 |
|
|
第一回
『ないものをみる』
 |
目をつむれば
夜になる
いつでも
目をつむれば
そこは夜になった
わたしはいつの日も
わたしが生きる わたしの世界のど真ん中で
瞬きを繰り返している。
昼を、夜を、自分を中心に繰り返す
目をつむれば
夜になる
夜になる前に
詰め将棋を解かなければ……… |
いつからか目薬をさす習慣がついた。とにかくやたらに目が疲れてしまう。目薬は、ひんやりとして、すこしだけ沁みる。涙と、目薬が、一緒になり、目の淵からゆっくりこぼれおちる。それをティッシュでぬぐいながら「目に頼りすぎだよなあ」と思う。なにもかも、目に頼りすぎている気がする。一日中、目を使い、目を通して認識している。目を通して見えたものを、すべてを通して感じているかのように錯覚している。
目薬をさし、そして目をつむる。目をつむると、そこにも見えてくるものはあった。
それは、一日視覚を通して見たもの。心が立ち止まったまま、そのまま放置しておいた意識。その断片的なもの。
夜になれば、眠くなってしまう。それでも寝る前に、わたしは「詰め将棋」を解くのを日課にしている。べつにそんなことしなくても、全然いいのだが、勝手に自分に課している。
しかし、あんまり眠いと詰め将棋は解けない。

「弱いということの確認」
詰め将棋とは、王手、王手の連続で最後は玉を詰ませるゲーム。詰め将棋が強くなれば、将棋もまた強くなると言われている。
最近、わたしは人と将棋を指さすことがないので、これで本当に強くなっているのか?いまいちよくわからないでいる。ひとつの問題に何日もかける位だから、たいして強くはなっていないだろう。と同時に、知らぬ間に恐ろしいほど将棋が強くなっていて、まかり間違えてプロと将棋を指すことになって、勝ってしまったらどうしよう、それはちょっと大変なことになるぞ、いいのか?!と、妄想を膨らませたりもする。
将棋は頭の中で駒を動かすから、何よりも集中力が必要。集中しなければ詰め将棋はまず解けない。紙に書かれた駒をじーっとみながら、次の一手、さらに次の一手を考える。実際には駒を動かさず、頭の中だけでひとつひとつ動かしてゆく。現実にそこにないものを見ている。見て動かしている。そこで見えてくるものは、わたしの凡庸な思考そのものだったりする。現在の、自分の頭の中の限界も見えてくる。
わたしは、かつて将棋で勝ったことはほとんどない。しかもわりと短時間で負ける。すぐ負ける。負けっぱなし…。将棋で負けるとは、はっきりと頭脳で負けていることになる。将棋というゲームは、運で勝つことはない。ビギナーズラックなど到底あり得ない。実力の世界です。
生きていれば「負けるが勝ち」という状況もあるが、将棋で負ければ、それは負け。わたしが弱いから負ける。こんなわかりやすい状況が、わたしの人生にどれだけあるだろうか…。
自分の強さ、弱さを感じることと、勝負の勝ち負けの決着がつくことは、普段生活していてほとんど感じることがない。本当は、感じている。人生負けっぱなしだと実感している。しかし、その負けとは、勝ちに転換できるほど、相当曖昧にすることができる。たとえ負けても幸せならいいじゃない、と言うことができる。勝ちゃあいいのか?という問題も出てくる。弱さとは強さの裏返しとも言えるし、弱さを抱える強さもあるだろう。そう自分に言い聞かせ、なんだかわからないまま、それでも納得さえ出来てしまう危うさがある。こうなると、「負け」ってなんだ?「弱い」ってなんだ?ということになってくる。何をもって勝ち、何に対して負けたのかが分からない。けっきょく価値観ひとつで解決できてしまうことに、自分の人生を、ほとんどを使い果たしてしまっている。その点、将棋はわかりやすい。負ければ、それは「負けた」のだ。はっきりと頭脳で負けている。生き方、人格などは関係ない。関係もあるだろうが、関係ない。
ここに、どんなに考え尽くしても、現在のところわたしには解けない詰め将棋がある。
『将棋世界』付録「珠玉の実戦型詰め将棋」(ほんとうに難しくて死にそうです)
はなっからわたしの限界を超えている問題が、ここにあります…。
11手詰などが、そのいい例だが「こんなもの、駒も使わずどーやって解くんだよ!」呆然としてしまう。
11手詰を、何食わぬ顔で解いてしまう人はたくさんいるだろう。(本当にいるのか?)なにより、こんな難解な問題自体を考え出し、作っている人がいる。将棋の世界を前にすれば、わたしなど「弱い!」とばっさり切られる。はっきり「あなたの負けです!」と「へぼ!」と言われている。弱いから負ける、そのことが具体的に確認できる。はっきりとした弱さが分からなければ、強さの何たるかを知ることができない。わたしが将棋を好きな理由の一つは、まず「弱さの確認」のためではないだろうか?そんな風に最近は思っている。少なくとも強さの確認でないことだけははっきりしている。
さて、わたしの場合、眠いときは「3手目」からもうすでに想定できません。3手目とは「こう打ったら、こう 」その次の「一手」ここで思考が止まってしまうような日は、
相当に眠い
それか身体の調子が悪い
または精神的に、なにか思い煩っている、気がかりなことがある
もしくは基本的に将棋に向いていない
「3手目」とは、精神と身体、その他諸々の不調を知るのにちょうどよいバロメーターとしての役割を担っている。調子の悪い日は、何度やっても、同じ手を繰り返すだけで、それ以上頭の中の駒が動かない。こんな日は、布団の上に将棋本を放り投げ、さっさと眠ることにする。
「目をつむると夜になる」
わたしの身体は、ふわふわなピンク色の敷き布団の上にあり、上からも、ふわふわなピンク色の布団を掛け、ふわふわに挟まれた、とってもふわっふわな状態。やがて意識も途切れ途切れになってくる。
こんな気持ちのいい、ウトウトとした眠りに落ちそうなとき、いきなり身体が「ガクンッ」と落ちるような気がして、目を覚ますことがある。
ふわふわの布団ごと、階段を一段踏み外したような感覚。びっくりして目が覚め、パッと意識が戻る瞬間「3四銀ならず!」
「3四銀不成」
眠りに落ちそうな瞬間に、なぜだか知らないが、3手目がひらめく。
そういうことが稀にある。稀に。
「3四銀不成?」
わたしは枕もとの明かりをつけ、眩しさに目をこらしながら、将棋本を、再度手にとって開く。
「そうかなあ…」
わたしは問題をじっとみる
「2ニ竜→2四玉」
そして3手目の3四銀不成。
すると同玉→4四銀成で本当に詰んでいる……。
視覚を通して、いくら将棋本を睨んでも、眠くてどうしても見えなかったものが、目を閉じたあとの頭の中に展開された。
それでは目を通して見るものには、どんな制約がかかっているの?と思う。
「集中しろ!集中しろ!」と言い聞かせることで、物凄いスピードで遠ざかる「集中力」
将棋本のぺらぺらな紙に見る81のマス目からは、決して飛躍できないものが、ふわっふわな眠りの中間に潜んでいた。目を見開いていては見えない、記憶と、想像力。
目をつむれば夜になる
夜の中に、答えを見ることもある
|
|
|
 |
中村葉子(なかむらようこ)
詩人。1995年山田咲生と雑誌『ドッペルゲンガー』(七月堂)を創刊。同年、中野駅ガード下で自作詩の連載ビラを配りはじめる。生活のなかに無数の現実を探りあてて起爆させる詩の魅力は、一部の詩人、出版人の間で話題となった。2000年、ニューヨーク州・バッファローで『Poem
in Buffalo』と題したビラ活動を展開。2004年、詩集『泣くと本当に涙がでる』(ポプラ社)、2005年9月、小説『トンちゃん』を刊行。私家版に『1993中村葉子』『竹林詩画報』『八日電球』『自由自在スパナ』等がある。 |
*ポプラビーチを読んだ感想をぜひお寄せください。 |
 |
|
|