を」
 「あ、すみません」
 孝昭は、各サラ金の封筒をそのままテーブルに置いた。
 「二百五十万あるかどうか、数えろや」
 松沢は美華に封筒を渡し、パッケージから抜いた煙草を思い直したようにふたたび戻した。
 「煙草の煙ってやつは、吸わない人間のほうが害になるって言うからよ。とくに、妊婦の横じゃ吸えねえな」
 「え……妊婦?」
 孝昭には、松沢がなにを言っているのか意味がわからなかった。
 「お前、お腹の赤ん坊に煙草の煙が悪いってこともわかんねえのか?」
 松沢が、呆れ顔で孝昭をみた。
 「それはわかりますけど、誰が妊婦なんですか?」
 「美華に決まってんじゃねえか! 俺が、妊娠してるようにみえるか?」
 松沢のジョークが、鼓膜から遠ざかった。
 「どうした? 顔色が悪いぞ? パパになったっていうのに、嬉しくねえのか?」
 「パ……パパ!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
 「なんだよ? てめえがパパじゃねえっつうんなら、美華の腹の赤ん坊は誰のガキだっつうんだよ!? 次から次に、いろんな男とヤリまくってたっつうのかよ!」
 松沢が掌をテーブルに叩きつけ、立ち上がった。
 なぜ、貸し切りにした店に呼ばれたかの理由が読めた。
 しかし、妊娠などありえない。あのとき自分は……。
 「で、ですが……私は避妊をしていました」
 孝昭は、ライオンの檻に飛び込む勇気で言った。
 「ゴムなんて避妊率八十パーセントって言われてるくらいだから、あてになんねえんだよ。製造過程で穴が開いてる不良品や、逆流した精子が根もとから漏れるケースもあるってんだからな」
 「そんな無茶な……」
 「だったらてめえは、美華が同時期にほかの男ともおまんこしてたっつうのか! 美華が売春婦みてえに誰彼構わず股開いてたっつうのか!」
 「ひどい……」
 「いえ……そういう意味じゃ……」
 「そういう意味じゃなかったら、どういう意味なんだよ! てめえのガキじゃなかったら、美華がほかの男とおまんこしてるか、俺が嘘吐いてるかのどっちかだろうよ!」
 「すみません……じゃあ、私は、どうすればいいんですか?」
 正直、松沢が嘘を吐いていると思っていた。いや、本当に妊娠しているとしても、ほかの男の子供に違いない。
 美華が、売春婦みたいに誰彼構わず股を開く女か?
 孝昭の答えはイエスだった。
 だが、そんなことは恐ろしくて口に出せなかった。
 「はらんだのは俺じゃねえしな。おい、どうしてほしいよ?」
 松沢が、さっきから俯き冥い表情の美華に話を振った。
 「私……産みます。孝昭さんの子供を産みます」
 顔を上げた美華が、孝昭の双眼を力強く射貫いた。
 「産みますって……」
 孝昭は絶句した。
 十六歳の少女の父親なんて、朝海や会社の同僚、そして近所の住民になんて言い訳をすればいいのだ?
 「よっしゃ、お前がそこまで決意してるなら話ははやい。あんたも、もちろん認知するんだろうな?」
 松沢が、椅子に腰を戻しながら当然のように孝昭に同意を促した。
 「認知ですって!? そ、そんなの、できるわけないじゃないですか!」
 今度は、孝昭が席を蹴った。
 「やることだけやっておいてあとは知らねえだなんて、通用すると思ってんのか!」
 松沢がふたたび立ち上がり、孝昭の胸倉を掴んだ。
 「そ、そんなふうには言ってません……ただ、認知だなんて……」
 「なら、堕ろさせようか?」
 「そ、そうして頂ければ……非常に助かります」
 ここは、はっきりとさせておく必要があった。
 中絶をするとなれば、さらに二、三十万の費用が必要になるが、背に腹は変えられない。
 もう、サラ金を十件も借りているのだ。一件くらい増えようが変わりはしない。
 「わかった。まあ、座れや」
 てっきり怒鳴られるかと覚悟していたが、意に反して松沢は冷静な口調で着席を促した。
 「中絶費用は、もちろんお支払い致しますから。本当に、申し訳ありませんでした」
 「謝る必要はねえさ。金さえ工面してくれたら、俺も美華も文句はねえよ。これだけ、用意してもらおうか」
 松沢が、パーを目の前に出した。
 五十万ということか? とことんまで、足もとをみられている。
 だいたい、中絶費用にそんなにかかりはしない。
 「あの……怒らないで聞いてください。五十万というのは、慰謝料を含めての金額でしょうか? お支払いしたいのは山々なのですが、もう二百五十万も借りてるので、これ以上……」
 「あ? お前、なに言ってんだよ? 誰が五十万だなんて言ったよ?」
 「え?」
 「桁がひとつ違うんだよ、桁がよ」
 「桁がひとつ違うって……まさか、まさか……」
 孝昭の脳内は、あまりのショッキングな展開にショート寸前だった。
 「お前、こんな簡単な計算もできねえなんて、バッカじゃねえの! 五百万だよっ、五百万!」
 「ど……どうして、中絶費用に五百万もかかるんですか!」
 さすがに温厚な……というより、臆病な孝昭も堪忍袋の緒が切れた。
 「お前、十六の少女が四十のおっさんにはらまされてよ、肉体的、精神的にどんだけ傷ついてると思ってんだ!? あ!?」
 「だ、だって、彼女は、自分のほうから言い寄ってきたんですよ!」 
 孝昭の言葉に、美華が両手で顔を覆いいきなり号泣した。
 「おらっ、泣いちまったじゃねえか! こら!」
 「そんなこと言われても、私からは誘ってないのは事実なわけですから」
 勇気を振り絞って、孝昭は反論した。
 二百五十万でさえキュウキュウなのなのに、その上五百万もの負債を背負うとなれば本当に破産してしまう。
 というよりも、もう限度額が一杯で借りられないはずだ。
 「わかった。じゃあ、はっきりさせようぜ」
 一転して落ち着いた口調で言うと、松沢がニヤリと笑った。
 「どういう意味です?」
 「お前の言うことが正しいか美華の言うことが正しいか、女房と娘の前で白黒はっきりつけようじゃないか?」
 「え……」
 孝昭は、絶句した。
 それはまずい……まず過ぎる。
 自分は嘘は吐いてないし、誘ったのは美華のほうだ。だからと言って十六歳の少女とセックスしたという事実に変わりはないのだ。
 「さ、いまからあんたの家に行こうか?」
 「いえ、それはちょっと……」
 「なんで? 誘ってきたのは美華だから、てめえは悪くないって自信があんだろ? だったら、家族の前で堂々と言えばいいじゃねえか? てめえの女房が、夫が正しいから一円の金も払わないって言ったら、俺達はもうなにも言わねえよ」
 松沢の口もとには、薄笑いが浮かんでいた。
 孝昭は、この期に及んでヤクザの恐ろしさを身に染みて実感していた。
 ひとりのサラリーマンに少女を近づけ、色仕かけで誘惑し、未成年を買春したとして金を揺すり取る。
 それはまるで、詰め将棋のように計算されたシナリオだった。
 今回の妊娠騒動も、ふたたび自分から金を脅し取る絵図を美華とふたりで描いたに違いない。
 この前はまんまとやられるがままに金を払ったが、同じ手に乗るつもりはなかった。
 「私と一緒に病院に行って、検査を受けてください」
 孝昭は、松沢の眼をまっすぐに見据えて言った。
 「なんだと!?」
 松沢の眉間に縦皺が刻まれ、眉尻がピクリと動いた。
 「彼女が妊娠していると言うのなら、構わないでしょう?」
 美華は妊娠していない──孝昭には、確信があった。
 「いいぜ。病院に行こうじゃねえか。ただし、てめえの女房に報告はするぜ。あんたの旦那が十六の少女が妊娠しているかどうかの検査を受けに病院に付き添うってな」
 「なっ……」
 もがけばもがくほど、強靭な糸に全身を絡め取られ、身動きが取れなくなった。
 孝昭の視界に、停電したように闇黒が広がった。





新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務を経て、現在は都内各所でコンサルタント業を営む。
第7回メフィスト賞受賞作『血塗られた神話』(講談社ノベルス、講談社文庫)でデビュー。他著に『無間地獄』『ろくでなし』(幻冬舎文庫)、『忘れ雪』(角川書店)など。近著に『百年恋人』(双葉社)『日本一不運な男』(中央公論新社)がある。


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